第四話 ドラゴンと花蜜のコットンキャンディー(1)
それは、土曜日の昼下がりのことである。
店番をミントに任せたスグリは、店の裏側に向かった。
菓子店ポムグラニットは表側が店舗となっており、裏側と屋根裏は住居部分となっている。
店舗に隣接した広いキッチンダイニングは菓子作り専用となり、裏の玄関近くに食事用の別の小さなキッチンがあった。風呂・トイレなどの水回りはキッチンの周囲に配置してある。一階には他にザクロの部屋、料理書や魔導書などの様々な本を置いた書斎やガラクタを詰めた物置があり、屋根裏にスグリの部屋や客間がある。屋根裏といっても天井は高く、ほぼ二階のような感じだ。天窓からの光が差し込む六畳の部屋は、ベッドに寝ながら星空を眺められる、スグリのお気に入りの部屋である
黒猫のミントと二人(?)暮らしのスグリは、身の回りのことは自分でするしかない。
日々の料理、洗濯、掃除などの家事の一切を行い、今日もまた、洗濯物を取り込みに裏庭へ出た。
秋も深まってきた季節、頭上には薄水色の晴天が広がっている。周囲の林は紅葉が始まり、緑の中に赤や黄色の色が映えていた。
空気は涼しく、洗濯物もよく乾いて、とてもいい気持ちになる。
明日も天気は良いらしいので、シーツとかの大物を洗濯しようか、布団も干して冬用の毛布も出そうかと考えながら、スグリは籠に洗濯物を入れていく。
ふと、強い風が吹いてきて、手に取ったタオルが飛ばされそうになる。咄嗟に強く掴んだのでタオルは無事だったが、洗濯ばさみが宙に飛んだ。
ゴオオオ、と耳元で唸りをあげる風に、スグリは目を瞑った。腕に抱えたタオルとスカートの裾がばたばたと翻る音がやけに大きく聞こえる。
やがて風は止み、スグリはそっと目を開いた。いつの間にか周囲は薄暗くなっている。強い風が雲を運んできたのだろうか。
「ああ、びっくりした……」
ほっと胸を撫で下ろしながら、倒れていた洗濯籠(中身は無事だ)を起こして、タオルを入れたときだった。
「――おい、娘」
低く重い声が、頭上から聞こえてくる。
空気を震わせるそれに、スグリは顔を上げて、硬直した。
見上げた先には、深紅に光る鱗がずらりと並んでいる。コウモリの羽の何千倍もありそうな大きな赤い翼が空を覆い、光を遮る。
店の建物の屋根に爪をかけて、覗き込むようにスグリを見下ろしているのは、人の背丈よりも大きな、二本の角を生やした蜥蜴のような顔だった。
縦長の細い楕円形の黒い瞳孔を囲む黄金色の目は金環日蝕のようにじりじりと輝き、じぃっとスグリを見つめてくる。開いた口には、鋭い牙がずらりと並んでいた。
国営放送のドキュメンタリーやハリウッド映画くらいでしか見ることのない姿。人の前にはほとんど姿を現さないと、噂の幻獣――
「ど、ドラゴン……?」
「そこの娘、“ぽむぐらにっと”はここで相違ないか?」
恐ろしい形相に似合わぬ可愛い店名の響きに、スグリは目が眩むような思いがした。
*****
ミントー!と叫んで店に飛び込み、カウンターの上で相変わらず居眠りこいていた黒猫を無理やり抱え上げたスグリは、庭に飛び出た。
店の前庭では、十メートルはある大きな深紅のドラゴンが羽を畳んで腰を落ち着けようとしている。
「すごい、本物のドラゴンすごい……!」
胸に抱いた黒猫をぎゅっと抱きしめて感極まるスグリであったが、抱きしめられたミントは呆れたように言う。
『お前なぁ、なに暢気に感動してんだよ』
「だってドラゴンよ!本物のドラゴンよ!見てあの翼、大きくてすごい大きくて、かっこいいんだから!鱗もすごく綺麗だし堅そうだし、爪も牙もかっこいいのよ!顔もかっこいいわ!」
数十年前から絶滅危惧種に指定されているドラゴン。
普段はひっそりと山奥や洞窟、古い遺跡に棲む彼らの保護活動の一環として、現在、繁殖の研究が行われている。スグリは小学生の頃に一度、繁殖研究をしていた国立動物園でドラゴンを見たことがあった。まだ赤ちゃんのドラゴンは、中型犬くらいの大きさでたいそう可愛らしかった。
しかし、大人のドラゴンを見るのは初めてだった。
まるで憧れのアイドルを目の前にしたかのように、頬を真っ赤にして褒めたたえるスグリに、ドラゴンも満更でもない様子だ。こほん、と軽く咳払いをして首を伸ばし、畳んだ翼をばさぁっと広げて見せてくれた。サービス精神旺盛である。
「かっこいい、綺麗、素敵……!」
『意外とミーハーだなー……つーか、そんな危機意識の無いお前に忠告しとくわ。ドラゴンは危険な生物だからな』
「え?でも、ドラゴンは深い知性のある生き物だって……。それに、ここには害意のある者は入れないんでしょう?」
ポムグラニットには、伯母のザクロが張った結界があり、害意のある者は遮断してくれる。そう聞いていた。
しかし、ミントはふうーっとわざとらしく溜息をつく。
『そりゃ、ザクロより魔力が少ない奴だったらな。だが、どう見てもこいつはザクロより格上だ。結界も破れるし、魔力だって思い切り使えるぜ。ま、ドラゴンがその気になりゃ、お前も店も一瞬で炎に焼かれてオシマイ、骨も跡も残らねぇだろうなぁ』
「……」
『ま、俺はある程度太刀打ちできる魔力あるから、何とか逃げられるけどな。先に言っとくぜスグリ、恨むならドラゴンを恨め』
ミントの冷静な指摘に、さーっと蒼ざめるスグリであったが、ドラゴンはふんと鼻を鳴らした。
「我はそのような野蛮なことはせぬ。貴様のような小さき下賤の妖精と一緒にするではない」
『おーおー、言ってくれるじゃねぇか、引きこもりのじじぃがよ。由緒ある王族の血を引いた俺のどこが下賤だって?』
「引きこもりだと……丸焼きにしてやろうか、この猫風情が」
『あぁ?やんのかコラ、蜥蜴野郎が』
小さな黒猫と大きなドラゴンの間で火花が――例えではなく、本当に魔力の火花が飛び散った。スグリは慌てて間に入る。
「ちょ、ちょっと待ってミント!お客様に失礼よ」
『あぁ、客だぁ?こいつのどこが――もがっ』
すっかり柄の悪い猫とかしたミントの口を手で押さえて、スグリはドラゴンを見上げる。
「貴方、さっき仰っていましたよね、“ポムグラニットはここか”って。それって、うちの店を訪ねてきてくれたんですよね?」
「……うむ、その通りだ」
場をとりなすスグリに、ドラゴンも落ち着きを取り戻したようだ。鷹揚に頷いたドラゴンは、口を開く。
「ザクロという魔女から聞いたのだ。ここに、花の蜜の味がする雲があると――」




