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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
後日談ほか番外
100/132

悪魔の腹が満ちるまで(中)

(承前)





 戦争。飽きもせず繰り返される人間の業。

 その地の戦も代わり映えしない、土地だの利権だの、実際には何もしていないうちからの疑心暗鬼だの、そういうもので始まり、誰も引き際がわからなくなって泥沼化している戦いだった。


 男はいわゆる貴族だった。まとまった領地を所有し、財産もある、名の知れた家柄だ。ゆえに敗者となった今も、身代金を取るため、牢につながれていた。


 じめじめと黴臭く不潔な石壁に囲まれて、男は狭い牢内をうろうろ歩き回っている。痩せこけ、伸び放題の髭に覆われた顔には、不安と焦燥がくっきり表れていた。

 いつもの彼はこうではない。

 不自由な身にあっても努めて平静を保ち、共に囚われた従者をいたわる、誇り高い男だ。それが今は独り、理性を失した獣のように唸り、罵詈と呪詛と祈りを交互につぶやいている。

 そう、独り。

 従者はいない。連れて行かれてしまった。敵兵の嘲りが牢に木霊する。

 飯の食わせ損にならないうちに、もらえるもんはもらっとくよ――そんなことを言っていた。


(身代金の要求が拒否されたのか? そんな馬鹿な)


 彼自身が手紙を書き、金を用意するように指示したのだ。当主の身柄を解放するのに必要な金を、誰が渋るというのか。


(あいつか、それともあいつか? いや、まさか。あるいは館を空けている間に……)


 家令、妻、息子やそのほかの身内たち。次々と疑わしい顔が脳裏をよぎる。彼は激しく頭を振って、歯を食いしばった。

 そんなはずはない。皆、まっとうな者ばかりだ。何か行き違いがあっただけ、きっとそうだ。


「もう一度……もう一通、書き送れば」


 彼の願いは敵方にとっても同じだった。男ひとりの命より、金貨や銀貨、物資食糧のほうがよほど価値がある。でなければわざわざ捕虜になどしない。

 だから彼を牢から引き出し、もう一度催促の手紙を書け、と命じた。本物である証を添えて送ってやるから、と――従者の(むくろ)を床に転がして。


 男は愕然となり、己の立場も状況も忘れて、少年のかたわらに崩れ落ちるように膝をついた。徹底的に嬲られ虐げられたことが明らかな、無残なありさまだった。

 衣服は剥ぎ取られ、細い身体はくまなく血と痣に覆われていた。形の残っている指は一本もなく、歯が折れ鼻は曲がり、虚空を見上げる眼球も赤く染まって。


「どの部分を手紙に添えてやれば、あんたの身内はカネを払う気になるかね?」


 残酷な揶揄が頭上から降ってくる。

 男の視界が熱でぼやけた。頭の芯が痺れ、あらゆる感覚が遠のいて、ただ言いようのない熱が腹の底から迫り上がって内から身を灼いてゆく。


「……神よ」


 ぽつりと声がこぼれた。

 同時に双眼から大粒の雫が落ちる。敗者の涙を見て、取り囲む者たちが嘲笑したが、もはやそれも彼の耳には届かなかった。聞こえるのは轟々と流れる血潮の音ばかり。


 神よ、なぜこのような暴虐をお許しになるのか。この若者がいったい何をしたと思し召すか。まだ罪も知らず、《聖き道》に背くこともなく生きてきたというのに。

 神よ、我らが主よ、……否、


「悪魔よ!! 答えろ、貴様の所業か! 呪われろ!!」


 魂を振り絞る憤怒の叫びも、血に酔いしれた者にはまったく痛痒を与えない。笑いがいっそう大きくなる。

 胸の悪くなる悪意と血臭の渦の底で、男は再び喚んだ。


「悪魔よ! かほど暴虐を為すならば、主の御光(みひかり)を遮り闇をもたらすというならば、いっそすべて焼き払うがいい! この地を地獄の業火にくべてしまえ、引き換えに我が身と魂をくれてやる!!」


 敗者の悲嘆を面白がっていた声が、突然ふっつり途絶えた。

 誰もが竦み、息を飲む。無意識に予兆を感じて。

 次の瞬間、それは巨大な闇の人影となって現れた。


《願いは聞いた》


 炯々と燃える目だけが、闇の中に浮かぶ。部屋を埋め尽くし天井につかえるほどの闇は、ただ巨大というだけでなく、圧倒的な重さを持っていた。

 人間たちが凍りついている間に、闇は男の中へ吸い込まれるようにして入り込む。


 ひと呼吸の後、その身体を取り巻いて火柱が立った。


 逃げるどころか悲鳴を上げる猶予もなく、室内の人間は一瞬で灰になる。石壁は灼熱し崩れて砕け、梁は焼け落ちるより早く塵になり火の粉となって舞い上がった。


 異変に気付いた人々が逃げ惑うのを、炎が容赦なく追い立て飲み込んでゆく。

 男――悪魔エトラムは、喜びに震えながら、業火のなかをゆっくりと歩んでいった。


 思うさま霊力をふるい、偉大なるいにしえの炎によって地を浄める喜び。喰らった魂の復讐心を叶える満足。

 崩れた砦を後にして、彼は周囲のものをさらに火の神への供犠にせんと見回した。かろうじて死を免れた人々が、我先に逃げてゆく。それを導き、守る者がいた。


 司祭だった。

 秘術で延焼を――滑稽なほど微々たる効果しかないものの――遅らせ、熱を防ぎながら、声を嗄らして呼びかけている。右往左往する人々を呼び集め、あちらへ逃げろと道を示し、それも理解できない子供には駆け寄って手を引いてやり。一人でも救おうと懸命に、死に抗っている。


 ふとエトラムのうちに、男の誇りと理性、敬虔さがよみがえる。

 一帯すべて、むろん教会も含めて焼き尽くそうとしていた炎の勢いが止まった。


 司祭が敏感に変化を察知し、空を仰いで感謝をつぶやく。それから彼はこちらを振り向き、悪魔の姿を認めてぎょっとなった。

 銀環を握りしめ、後ずさりかけて踏みとどまる。


「そなたは捕虜の……、これはそなたの仕業か!」


 どうやら男の身元を知っていたらしい。伯爵、と呼びかけた司祭に、悪魔は失笑した。


「もはやその男は地上に存在しない。我はエトラム、いにしえの炎に仕える者。絶望の叫びに応え、この身と魂を貰い受けた」

「悪魔……!」

「いかにも。なんだ、司祭よ、まさか立ち向かおうというのか? やめておけ。この男の魂の欠片がまだ残っているうちに、逃げるがいい。彼がおまえたちの神を信じていなければ、このように言葉を交わすこともなく焼き尽くしているところだぞ」


 司祭はわななき、唇を噛みしめてうなだれる。最後に一度だけ怒りのまなざしを放ち、身を翻して走り去った。



 ――当時まだ浄化特使なるものが存在せず、エトラムも己の名を告げることに、さほどの危険を見いだしていなかった。喰らった男の、貴族らしい格式張った礼儀正しさに引きずられたようなものだ。

 結果、この事件は恐怖をもって記録され、“炎熱の大悪魔エトラム”の名がいっとき巷間に流布することになった。



 ともあれ、まだ先のことは知らぬ悪魔エトラムは、敵の拠点を焼き尽くした後、とくに当ても望みもなかったので男の故郷に赴いた。なぜ身代金が届かなかったのか、確かめて納得しておきたかったのだ。

 だが帰り着くより早く、答えの方がやってきた。


「お久しぶりね、あ・な・た」

「……ご同輩か。以前に会ったかな」


 領地の南端近く、冬の別邸がある町で、男の妻が待っていたのだ。町に入って間もなく呼び止められ、寄るつもりのなかった別邸へ入ってみれば、まるきり悪びれない妻が現れたのである。

 とはいえ、中身が既に別の存在であることは、悪魔同士、すぐにわかった。


「いやん、つれないこと言わないで、旦那様。あなたの愛しい子鹿ちゃんじゃないの。……冗談はこの辺にして、ねえあなた、ちょっと派手にやりすぎよ。領主様が悪魔に憑かれた、ってこっちまで知れ渡ってきちゃって、あたくし屋敷を追い出されちゃったわ」

「身代金の支払いを渋るからだ」

「あら、まあ、やっぱりそのせい? んもう、あたくしは反対したのよ。そりゃあ、使い込んだのはあたくしで、金庫がすっからかんなのは承知だけど、大事な領主様のためならなんとでもやりようはあるじゃない? その辺の流れ者や適当に余ってる農民を捕まえて、戦地に売ってしまえば工面できたわよ」


 女は無邪気に笑い、夫の眉間に寄った皺を、おどけた仕草で伸ばした。


「まったく、元から真面目な巫女様だったけど、その身体と魂のせいで随分とカタブツになっちゃって。本当に覚えてない? あたしよ、ツェファム。葦の仮屋に咲いた薔薇、歌って踊れる夜の蝶」

「ああ!」


 エトラムは思い出し、一拍置いて笑みをこぼした。多くの魂の地層に埋もれた本来の自分が、隙間を縫って浮かび上がる。


「あなたでしたか。久しぶりですね」

「本当、ご無沙汰。次は食事を一緒に、なんて言ってたけど……そうね、お互い今は肉の身体があるわけだし。人間流にしましょ」


 ね、と笑ってツェファムがいざなう。

 何も知らぬ者が傍から見れば、仲睦まじい夫婦そのものの風情で、ふたりは食卓を共にし、歓談した。もっとも、会話の内容はやはり悪魔的ではあったが。


「随分な目に遭ったのねぇ。そう、あの子、そんな死に方をしたの。可哀想に」

「うん。先に彼の叫びに引き寄せられてな。だがもう正気を失して死にかけていたから、少し待って出てきたところを食べた」

「死んでも続く苦しみから救ってあげた、ってわけね。さすがは巫女様。カタブツ旦那と相性が良いのもうなずけるわ」

「巫女様はよしてくれ。しかし、そなたのほうは正直なところ意外なんだが。いったい何故? 私はそんなに駄目な夫だったか」


 肉体の元の持ち主らしさを優先するエトラムに、ツェファムは嫌味のない朗らかな笑声を立てた。


「そうじゃないわ、ご心配なく。あなたはとっても出来た旦那様。でも仕方ないのよ、あたくしは誘惑に弱いから。宝石をちりばめた華やかな首飾り、繊細な金細工の指輪、鳩の卵ほどもあるような翡翠! あれも欲しいこれも欲しいって思っていたの。他人の胸を飾るブローチの見事なこと、それに比べて自分の持ち物はなんてみすぼらしいのか、って。溜まり溜まった願いを、あなたがいない間に叶えたかったんだけど……義弟君おとうとぎみが怖くって」

「なるほど。見付からないように蕩尽とうじんしたい、という願いだったのか」


 可愛らしいものだ、と男が苦笑する。領主夫人は意地の悪い笑みを浮かべ、口元についた汚れを拭うふりで、赤い唇を蠱惑的になぞった。


「嫌ですわ、旦那様。せっかく宝石を手に入れても、こっそり隠しておくだけでは意味が無いでしょう。身を飾り、美しいと称賛されてこそですわ。相応しく装い、褒めそやされなくては。でもあたくし、殿方を誘惑するなんて自信がなくって。下手をして余計に怒らせたりしたら、怖いですもの。だからね、助けて欲しかったの」


 うふん、と甘えた吐息を漏らして誘う仕草を見せる。男は虚を突かれた顔をし、それからやれやれと天を見上げて「おお、主よ」とつぶやいた。途端にツェファムが笑いだす。


「やめて、笑っちゃうじゃない。あの馬鹿連中がでっちあげた神に、人を救う力なんてあるものですか。ええ、現に可哀想なあたくし一人、なんの救いも導きも、赦しすらも与えられなかった」


 そこまで言ってふっと表情を消し、目を伏せる。感情のこもらない平坦な声が、ぽつぽつとつぶやき続けた。


「可哀想なあたくし。自分には価値がないと思っていたの。立派な家に嫁いだのに、旦那様と違って教養も知性もなく、信心も足りない。ただ美しい花としてあなたの自慢になりたくても、生まれ持った容姿は十人並み、手持ちの衣装や装身具も野暮ったくて駄目。子供を産んでいれば違ったでしょうに、それもなくて。……だから、誰かに認められたかった。あなたは素晴らしい、美しい、あなたと出会えて幸せだ、そう言って欲しかった。……ふふ、まったく弱くていじらしいわよねぇ?」

「妻にそんなわびしい思いをさせていると夢にも思わなかったこの私も、立派な旦那様どころか、たいがい愚かで独善的だがな。自己評価というやつは始末が悪い」


 エトラムは冷淡に“自己評価”すると、後味の悪さを流し込むように、葡萄酒の杯を呷った。ツェファムが陽気さを取り戻して、軽口を叩いた。


「まぁでも、悪魔あたしと取引したおかげで、少なくともあたくしは良い思いをしたわよ。ちゃんと願いは叶えてあげたもの。あたしも久しぶりに着飾ったり贅沢したり、楽しませてもらったわ。貴族の暮らしっていろんな意味で面白いわね、癖になりそう」

「詳細を知ったらこの身体が憤死しかねんから、聞かずにおくが……まあ、楽しめたのなら良かった。我々を喚ぶ者は、だいたいろくでもない状況にあるからな」

「相変わらず真面目ねぇ。旦那様みたいなカタブツを食べるから、ますますそんなになっちゃうのよ。そりゃあ実際、ろくでもないのはその通りだけど、それを逆手に取って美味しい思いをしたっていいじゃない? あたしたちだって“生きて”いるんだもの、楽しまなきゃ。もっと軽ぅく生きましょうよ」


 肩を竦めたツェファムに、エトラムは苦笑しただけで答えなかった。返事のかわりに席を立ち、テーブルを回って妻の傍らに行くと、別れの挨拶として額に軽く口づけした。


「久しぶりに美味な食事だった。ありがとう。ゆっくりできなくて残念だが、もう失礼するよ。噂が知れているのなら、長居せぬほうが良かろう」

「……そうね。あたくしはもう結構堪能したけど、ここで夫婦揃って焼き討ちされるなんてつまらないし、あなたもその身体で少しは自由にやりたいこともあるでしょ。ええ、名残惜しいけど、さようなら」


 ツェファムはおどけた口調で応じ、立ち上がりもせずひらひら手を振る。瞳に浮かぶ切なさまではごまかせていなかったが、それでも彼女は明るく言い添えた。


「次の相手は、ちょっと選びなさい。また陰気な魂を食べちゃ、おなかに石を詰められた狼みたいに動けなくなっちゃうわよ。難しいだろうけど、少しは陽気なのを探すのね」

「あなたのような?」


 エトラムが何気なく軽口を返すと、ツェファムは一瞬硬直し、それから大袈裟に身震いした。


「やだ、こわ~い! んもう、たまに冗談を言ったかと思えばこれなんだから」

「すまないな。もしまた会う機会があれば、少しは学びの成果を披露できるように、道化者の魂でも探すよ。それじゃあ……元気で」


 最後の一言は、どうにも妙な気分にさせられた。ツェファムも同じだったらしく、複雑で皮肉な苦笑いになる。


 そうして二人の悪魔は、ふたたび歴史の影に沈んでいった。




(続く)

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