(2)
ドラゴンは『キフル』と名乗った。
本名はもっと長いらしいが、人間に名乗るときは大抵この名前を使うのだそうだ。
「……あれは、三日前の事であった」
キフルはヨーロッパ中央部に連なる山脈の奥地、人々から忘れ去られた古城の跡に棲むドラゴンだ。
いつも通りに、城のある山を含む縄張りを飛び回っていたときだ。縄張りに、空飛ぶ侵入者を発見した。
ドラゴンの飛ぶ高い空域を、箒に横座りした魔女は軽やかに飛んでいた。緩やかな癖のある長い赤髪が風になびき、雪をかぶった山脈では一際目立った。
縄張りへの侵入者を排除するため、キフルは羽を大きく振って魔女の元へと向かった。もちろん、すぐに攻撃はしない。ドラゴンは言葉を解する知性と理性がある動物であり、ただの獣とは違うのだ。
魔女の前に立ち塞がるように宙で羽ばたき、いつも通りの警告を発した。
『赤き髪の魔女よ、ここは我の領域ぞ。用無くば、今すぐ立ち去れ』
魔力を込めた低く重々しい声は、山々に響き渡る。大抵の者であれば、恐ろしさに身を竦ませてすぐに退散するが、魔女は停止したものの引き返す様子はない。
箒から降りて宙に浮いたまま、魔女は恭しくかしずいた。
『お初にお目にかかります、古の赤き賢者殿。私の名は赤橙ざくろ。東の果て、五色の端くれの魔女でございます。この度の領域への侵入、大変申し訳ございません』
謝罪を述べた魔女は、顔を上げてまっすぐにキフルを見つめた。緑色の目は、キフルを敬いながらも、恐れてはいなかった。そして同時に、かなり力の強い魔女であると見抜けた。
別にたった一人の魔女に負けるとは思えないが、キフルは少し警戒する。
『……その魔女が、我に何の用だ』
『実は、この山地にとても良い香りのする花があると伺いまして、ぜひともその御花を見たく……ああ、駄目だわ、慣れないしゃべり方すると肩凝っちゃう』
急に口調を崩した魔女は、ふうっと息を吐いて苦笑した。そのあっさりした変わりように、強張っていたキフルの肩からも力が抜けた。
『ごめんなさい、ドラゴンさん。普通に話していいかしら?』
『……別に構わんが』
『ありがとう!助かるわ』
赤髪の魔女は、ぱっと大輪の花が咲いたような、明るい笑みを浮かべた。不思議と、仰々しい態度や口上よりも、こちらの方が彼女にしっくりくるとキフルは思った。
そんな風変わりな魔女は今、良い香りのする花を探して世界中を飛び回っていると言った。てっきり植物学者か調香師の類かと思いきや、お菓子作りのためだという。
『素敵な香りの花の蜜を使って、美味しいお菓子を作りたいの』
『菓子……』
『ええ、甘くてふわっととろけて、それでいて花の香りに包まれて』
『甘くて、とろける……』
『懐かしい思い出や、甘酸っぱくて切ない気持ち、素敵な思いになれるような……って、どうしたのドラゴンさん』
キフルがぼんやりとしているのに気付いた魔女が首を傾げる。考え事を魔女に気取られぬよう、キフルは話題を変えた。
『其方、この山に咲く花のことを知りたいのであったな』
『ええ。この辺りの高地に自生する花が、とても良い香りと甘い蜜を持つって地元の村のおばあさんから聞いたの。でも、かなり大昔の話だから今は残っていないかもって……』
『その花なら、知っている』
『まあ、本当!?良かったら、教えて下さる?少しだけでもサンプルが欲しいの』
『……教えてやってもいいが、条件がある』
『あ、もちろん乱獲はしないわよ。種があればぜひとも庭で育てたいところだけど……。それで、条件は何?』
『うむ。条件は――』
*****
「作った菓子を見せてみろ――ですか?」
スグリは目の前のドラゴン――キフルの話を聞いて、首を傾げた。
「ああ。……一応、あれは我の縄張りの花だからな。どのようなものになるか、見届ける必要があるのだ」
キフルは重々しく頷き、言葉を続ける。
「そう言ったら、魔女は“花の蜜の雲”を作ってやると答えたのだ。三日後に魔女の店である“ぽむぐらにっと”を訪れよと、無理やり約束させられたから来たまでだ」
「そうだったんですね。ええと、すみません、伯母……ではなく、店主のザクロは、ただいま不在で……」
「何だと?」
眉間に皺を寄せるキフルの鱗が波打ち、しゃらりと音を立てた。
驚きと落胆、そして小さな怒りの滲む目に、スグリはひっと息を呑んだ。腕の中のミントを抱きしめれば、押さえていた口元を動かした彼が「丸焦げ~」と不吉な予言をする。
「いっ……急いで伯母さんに聞いてきます!少々お待ちください!あ、ミントはここでキフルさんの相手をしていてね、喧嘩しちゃ駄目よ!」
ぽいっとミントを地面に降ろして、スグリは店内に飛び込んで黒電話の受話器を取る。ザクロへの直通番号を押すと、コール音五回目で出た。
『もしもしスグリ?そろそろ電話来ると思ってたわ』
「伯母さん!花の蜜の雲って何!?もうこっちに送ってるんですか?」
『だからザクロさんって呼びなさいって何度言えば』
「ごめんなさい!それより、キフルさんが来たんですよ。約束のお菓子を出さないと……」
丸焦げにされてしまう!
スグリの切実な訴えに、ザクロはからからと笑っただけだった。
『安心なさいよ、保管庫に材料は送ってあるから』
「そっか……」
ほーっと胸を撫で下ろしかけて、はたと気づく。
「え……材料?」
『そうよ。こっちでも作れるけど、これは本当の出来立てじゃないと美味しくないから、あんたが作ってあげて』
「ええっ!?」
『大丈夫よー、簡単にできるから。作り方は……ああ、その前にまだ機械あったかしら……あら?まだ動くかしら、あれ……』
「伯母さん!?」
『ま、たぶん物置にあるから。で、たぶんミントが作り方を何となく知ってるから』
「ちょっとそんな曖昧すぎる!」
『じゃ、頑張ってね』
伯母さ、と言いかけた言葉は、つーっと流れる終話の音に途切れる。
一方的に切れた電話を見つめて、これで掛け直しても同じ回答しか返ってこないことは、伯母と近い付き合いのあるスグリは解かっていた。
「どうしよう……」
いっそ、伯母のパートナーである倫悟郎さんに連絡して、作ってもらうよう伯母を説得してもらうか……いや、それだと時間がかかりすぎるし、告げ口したと拗ねられるのも困る。
困り果てながらも、とりあえず保管庫の中を確認しようとスグリはキッチンに向かう。
木でできた保管庫の扉を開けば――
魔法陣の中心にあったのは、半透明の白い飴だった。




