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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
後日談ほか番外
101/132

悪魔の腹が満ちるまで(後)

(承前)





 それからまた、長い年月が過ぎた。


 世界は少しずつ前へ進み、教会による秩序が広く浸透して、外道や悪魔は人間社会の周縁に押しやられた。むろん脅威ではあり続けたのだが、それは“常に在る・対処可能な”ものとされ、政治や生活のほうが優先されるようになっていったのだ。


 遅々とした歩みの陰で、相変わらず、苦悶と悲嘆と絶望はあらゆる人生につきまとった。悪魔の獲物はいちいち探すまでもないほどだったが、エトラムは次第に倦んでいった。

 かつてツェファムに冗談を言いはしたものの、そもそも軽やかに世を渡る者が救いを求めて叫ぶはずがない。幾百、幾千の人生はあまりにも同じ苦渋の味ばかりで、喰らうほどに霊力のからだは重くなり、感情も関心も麻痺していく。


 いつしかエトラムは救いを求める声に応えず、むしろそれらの届かぬ地へと退き、茨森の奥深くに引きこもってしまった。霊力の澱み、さまざまな歪みが打ち寄せられる暗がりにおいて、人間たちの些末で弱い意思の存在する余地はない。


 ――このまま、世界の終わりまで待とうか。


 まどろみに似た倦怠の沼に浮き沈みし、みずからの裡に溢れる『救いたまえ』の大合唱に鉛の蓋をして、何年、あるいは何十年過ぎたか。

 不意に空間がよじれ、『通廊』が開いて暗闇を吐き出した。


《ここにいたのか。捜したぞ、エトラム》


 数多の声がまじりあい反響する、古い悪魔の語りかけ。エトラムはうっそりとした意識をそちらへ向けた。もはや人の形をしていない暗闇が凝っている。深く濃く渦巻き蠢く阿鼻叫喚の底に、かろうじて残っている人格を探り当て、エトラムは何とはなしに嘆息した。


《……ああ、その気配には覚えがあるが……ずいぶん変質したな》

《お互いにな。どうした、炎熱の大悪魔ともあろうものが、すっかり冷え切って泥のようじゃないか》

《その呼び名はやめてくれ。人間たちが勝手に呼んでいるだけだ》

《そうか? いろいろと耳にしたぞ。敗軍の将に取り憑き、砦をひとつ灰燼に帰したとか。死に際の老人をたぶらかして魂を奪い、村ごと火の海にしたとか》

《あれは事故だ》


 やれやれ、とエトラムは返事をする。近頃は言葉を紡ぐことも億劫になった。


《ひょっとしたら、肉体の死を共有すれば……わたしも逝けるか、などと。つまらぬことをした》


 陰鬱なぼやきを聞いて、ツェファムが笑った。おかげでエトラムも少し、面白がる、という感情を呼び起こす。



 あの頃は、自分でもどうかしていたと思う。

 疫病が発生した村で、瀕死の老人が喘ぎ喘ぎ願っていた。主よ、どうか一刻も早く御許へ召し上げてください、この苦痛を終わらせてください、と。

 エトラムは老人の願いを叶えてやる代わりに、その弱り切った身体を手に入れ、息絶える瞬間に便乗しようと考えたのだ。


 結果は散々だった。

 千年前ならいざ知らず、膨大な霊力を溜め込んだ大悪魔なのだ。もはや寿命の限界に達している器が、そんなものを受け入れられるはずがない。苦痛を取り去るという願いと引き換えに、老人の肉体は粉々に吹き飛んでしまった。


 そのせいで、既に疫病に大半汚染されていた村は、もはや救いようがなくなった。だからエトラムはすべてを焼き払ったのだ。下手に体力のある者が、死に冒された村から逃げ出して近隣へ疫病を運んでいく前に。


 ――これ以上『助けてくれ』が地に溢れるのは、死んでもごめんだったから。



《たぶん……あまりに死が多すぎて、判断力を失っていたせいだ》

《悪魔の食あたり、か。教会の連中が聞けば手を叩いて喜ぶぞ》

《経験は?》

《ないな。ない。おまえは憐れみ深すぎるんだ》


 ツェファムは傲然と笑った。エトラムはそのことに鈍い不快を感じる。同じだけの年月を“生き”て、恐らく同等程度の霊魂を喰らってきたのだろうに、あちらはまだ笑うことができるのか。むろん、明るくも軽快でもない笑いだが、それでも。


 何が違ったのだろう。

 そう訝りながら相手を見つめていると、不意にツェファムはこちらへ身を乗り出した。


《こんな所で引きこもっていないで、おまえも来い。もっと楽しく、人間どもの願いをかなえてやろう。欲望を剥き出しに、欺き、陥れ、相争わせてやるんだ。血溜まりのなかで『ちくしょう騙された』とか罵りながら力尽きる敗者を踏みつけるのは、気分がいいぞ》

《……そうか? わたしには、あまり愉快には響かないな》

《いいから、一緒に来い。おまえだってもう、うんざりだろう。そもそも我々がまともな世界から弾き出されたのは、手前勝手な絶望を、無謀で傲慢な来世への希望と結び合わせた馬鹿どものせいだ。それで世界を一度滅ぼしておいて、もう千五百年ばかり経つというのに何ひとつ挽回できず、全部“悪魔”のせいにして、相も変わらず好き勝手し放題。だったら》


 語りかけが熱を帯び、闇に灯る両眼が燃え上がる。周囲の木々が唸り身をよじらせた。


《そうとも、奴らの願いを叶えてやろうじゃないか。望み通り、富も地位も愛情も支配力も、むしり取って奪い取って懐に入れさせてやろう。なあエトラム、馬鹿どもが殺し合うのは楽しいぞ! 奴らはそれが、正義とか義務とか名誉とかいった、崇高なものだと本気で信じているんだ。あるいは愛だとか! ははは、愛だと!》


 何を思い出したのか、闇がのけぞって哄笑する。エトラムは黙っていた。まだ笑える余裕があると思ったが、どうやらやはり、相手もある種の限界に近付いているらしい。この再会がもたらす結果を漠然と予感する。


 ツェファムがさらに身を寄せてきた。


《おまえも来い。ふたりで地上を本物の地獄に変えてやろう。もはや天上の神々のもと――今風に言うなら“楽園”に、我々は入れないというのなら、悪魔の棲み処が地獄の底だというのなら、なあ》

《断る》


 冷ややかな一言が、炎に水を浴びせる。ツェファムの放つ憎悪の熱が、冷たい敵意へと変化した。エトラムは来るべきものに備えながら、ゆっくりと言葉を重ねた。


《興味が無い。確かにうんざりしているが、だからこそ、もう何も関わりたくない》

《……ああ。ああ、そう言うだろうと思った。お利口な巫女様のことだから、そう――》


 つぶやくような返事の途中で、ツェファムはいきなり襲いかかってきた。すべてを呑み尽くさんと、暗闇の顎を開いて。

 しかし急襲は無意味だった。

 至極単純な、力比べ。喰らった霊魂の質と量において勝る側が、劣るものを取り込んでゆく。あたかも自然の現象のごとく、抵抗も遅滞もなく。


 結果は最初から見えていたはずだった。


 かつてない規模の霊力を呑んで、エトラムはしばし混乱した。ツェファムが歳月をかけて喰らい続けてきた魂は、己の選択とはまったく違っていて、味わいも、見える景色も、衝撃と動揺をもたらした。


 ――ああ、そうか。わたし(おまえ)が絶望を喰らったように、おまえ(わたし)は欲望を喰らったのか。


 自我が溶けて混じり、記憶と感情がもつれ合う。

 貴族の暮らしが癖になりそう、と言った元娼婦は、あれからずっと、富貴な人々の間にはびこる“願い”を漁ってきたのだ。


 此岸で絶望の嘆きが地を覆い、助けてくれもういやだ死にたい死ね疲れた苦しい悲しい、踏まれて這いずる人々がいる一方で。

 同じ大地の続きにある彼岸では、欲望の叫びが地を焼いていた。もっとだもっと寄越せ足りない虐げたい支配したい奪いたい愛されたい見返したい奴らこそ悪だ邪魔だ……


 ――彼女のためだ、これが彼女のため。愛している愛しているそうだ彼女を守りこの手に庇護しなければ……


 直近の記憶が、まだ鮮やかな強さをもって意識をよぎっていく。エトラムは悶え、声もなく泣いた。

 どれもこれも、なんと醜く傲慢で強欲な“願い”だ。浅ましく身勝手で排他的。踏みつけ虐げた者の骸に根を張って競い咲く、禍々しい徒花の群れ。


 絶望が叫ぶ。欲望がおめく。真逆を向いて同じ願いを。


 ――救いたまえ、救いたまえ、我らをこの地獄から……





 やがて大悪魔は、静かに立ち上がる。

 人間の相反する絶望と欲望を抱き、神のごとき霊力を持ちながら、どの人間よりも人間を知るものとして。


 ゆらゆらと闇が人の似姿を取る。ふっ、と小さな、笑いを含んだ吐息が漏れた。


《ああ、……いいとも。共に行こう》


 つぶやいて、それは天を仰いだ。

 ねじくれ絡み合う枝と縮れた葉の隙間から、微かに光が射してくるのを、久しぶりに心地良く吸い込む。

 もう後が無い。漠然とそう感じた。これほどの霊力が地上にひとかたまりで存在するのは、世界の理の限界に近い。

 そのうち自分にも運命が訪れるだろう。それがどんな形をしていて、どんな結果をもたらすのか、もはやどうでも良い。ただ、もう少しだけ、と思うと不意に身軽になった気がした。


《一度ぐらい楽しもうじゃないか。なあ?》


 誰かへの伝言のようなささやきを残して、闇はゆっくりと地面に沈みこんでゆく。

 そうしてエトラムは、最後の旅路についた。




(終)

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― 新着の感想 ―
[良い点] この無限に増大する絶望を背負って、よくぞ望みの地まで辿り着くことができたなぁと、本編を改めて振り返って思うのです。 ここまで苦しみながらも、カスヴァさんの差し伸べた手に救いの一条を見ること…
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