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(3)


 玄関の扉に隠れながら、スグリは急いでミントを呼んだ。

 ミントとキフルは無言で睨み合っていたようだ。『じゃ、呼ばれてるから行くわ』と、決して睨み合いを自分から止めたわけではないことを主張しながら、ミントは悠々とこちらに歩いてくる。

 そんなミントを店内に引っ張り込んだ後、スグリは伯母との会話の内容を話してから訊ねた。


「ミント、作り方もちろん知ってるのよね?大丈夫よね?」

『まあな。あの蜥蜴野郎が雲とか言ってたから、最初から検討ついてたけどよ。確かにあれは出来立てがうめぇな。つーかお前、まだ気づいてねぇのか?それでも菓子店のバイトかよ』


 特に慌てることもなく、ミントは憎まれ口を叩く。軽やかにしっぽを揺らした黒猫は、キッチンから住居部分の廊下に出て物置にスグリを案内する。

 物が詰め込まれた物置の中、ミントは中段の棚に上って、一抱えほどもある大きなダンボール箱を示した。


『確かこいつだ。まだ動く……はず』


 埃をかぶった箱を引っ張り出し、埃を落として軽く拭いてからキッチンへと運ぶ。

 箱を開くと、中には大きな銀色のタライが入っている。中央に穴が開いたタライの下には、タライよりは小さい、四角い箱型の機械があった。

 その形は、昔、何だか見たことのある……浴衣を着ていて、あれは祭りの縁日の屋台で……


「あっ!わかった、これ……」


 ようやく“花の蜜の雲”の正体に気づいたスグリに、ミントは髭を震わせてにやりと笑った。



*****



 庭で待ちぼうけしているキフルは、こっそりと溜息をついた。


 別に失望したわけではない。

 特に期待しているわけではない。

 ただ、あの花がどんなものになったのか、はるか昔からあの山々一帯を守護する主として、確認しに来ただけだ。

 できた物が無いのなら、それは別に構わない。ドラゴンが、魔女ごときの戯言に付き合うことなどないのだ。

 対応した幼い人間の娘――魔女の血の香りはしたが、魔力をほとんど感じられない娘は、店内に籠って、まだ出てこない。


 元より、こんな小さな店も小さな娘も焼く気もないし、そんな愚かな暴挙をしたところで己の格が下がるだけだ。

 あの黒猫の姿をした生意気な妖精は気に食わないが、しょせん己より格下。相手にするまでもない。


 ……帰るか。


 キフルが立ち上がって羽を広げた時だった。


「――あのっ!」


 店の扉が大きく開いて、娘が飛び出してきた。

 まろみを帯びた頬を紅潮させ、目をきらきらと輝かせた、無邪気な笑顔を向けてくる。緩やかな癖のついた黒髪のお下げも、焦げ茶色のごく普通の色の目も、あの風変わりな魔女と色も容貌も異なるのに、なぜか重なって見えた。


「お待たせしてすみません、キフルさん。伯母はいませんが、私が代わりにお菓子を作ります。どうぞ、中に入ってください!」


 勢い込んでそう言う娘に、キフルは思わず店へと足を踏み出し――双方、顔を見合わせて気づく。この大きさでは、店に入れない。

 

「あ……」

「……しばし待て」


 キフルは己に魔法をかけて、身体のサイズを小さくする。魔力を圧縮させて徐々に小さくしていき、大型犬くらいになったところで止めた。

 これでどうかと横目で見やれば、娘は「すごい、キフルさんすごいです!」と感動して拍手している。相当ドラゴンが好きな娘なようだ。……まあ、気分は悪くない。

 扉を押さえる娘の横を澄ました顔で通り、キフルは羽を折り畳んで店内に入った。

 途端、甘い香りに包まれて、思わず身体が震えた。焼き菓子の香ばしい香りを凌駕する、甘い花の――


 懐かしい、香り。


 香りの方を見やれば、丸い小さなテーブルの上に、皿に乗った白い小さな綿雲がある。近づいて指を伸ばすと、少々不格好な雲は、奇妙なことに触れることができた。鋭い爪の先で、綿雲がふわふわと揺れる。

 普通なら、己の羽と身体をすり抜けて雫を纏わせる雲が、軽やかながらも形を持っていることが不思議で、キフルはまじまじと見やった。


「どうぞ、“花の蜜の雲”です」


 娘に促されて、雲を手に取る。何だかべたべたとするが、やはりこの雲から花の香りがした。

 キフルは小さく口を開き、ほんの少しだけ齧ってみれば――


「っ……!」


 雲が、溶けた。

 口に入れた瞬間に溶けたそれは、甘さと香りを一気に広げた。空を飛ぶときに、雲が口の中に入り込んだみたいだった。違うのは、無味無臭の味気ない雲と違って、花の蜜の味と香りが確かにあることだ。

 もう一口と大きく齧っても、入れた瞬間にまた溶ける。広がる花の香りに、キフルは羽を震わせた。あっという間に一つ食べ終えれば、すでに次の綿雲が用意されている。


「まだまだ作りますから、たくさん食べて行ってくださいね」


 娘から渡された歪な雲を手にしたキフルは、今度は遠慮なく雲を齧った。

 一体雲をどうやって作っているのか――と見れば、もう一つのテーブルの上に何やら妙な形の置物がある。銀色の大きな器の中に娘は細長い棒を入れて、くるくるとかき混ぜた。すると、器の中に白い筋雲が生まれて、棒に絡みついて徐々に綿雲を形成していく。


「……雲を作る魔法か?」

「あっ、キフルさん。貴方も作ってみますか?」


 振り向いた娘から、半端な綿雲が付いた棒を差し出されるが、キフルは首を横に振る。


「いや……其方も、魔女であったのだな。このような魔法は見たことが無い」

「え?……あっ、これは魔法じゃないです!私、魔法使えないですし!」


 娘が慌てて手と首を横に振る。娘の足元では、黒猫がぶはっと吹き出した。


『こいつはいい!ワタアメが雲の魔法だってよ!』

「ミント、失礼よ!」


 娘は黒猫を叱り、「ごめんなさい」と代わりにキフルに謝ってくる。

 娘は、この花の蜜の雲が“綿飴コットンキャンディー”と呼ぶ菓子の種類であることを説明してくれた。置物は綿飴を作る機械であり、砂糖を熱して溶かして細い糸状にして絡めて集めることで、このようにふわふわとした綿雲のような菓子になるそうだ。


「魔法がかかっているとしたら……この飴の方だと思います」


 娘の手に乗るのは、白い小さな飴だ。この飴を砕いて、機械に入れていたようだ。

 

「伯母が、貴方の住む山に咲く花の蜜から作った、特別な飴です。あなたが魔法だと思ったのなら、それはきっと、伯母のザクロの魔法です」

「……」


 キフルは、手の中の綿飴を、一口齧る。

 懐かしい花の香りと共に、はるか遠い昔の思い出が鮮やかに蘇る。




『キフィリエシア様!どうぞ!』


 白い服を着た小さな娘が、白い小さな花の花束を腕いっぱいに抱えて、差し出す。


『たくさん摘んできました!今、丘一面が真っ白になっているんですよ。今度遊びに行きましょうね!』


 娘が満面の笑顔で差し出した花を、キフィリエシアは大きな口に含んだ。

 この国の守護竜であるキフィリエシアが、この花の香りと甘い蜜が好きだと、国中の者が知っている。だからこの国では白い花を丘一面に植えて大切に育て、敬愛する竜に捧げるのだ。

 神殿にいるこの娘もまた、その一人だった。


 いつしか娘が世を去り、神殿も国も消え去り、丘一面の花畑が無くなっても。

 山の一部にこっそり蒔いた種から生えた白い花の名前を、己が知らなくても。


 長い長い、悠久の時を経ても――


 この甘い香りと思い出が、キフルの中から消え去ることは無かった。




「――キフルさん?どうしたんですか?」


 声を掛けられて、キフルははっとそちらを見やる。

 菓子店の娘は不思議そうにこちらを見つめていたが、腕いっぱいの大きさになった綿雲を、笑顔で差し出してきた。


「どうぞ、キフルさん!」


 鮮やかな思い出も、花の蜜の飴も。

 それが赤髪の魔女の魔法だったとしても。


 この胸を震わす思いは、きっと目の前の娘がもたらしたものだ。

 あのときの娘と同じ、ドラゴンを恐れぬ眼差しを、優しい笑顔を、この娘がくれるからだ。


 懐かしい香りと笑顔に、キフルは確かな喜びを抱きながら、“花の蜜の雲”を口に含んだ。



*****



 たくさんあった白い飴もなくなり、綿飴も作れなくなったのは、日が傾いた頃だった。ふぅ、と息をついたキフルが、ぽつりと言う。


「……美味であった。満足だ」

『そりゃー、あんだけ食えばな。なぁ、甘党蜥蜴』

「ミント!」


 ミントの皮肉にスグリは焦ったが、キフルは気にした様子はない。完全に無視していた。

 店の外に出たキフルは、一度身体を震わせて、すうっと元の大きさへと戻る。大きくなる方が簡単なのだそうだ。

 キフルはスグリに向かって、深く頭を下げる。


「世話になった。礼を言うぞ、娘」

「そんな、とんでもないです!」


 大きなドラゴンに謝意を示されて、スグリは焦る。自分は大したことをしていない。だが、キフルは居住まいを正すと、その金環日蝕の目でスグリをまっすぐに見つめた。

 心の中に入り込んできそうな目を、スグリもまた見つめ返した。頭の中に、力強い声が響く。


『我が名は、キフィリエシア・グリムガル・シュバルツェスマーケン。小さき魔女の娘よ、この礼は必ず返す。何か困ったことがあったら、心の中で我を呼べ』

「え……」

「また来る。今度は白い花の種を持って来ようぞ」


 キフルはそう告げると、羽を大きく羽ばたかせた。強風に目を瞑って耐えていれば、やがて風が止む。

 目を開いた時には、すでに赤い巨大なドラゴンの姿は無く、穏やかな夕陽に照らされた庭が広がっているだけだった。

 まるで今までが幻だったような気分になるが、気付けばスグリの手の中に、白く光る薄い飴――ではなく、鱗のようなものがあった。

 これは、キフルの鱗だろうか。赤色じゃないんだ、と思っていれば、足元でミントが面白くなさそうに鳴く。


『けっ、勝手に契約しやがって』

「え?何?」

『何でもねぇよ』


 なぜか怒った調子で、ミントはさっさと店の中に戻ってしまう。

 それを慌てて追いかけるスグリは、知らなかった。赤い竜の白い鱗が、数百年もの時間をかけて魔力を込めたものであり、古の竜でも数枚しか持たない貴重なものであることを。

 そしてその鱗を持つ者は、死ぬまでドラゴンの守護を得るということも、スグリはまだ知る由も無かった。


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