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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第一部 主の御手が届かないなら
10/132

4-2 山小屋の母娘

  ※ ※ ※


 ダンカの家は斜面が一部平坦になっているところに建っており、下から登ってくる人間からは見えにくかった。柔らかい草に覆われて消えかけの道を辿り、きつい坂が終わって一息つくと、目の前には花咲く憩いの平地と小屋がある。天国か、というわけだ。


 グラジェフはほっとして足を止め、辺りを見渡した。小屋の横には湧き水がちょろちょろとせせらぎになって流れ、それを挟んでつましい畑が広がっている。周辺の草原には白や黄色、薄紫の可憐な花が風にそよぎ、放し飼いの鶏がのんびり地面をつついていた。

 小屋は古い丸太造りで、屋根は樹皮を剥いだもので葺き、重石を載せてある。側面にくっついている石造りの狭い部分は、台所だろう。街とはかなり趣が違う。


 しばし遅れてエリアスも到着し、肩で息をしながら周囲に目を走らせる。態度から少し棘が取れてきたようだが、さりとてあまり気遣って甘い対応をするのも、監督官としては不適切だ。グラジェフは素っ気なく問うた。


「何か視えるかね」

「……いいえ」

「私にもここからは(しるし)がわからん。ということはすなわち……」

「悪魔憑きでない可能性がありますね」

「そうだ。悪魔がいるとしても、まだダンカと契約してはおらず、接触して知識を授けただけの段階であるかもしれんな」


 グラジェフは満足してうなずいた。悪魔が既に人間に憑き、活動しているなら、その痕跡がどこかに残っているはずだ。

(間に合えば良いのだが)

 子を喪った哀れな女のためにも、手遅れでないように願う。契約さえしていなければ、魂はまだ損なわれていないから救われる。

(主よ、どうか)

 祈りながらゆっくり小屋へ歩を進めたグラジェフは、ややあって呻きを漏らし、天を仰いだ。小屋の陰になっていた畑から、女が現れたのだ。銀色の薄い光をたなびかせて。


 エリアスが小さく息を飲むのが聞こえ、グラジェフはつい枢機卿を恨んだ。これほど悪魔殺しに執念を燃やす若者が一緒では、見逃してやることなど不可能ではないか。

 無自覚にそう考えてから、彼は苦い自嘲を唇の端に浮かべた。


(見逃してやるつもりだったのか。悪魔の相手はもう疲れたか。老いたものだな、ええ?)


 そうではない、悪魔を見逃そうというのではない。ただあの女が哀れだというのだ。深い悲しみを悪魔に利用され付け入られた女を、さらに苦しめようというのか……


 自問自答しながら、グラジェフは女のほうへ歩いてゆく。振り向いた女は、幼児のようにあどけない表情でぽかんとした。二十歳ほどと思しき身体に不釣り合いな子供っぽさ。波打つ金髪は結いもせず風にもつれるがままで、碧玉の瞳は真正面を見ていながら、どこにも焦点が合っていない。本来はさぞ美人だろうに、装いと振る舞いにあらわれた狂気がすべてを台無しにしている。

 グラジェフが無念を隠して微笑みかけると、女はぱっと花が開くように笑った。


「あら? あらあら、こんなところに誰かしら。ようこそお客さま、ニワトコのお茶はいかが? お豆のスープは熱々、よぅく冷まして召し上がれ」


 節をつけて歌いながら、くるりと回ってスカートをつまみ、お辞儀する。グラジェフは穏やかで親しげな表情を保ち、五歩ばかり手前で立ち止まってお辞儀を返した。


「これはこれは奥方様、心尽くしの歓迎、痛み入る。ダンカ殿であられるかな?」

「うふふ。ダンカはだぁれ? あたしはだぁれ? 母さん、父さん、お客さま!」


 笑いながら女は芝居がかった仕草で小屋に呼びかけ、ひらりと身を翻して走り去る。楽しげな歌声を残し、せせらぎを飛び越え、畑の向こうの木立を目指して。

 入れ替わりに、小屋の扉が開いて別の女が現れた。先の女の未来の分身かと思うほど似ている。母親なのは間違いなかった。疲労の暗い影を背負い、疑いと警戒もあらわに二人の来訪者を窺い見る。どちら様、と問いかけもしない。


 グラジェフは外套の前を開けて銀環を見せ、そこに手を添えて一礼した。

「失礼、ダンカ殿の母御でいらっしゃるか」

 相手が司祭と知って、途端に女はほうっと深い安堵の息をついた。ぺこりと頭を下げ、遠くの娘を一瞥してから答える。

「娘のことで、こんな所までおいでくだすったんですか。ええ、あたしがあの子の母です。ああ……お話は、こっちで」


 どうぞ、と手招きして、女は小屋の横手に置かれた簡素なベンチに二人をいざなった。丸太を割っただけのものだが、中よりも外のほうが明るくて広いから、というのだろう。

 グラジェフは勧められるまま腰かけた。隣にエリアスが崩れるように座り込み、大きく息をついて鞄を下ろす。グラジェフも自分の荷物を足元に置いた。彼にとっては何年も持ち歩いて慣れた重みだが、新人にはまだつらかろう。


 母親はいったん小屋に戻り、不揃いの椀に水を汲んで戻ってきた。

「どうぞ。器はこんなんですが、水はそこの湧き水ですから美味しいです」

「かたじけない。主よ、親切なご婦人に祝福をたまわりますように」

 グラジェフは畏まって受け取り、ありがたく喉を潤した。歩き疲れた体に、新鮮な清水は何よりのごちそうだ。二人の司祭が甘露を堪能している間に、女は近くの切り株に腰を下ろした。


「ジアラス様からお聞きになっているか知りませんが、あたしはベルタ、あの子はダンカといいます」

「これは失敬。私はグラジェフ、この若者はエリアス。聖都から参った。ジアラス殿からダンカ殿のことで相談を受けたのでね。なんでも、子を喪ってから教会に来ず、どこで聞いたのかわからない話を皆に教えているとか」


 いきなり悪魔がどうこうとは切り出さず、ひとまず穏便に話を持って行く。ベルタはふうっとため息をついて、力なくうなずいた。


「あの通り、すっかり気が触れちまいましたよ。それでも、いっとき泣き暮らしていたのに比べたら、本人が笑っているんだからもう良いかと……。あの、失礼ですけども、司祭様ならあの子を正気に戻したりできなさるんですか。あたしだって毎日欠かさず朝も晩も神様にお祈りしました。教会にも行きました。ジアラス様は、主はお聞き届けくださる、っておっしゃいましたけど、いつになるのか」


 そこまで言って涙ぐみ、目頭を押さえる。ようやく落ち着いたんだからもう放っておいてくれ、どうせ助けられないんだろう――言外に滲み出る本音が痛々しい。

 グラジェフはいたわりを込めて話しかけた。


「すべては主の御心のままに。ベルタ殿、人が正気でいられる幅は、存外に狭い。深い水に取り囲まれた細い細い橋を、支えもなしに歩いているようなものだ。一度落ちてしまった者は、残念ながら我々の力では助けられない。どうにか橋に引き上げられても、元通りに立って歩けるまでにはできないのだよ。それは主の御心に委ねるほかない。……だがせめて、日々の暮らしを穏やかにする手助けはできる。そのために来たのだ」


 ベルタは唇を噛んでじっと聞いていたが、やがて赤くなった目を伏せてつぶやいた。

「やっぱりあたしの祈りじゃ、神様も聞き届けちゃくださらないんですね」

「そうではない」グラジェフは辛抱強く諭す。「ベルタ殿、祈りとは主にあれをしてくれ、これを寄越せ、と願い求めるものではないのだよ。祈る者の心を安らげ、魂を守り《聖き道》につなぎとめるものだ」


 説きながら、ちらりと胸を皮肉な思いがよぎった。ついさっき己も神に願ったではないか。どうか間に合ってくれ、と。自嘲を意識の陰に追いやり、彼は司祭としての姿勢を保った。


「主のお考えは、我々人間には推し量ることもできぬものだ。それをわきまえず主にあれこれと要求し、思い通りにゆかぬと不満を抱くのは傲慢にほかならない。気をつけなさい。……すべての祈りは主の御許に届いているとも。さあ、ダンカの話を聞かせてくれ。彼女とそなたのために何ができるか、まず知らねばならない」


 ぐすぐす鼻を鳴らす女をなだめ、グラジェフはゆっくりと経緯を聞き出していった。




 ダンカの娘が死んだのは昨夏の終わり頃、大雨の翌日のことだった。

 雨が上がって、ダンカの夫ジェレゾとベルタは畑仕事に精を出し、ダンカは家で娘の世話をしながら機を織っていた。


「本当にいい織り手でねぇ……手が早くて、でも目はきっちりきれいに詰んでいて。ぜひともダンカの布が欲しいってお客さんは大勢いたんですよ」


 本人も機織りが好きで、放っておけば寝食も忘れるほど織り続けた。その熱中が仇になったのだ。

 何かあればすぐ気付くよう、世話を忘れぬよう、娘は同じ部屋に置いていた。だが二歳を過ぎれば幼子と言えども、独りで好きなだけ歩き回れる。行く手を阻む障害物をどかしたり乗り越えたりする知恵もつくし、好奇心も旺盛で何にでも興味を持つ頃だ。

 一段落つくまで織り続けて満足したダンカはふと我に返ると同時に、そういえばいつからか娘の立てる声や物音がしない、と気付いた。慌てて室内を見回したが、お気に入りの玩具はことごとく放置され、出られないよう閉めていたはずの戸は隙間が開いており、娘の姿はどこにもなかった。

 娘の名を叫びながら、ダンカは家から飛び出した。


「間の悪いことに、あたしらその日は、森の際まで行ってましてね。本当に……なんで家のそばにいなかったのか」


 幼子がよちよちおぼつかない足取りで家を出るのも、ぬかるみに足を取られるのも、誰一人見ていなかった。助けを呼んだのか、声も上げられないまま死んだのか、何もわからない。ただ動かぬ結果だけがあった――死、それだけが。

 騒ぎにようやく気付いたベルタが駆けつけた時には、雨で水量の増した小川に座り込んだダンカが、ぐったりした娘を抱いて慟哭していたのだ……



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