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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
後日談ほか番外
103/132

もしもあの世で

※死後ネタのセルフ二次です。本編設定とは異なります。

理由は文中にある通り、この世界の“楽園”の在り方が不確定であるため。

エトラムの求めた“完全”こそが正しい死後の楽園であるというのが本編での答えですが、こんな死後の世界もあるかもしれない、あったら楽しいな、という感じで。

(師弟のイチャイチャを見たかっただけという小ネタ)




 あの人にまた会えるなら。





 優しくゆらめく虹の門の手前で、老いた女はふと辺りを見回した。

 何かを探すような視線は、しかし何も捉えられない。曖昧模糊とした、ただ柔らかく正体のない光の海をさまようばかり。彼女はわずかに肩を竦めて虹をくぐった。


 抜けた先は庭園だった。

 見覚えがあるような、ないような。よく馴染んだ場所のようで、確かに初めて訪う庭。


(教会だ。教会の庭)


 理由はないが、そう理解した。自分はここに来たかったのだ、と。

 求めるものがはっきりと意識された途端に、世界の輪郭は鮮明になり、足がしっかりと土を踏みしめる感覚を得る。

 彼女は急ぎ足で歩き出した。周囲にちらちらと視線を配りはするが、行き先は迷わない。


 ――いた!


 緑の木々に溶け込むように、なぜか一本の石柱が建っている。その傍らに佇む人影を認めると同時に彼女は走り出していた。


「グラジェフ様!」


 呼びかける声が明るく響き渡る。振り向いた師の顔が、驚きを浮かべた。

 手を振って走る一歩ごとに、彼女の姿が変化してゆく。色褪せてくすんだ赤い髪はふたたび炎のように輝き、節くれだった手指は瑞々しくよみがえり、司教の祭服は浄化特使の旅装へと。

 グラジェフも笑顔になり、腕を広げて弟子を迎える。


「エリアス! 久しいな」

「グラジェフ様、お会いしたかった……!」


 赤毛の若者は涙まじりの声を詰まらせ、突き倒さんばかりの勢いで抱き着いた。二十歳の頃と変わらない弟子をしっかり抱きとめ、グラジェフは苦笑する。


「なんだ、そなた、何もその姿で会いに来ることはなかろう。私よりも長生きして、ずっと多くを成し遂げたのだから、誉れ高き女司教の姿を見せてくれても良いのだぞ?」

「私にとって、あなたは生涯の師ですから。いつも、いつまでも」

「何を言うか。むしろ今度は私のほうが、そなたに教えを請わねばなるまいに。そなたの人生をかけた研鑽の成果にあずかれるかと、楽しみにしておったのだがな」


 グラジェフはわざと突き放すように皮肉めかして応じたが、それ以上はもう厳めしい態度を保てなかった。慈愛に満ちた笑みを広げ、改めて弟子を抱擁する。


「それはそれとして、……会いたかったぞ、エリアス」


 彼はささやいて赤い髪に口づけ、祝福のしるしを切った。目を細めてそれを受けたエリアスは、笑いを噛み殺す。彼が熱い感情の発露をごまかすために、司祭らしいふるまいを装ったのがわかったからだ。


 思えば最後の別れの時も、師は涙声になりかけたのを無理やり抑えていた。

 もうここは自由な楽園で、二人は監督官と新人の関係でもなく、体面を取り繕う必要もない、なんなら教会の定めだって無視して良いのに。それでも変わらず、グラジェフはグラジェフのままだ。

 エリアスは相手の顔を見上げ、いたずらを企む目つきになった。

 こちらからも祝福のお返しに、唇に接吻してやったらどんな反応をするだろうか。何しろ彼自身が言ったように、もはや彼女のほうが年齢も位階も上なのだ。ありがたき光栄、だとか畏まって受けてくれるだろうか?


 不穏な気配を察したグラジェフが師匠の顔つきに戻り、眉を上げて警戒する。エリアスは堪え切れず小さく笑いをこぼして、相手の頬に軽く唇を触れさせた。

 疑わしげな顔のグラジェフに祝福を送り、身体を離す。それから、胸を張ってはっきりと告げた。


「愛していますよ」


 ただ一人の弟子、かけがえのない導きを授かったエリアス青年として。師の教えを伝え遺そうと生涯を捧げた女司教エリシュカとして。

 彼に対しては様々な想いがあるけれど、要約すればただ一言、それだけだ。


 グラジェフはつかのま複雑な表情で沈黙したが、じきに納得してうなずいた。


「うむ、そうだな。そう言っても構うまいよ。むろん私も、そなたを愛している」

「ええもちろん、知っていました!」


 打ち寄せる幸福の波そのままに、エリアスは朗らかに笑う。地上に生きていた頃は決して見られなかった、屈託のない弟子の姿に、グラジェフもまた満ち足りた笑みを浮かべた。


「言うようになったな。そなたに会えたらあれもこれも聞かせてもらおうと考えていたが、この調子では予想より随分と楽しいことになりそうだ」

「私こそ、あなたにお会いしてご意見を伺えたら、と何度願ったことか! ええ、地上にいる間に片付けきれなかったことが沢山あるんです。ぜひお知恵を」


 意気込んで身を乗り出した途端に、二人の間に懐かしい学院の長机と堅い椅子が現れる。グラジェフが呆れて仰け反った。


「そなたときたら、楽園にまで悪夢を呼び込むか! 主のお怒りに触れて追い出されてしまうぞ」

「悪夢だなどと、ご謙遜を。そうだ、それもやり残しのひとつですよ、“懲罰する神”についての論考」

「うん?」

「そもそも最初期の教義において、我らが主は罰する神ではなかった。ご存じでしょうが、一部の人間の無知と傲慢が円環の断裂を招いたのであって……」


 話しながら椅子に腰を下ろすと、求める資料が机上に現れる。グラジェフも向かいに座り、さっそく古文書を一通開きつつ言葉をつないだ。


「愚かな振る舞いに怒った神が、罰として円環を損ねたのではない。まぁ理の当然ではあるな。初めて公式文書において『主の怒り』に言及したのは二百年代の教皇……確かチェスラフ二世」

「『改悛の鐘』ですね。当時の教会幹部に早々と贈収賄などの不正腐敗が見られたため、綱紀粛正のため発布された」


 論拠を示そうと手を伸ばせば、すぐに書物や書簡が当該箇所を開いてくれるもので、二人はあっという間に資料の山に取り囲まれ、議論はどんどん熱くなっていく。

 そうして疲れも渇きも感じないまま、夢中になることしばし。一区切りついて、エリアスは満足のため息を吐いた。


「ああ、本当にここは楽園ですね」


 こんな幸せがあるなんて、としみじみ感慨にふけった彼女に対し、グラジェフは昔と同じ、軽く揶揄する声音で言った。


「さて、わからんぞ」

「えっ?」

「そなた同様に私も、確かに幸福で満ち足りている。今はな。むろんそなたが来るまでの間も、なんら苦痛はなく平和であったが――しかし“今”とは違う。変化が生じるということは、すなわち完全ではないということだ」

「それは……そう、ですが」

「愛し合う者とは言っても“他者”がおり、“時”がある。であれば、齟齬も欠失も生じ得る。そんな場所が果たして本物の楽園と呼べるかね」

「教義に記される楽園とは、そのような場所ではありませんか。他者の魂や時の流れがあろうとも、すべてが神の調和のもとにあるならば、まったき幸いの園であると」

「そうだな。実際に楽園で過ごした経験があるでもない、地上の人間が記した教えによれば、だが」


 さあ、どう答える? ――そう挑むようにグラジェフは腕組みし、弟子の返事を待つ。エリアスはしかめっ面になって、今さら胡散臭げに辺りを見回した。


「もしかして私は、夢でも見ているのでしょうか。実はまだ生死の境をさまよっていて、この楽園は『だったらいいな』という私の願望にすぎないとか」


 正直に、落胆と心細さを浮かべて師を見つめる。こんなにも温かく確かな存在であるのに、己の心が生み出したまぼろしの偽物なのだとしたら、残酷すぎる。

 だがありがたいことに、グラジェフは愉快げに哄笑した。


「そのような夢に私を登場させてくれるとは、光栄の至りだな! いや、すまぬ。意地の悪い問いかけだった。正直なところ私にも、答えはわからん。ここがまさしく神の御許であるのか、あるいは似て非なる別な階層の霊界であるのか。いずれにせよ、そなたと共に探究してゆけるのなら、楽しき幸いの園には違いあるまいよ」

「――はい!」


 エリアスは笑顔で深くうなずいた。

 そうだ、ここが楽園でないはずがない。そもそも聖典の『楽園』とて、人間が人間にとっての幸いを“このようなもの”と定めて名付けたにすぎないではないか。

 この場所にも他者がいて時があるなら、いつか別れも終わりも訪れるのだろう。だが恐らく地上のそれとは違って、平穏と喜びに満ちたものであるに違いない。

 だから、今は。


「では、次の問題に取りかかりましょう」

「うむ。よろしく教導お願いつかまつるぞ、司教殿」

「やめてくださいよ、あなたにものを教えるだなんて緊張してしまう」


 ――ただひたすらに、楽しい時を。



2021.1.11



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― 新着の感想 ―
[良い点] 微笑ましい。 ほっこりする。 [一言] キャラにそれほど思い入れがないので、感想らしい感想にならないなぁ。読むときはストーリー重視だから。 エリアスについて言えば、この楽園に来た時点で…
[一言] どこまでも楽しそうな問答をする師弟であり、想い合う男女であり いい感じの熟成期間を置いて再会した二人のこれからが ずっと幸せでありますようにとしみじみ思いました。(〃∇〃) かなり経験を積…
[良い点] 夢でも幻でもいい……! こんな瞬間が未来にあるのだと、信じられればそれで泣きたくなってしまうのです。
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