1-1 晴れの日、そして雨の森
一章
薔薇窓から射し込む光が、祭壇のまわりで華やかに踊る。金糸でびっしり刺繍された祭服がまばゆくきらめき、初老の枢機卿をまさしく聖人のごとく飾った。
絢爛たる裾の前にひざまずく若者は、何の装飾もない無地灰色の長衣姿。ただ深紅の髪が光を受け、炎のように輝いている。そこに、皺だらけの節くれだった手が置かれた。
「汝エリアス、主と聖御子に仕え《聖き道》を歩む者よ。汝の信仰堅きこと、理知の確かなることは証された……」
ヴラニ暦1147年、教皇ラドミール八世聖下の御世。
聖都の中心にそびえる荘厳な大聖堂がうっすらと雪化粧した朝、数ある小礼拝堂のひとつで異例の按手礼が行われた。
通常、聖都の学院で学んだ聖職者の叙階は、十人以上まとめて行われる。典礼は公開され、正装した高位聖職者がずらりと並び、優美なアーチに支えられた穹窿を震わせて讃美歌が響く。大半の聖職者にとっては一世一代の晴れ舞台だ。
しかしここにはたった三人しかいない。按手を受ける若者。授ける枢機卿。立会人である老司祭。讃美歌もなく、目も眩むばかりに火の灯された燭台もない。
そしてまた、授けられる位階も普通ではなかった。
「……汝を浄化特使に任ずる。位階は司祭に準ずるが、典礼ならびに秘蹟を執り行う資格はないと心得よ。その限りにおいてのみ、汝に銀環の使用を認める」
枢機卿が厳かに宣り、立会人から司祭の証を受け取って掲げた。細い鎖に通された銀環が、光を受けてきらめく。大きさは親指と中指でつくった輪ほど、幅は男の親指ほど。刻まれた精緻な模様は蔦のように絡み合い、持ち主の名をその陰に隠している。
痩身の若者は顔を上げ、灰色の瞳で食い入るようにそれを見つめた。
「はい。わたくしエリアスは主と聖御子に仕え、《聖き道》の守護者として邪悪と戦うことを誓います。また、浄化のつとめを果たす力を失った時には、速やかに銀環をお返しすることを誓います」
誓いの声は、一晩叫び通したかのように嗄れている。だが切望の熱は間違えようもなく明らかだ。
枢機卿はうなずき、鎖を広げて差し出した。
「しかと聞き届けた。受け取るが良い」
エリアスが頭を垂れた。首にかけられた銀環がすとんと胸元に下がる。両手で胸におし抱き、冷たく冴えた銀を手のひらで確かめて、彼は司祭だけが知る《力のことば》で規定の聖句を唱えた。
「《我が名は鍵である。主よ、楽園の門を開きたまえ》」
瞬間、銀環が熱を放った。脈動の気配、そして視界にちらちらと光が漂いはじめる。力が目覚めたのだ。司祭の証、神秘の力をふるうための触媒たる銀環。
(やっと。やっと手に入れた。これで奴を……!)
静かな興奮と暗い歓喜が胸を満たす。彼は深く息をついて昂ぶりを抑え、冷静を装って立ち上がった。
「御国の戦士よ、主が汝を護りたもう」
枢機卿が厳かに聖印を切って祝福し、立会人にうなずきかける。老司祭は背後に置かれていた一振りの剣を取り、若き司祭に歩み寄った。
厳粛な面持ちがふと緩み、誇らしげな感慨が広がる。
「そなたの剣だ。……今日まで、よく頑張ったな」
ささやく声が震えた。受け取る若者も感極まったように目を潤ませる。束の間の、幸福な静穏。
すぐにエリアスは表情を消し、灰色の長衣の上から剣を正しく左腰に吊した。枢機卿に向き直り、三歩下がって安全な距離を空けてから、ゆっくり剣を抜いて恭しく掲げる。
「我が剣は主の御為に。闇を切り裂き、魔を祓わん」
誓言し、彼は輝く刃をまぶしげに見上げた。秘術で鍛えられた神銀の剣は、いっさいの穢れを受け付けぬ清冽な光を放ち――
――淀んだ黒い霧を薙ぎ払った。
「チッ」
仕損じた。エリアスは舌打ちし、素早く敵を追う。黒い霧を纏った四つ足の獣が大きく跳ね、飛沫を散らして着地する。両者は十歩ほどを空けて止まり、睨み合った。
左右を森に挟まれた街道は薄暗く、小雨もあいまって見通しが悪い。木の葉を打つ雨音、梢のざわめきが耳障りだ。
獣の両眼が炯々と燃える。よく見ると狐であるとわかったが、霧に包まれた体躯は狼ほどに膨れている。魔に憑かれたのだ。逃げようともせず、憎々しげに牙を剥いて唸り続ける。
エリアスは冷静だった。感情は凍りついたまま動かない。恐怖も焦りもなく、感覚を研ぎ澄ませて敵の動きを捉える。
チャッ、と微かな爪音が届いた次の瞬間、彼は動いた。同時に狐が地を蹴って突進し、振り下ろされた剣をかわして頭より高く跳び上がる。空振りした司祭が前のめりになり、短く切り揃えた赤毛と襟の隙間に白いうなじが覗いた。
狙い通り。急所に食らいつかんと、狐は異形の牙が並ぶ顎を開く。が、その顎が閉じることはなかった。
踊るように若者が反転し、円弧を描いた白銀の刃が狐の口をまっぷたつに裂く。そのまま骨など無いかのように振り抜いた。
ベシャッ、と狐の体が地面に落ちる。一拍遅れて、切断された頭の上半分が離れたところに転がった。
断面から白煙が上がっているのは、魔が滅せられたしるしだ。それでも念のため、エリアスは聖印を切って清めのことばを唱える。銀環を通じて力が巡り、言葉に乗って魔の残滓へと向かうのが、うっすらとした光の流れとなって視えた。煙が勢いを増し、ほどなくおさまった。これでもう無害な獣の死骸だ。
そこまで済んでから初めて、彼は連れを振り返った。
街道の後方でじっと様子を見ていた男が一人、腕組みを解いてこちらへやって来た。
ちょうど雨が止み、彼は鬱陶しいフードを払いのける。狼のような灰黒の髪があらわになった。一見老けた印象を受けるが、実際は三十代の後半だろう。威厳の漂う顔つきながら、氷青色の瞳にも、わずかに上がった口角にも、内なる温情が滲み出ている。
「上出来だ。私の出る幕がなかったな、実に結構」
軽く数回拍手したはずみに、外套の下から光る銀環と剣の柄が覗いた。彼もまた司祭であり浄化特使であった。
「お褒めに与り光栄です、グラジェフ様」
エリアスは嗄れた声で応じて一礼する。それから、剣の刃をしげしげ眺めてまったく汚れていないことを確かめ、丁寧に鞘へ収めた。グラジェフが小さく笑う。
「手入れの必要がないのは助かるが、慣れてしまわぬようにな。予備のナイフを錆び付かせてしまうぞ」
「はい。心します」
エリアスは生真面目かつ端的に応じた。冗談のつもりだったらしいグラジェフは、一瞬、なんとも言えない顔をする。
「そなたは動じないな。怪我はないようだが、気分はどうかね」
「ありがとうございます。ご心配には及びません」
ふたたび、平板で感情のこもらない答え。グラジェフは今度こそはっきり眉を上げ、やれやれと頭を振った。
按手礼の後、聖都を発って一月余り。二人の会話はずっとこんな調子だった。相手がやりにくいと感じているのは察せられたが、エリアスは態度を改めるつもりはない。
(気を緩めてはいけない。親しくなって、身の上を探られるような事態に陥ってはならない)
表情を変えず、心を凍らせたまま自戒する。
グラジェフは熟練の先達であり、新人の浄化特使があっさり死なないよう守りつつ実戦を教え、本当に使いものになるかどうか見極める任を負っている。そして恐らくは、エリアスの抱える秘密が露見しないかを試すという役目も。本人がどこまで知らされているかは不明だが。
(よほどのへまをしない限り、半年から一年で監督官は外れるだろう。数少ない浄化特使を二人一組で行動させるのはもったいないから)
彼がそう考えたのをなぞるように、グラジェフが狐の死骸を見下ろしてふっと息をついた。
「そなたが即戦力になりそうで良かった。魔のものらはありとあらゆる場所で人の世を狙っておるのに、我らの数はあまりに少ない」
「……おっしゃる通りです」
エリアスもつぶやくように同意した。
かつてこの世界は、円環のごとく完全であったという。一握りの驕った人間の愚行によってそれがひび割れ、魔のものらが地上に溢れ出たのが、およそ千五百年前。
円環の欠損が世界を滅ぼさぬよう、身をもって塞いだ聖御子のおかげで、人類はからくも生き延びた。暗い混乱期を経て聖御子の弟子たちが集い、師の教えを《聖き道》として奉じる教会を組織した。そうして集積した知識と力で魔を退けることにいくらか成功し、ようやく一息ついたというのが現在の状況だ。
しかし脅威は相変わらず身近に存在している。
森の暗がりや夜闇に潜む魔のものらは肉体を持たず、隙あらば生き物に取り憑く。憑かれたものは獣であれ人であれ正気を失い、飢えと破壊衝動のままに他者を襲うのだ。それらを外道、すなわち《聖き道》を外れたもの、と呼ぶ。
おもにこの外道の脅威によって、人々はごく狭い範囲でしか移動できなくなっている。せいぜい近隣の町や村まで。別の国まで動けるのは、軍隊と教会特使ぐらいのものだ。
「この道も、本来ならもっと賑わっていて良いのだがな」
グラジェフが沈痛に唸った。聖都から教会領を抜け、北のロサルカ共和国首都までを結ぶ主街道だというのに、外道が現れたせいで人っ子一人いない。轍や人馬の足跡も、雨ですぐ消える程度。その侘しさを、彼は肩を竦めてごまかした。
「まぁ、わざわざ雨の中、森に近い場所を通る物好きがいなくても当然か。我々も村に戻って葡萄酒で温まるとしよう」
「はい」
エリアスは短く答え、どんよりと雨雲が垂れこめる灰色の空を仰いだ。頬にぴしゃりと雨粒が当たる。冬の名残を思わせる冷たさに、彼はぶるっと震えて首を竦め、フードを深く被った。
雨。五年前のあの日も。
不意に喉元にせり上がった黒い熱塊を、危ういところでぐっと押さえ込んで飲み下す。表面的には、彼はただうつむいて外套の前をかきあわせただけだった。
(まだだ)
いずれ解き放ってやる。思うさま、憎しみも怒りも悲痛も。それを受けるべき仇を見つけた時に。
(今はまだ凍っていろ)
行く手を睨み、彼は無言で足を動かした。
【用語・注釈】(今回のみです)
薔薇窓:ステンドグラスでつくられた円形の窓
穹窿:ヴォールト。アーチを利用した曲面天井
按手:人の頭に手を置いて、聖霊の力が得られるよう祈ること
按手礼:聖職に就く者に按手をおこなって聖別し、任命する儀式
※おおよそキリスト教に準ずる用語を使っていますが、異世界ですので違いも多々あります。
《力のことば》は造語。