(2)
赤いゼリーがスプーンの上で揺れる。薄く紅が引かれたような唇が、ゼリーを食べるたびに美味しそうに緩んだ。
――よかった。気に入ってもらえたようだ。
スグリはテーブルでゼリーを食べる青年に時折目をやり、頬を緩ませた。伯母のザクロが作るお菓子をお客さんが美味しそうに食べる姿を見ると、やはり嬉しくなる。
最後の一口を食べ終えた青年は、添えられた紅茶を口にする。飲み干して空になったカップを見て、スグリはポットをもって青年に近づいた。
「紅茶のお代わりはいかがですか?」
「そうだね。もしよかったら、君の血を飲みたいんだけど、いいかな?」
「へ?」
お茶のお代わりしてもいいかな、と言うような気安さの青年の言葉に、スグリは一瞬戸惑った。聞き間違いだろうかと目を瞬かせていれば、青年はこちらを見上げて、にこりと笑んだ。
「ねえ、いいでしょう?赤橙ざくろの大事な大事な……可愛い姪っ子の黒野すぐりちゃん?」
そう言うと、青年はスグリの腕を掴んでくる。
青年の長い睫毛に縁どられた目が、褐色の瞳が――ブラッディ・ゼリーのような鮮やかな赤色へと変わっていた。
「っ…!」
スグリは咄嗟に腕を引いたが、軽く掴まれているはずなのに万力で固定されたかのようにその場から動かせかった。腕に変に力を入れたせいで、持っていたポットを取り落としてしまう。
足元に落ちかけたポットは、しかし青年がさっともう片方の手をやり、寸前で拾いあげる。
「おっと。危なかったね」
青年は何事も無かったように、ポットを丁寧にテーブルの上に置く。その間、スグリは腕を掴む青年の手を引きはがそうと試みていたが、爪先まで整えられた細く綺麗な指は、びくともしなかった。
背中にぞくりと寒気が走る。度々「お前は鈍い」とミントから貶されるスグリであるが、さすがにこの状況がやばいということはわかった。
美麗な容姿、人間離れした怪力。そして、血のような赤い目。
目の前にいる青年は吸血鬼で――スグリの血を、欲しがっている。
スグリは緊張で乾いた喉から、何とか声を出した。
「あ、あのっ!……ひ、人の血を、飲むときは、その……相手の承諾が無ければ、駄目だって、ちゃんと、法律で……!」
「うん、そうだね。だから、君に聞いているんだよ。血を飲んでもいいかな、って」
「っ……」
青年が腕を軽く引き寄せた。スグリの身体は簡単に引っ張られて、青年の方へと一歩近づくことになる。距離が縮まれば、間近で青年の顔を見下ろすことになった。
絶世の美形が「駄目かな…?」と懇願するように見上げてくる。赤い目に顔を覗き込まれて、スグリはこんな状況なのに頬に熱が上るのを感じた。同時に、頭に靄がかかるような、貧血のように血の気が引くような感覚も覚える。
――駄目だ。引き込まれる。
スグリが咄嗟に目を閉じようとすれば、青年の冷たい指先がスグリの頬を優しく撫でて、顎を押さえてきた。
「駄目だよ。目を開けて、僕を見て」
「い、やっ……!」
青年の命令が頭の中でわんわんと鳴り響く。
思わず言うことを聞いてしまいたくなる、魅力的な声だ。
スグリは震える指先を強く握りしめ、命令に逆らってぐっと目を閉じた。
いやだ――嫌だ!!
そう強く念じたとき、ちりっ、と胸の奥に熱が灯る。
すると――
「!?わっ……」
小さく声を上げた青年の手が、スグリの腕を突然離した。
バランスを崩して後ろに倒れ込んだスグリは、はっと目を開く。立ち上がった吸血鬼の青年の手には、赤く激しく燃え盛る炎が巻き付いていた。
青年は驚いたように目を瞠っていたが、さっと腕を振って炎を消した。そして、床に座り込んだままのスグリを見下ろしてくる。
「……君、魔法を使えるのかい?」
「え?」
青年の問いかけに、スグリは思わず首を横に振った。魔法なんてほとんど使えない。使い魔のミントの声を聴くことくらいだ。
青年は唇に指を当てて、少し考え込むように俯いた。
「僕の魅了に抵抗もできたし、やはり赤橙の血か……?でも色無しであんなに強力な……」
青年は小さく呟きながら、考え事に耽っているようだ。
スグリは混乱しながらも、逃げるなら今のうちだと立ち上がろうとするが、情けないことに腰が完全に抜けていた。這いずるようにしてショーケースの向こう側、カウンターの奥の方に向かおうとする前に、青年に気づかれてしまう。
「……まあいいか。君の血を飲めばわかることだね」
青年は気を取り直したように、スグリの方へと歩いてくる。ショーケースを背にして逃げ場を失ったスグリは、伸ばされる手に身を竦めた。
そのとき、店の扉が大きく開く。
『――そいつに触るな!』
頭の中に響く声は力強く、そして怒りに満ちていた。
強い風が吹き込んできたかと思えば、スグリの膝の上に一匹の黒猫がいる。――ミントだ。
黒いつややかな毛並みを逆立てて、しっぽを膨らませたミントは青年に向かって低く喉を鳴らす。
『てめぇ、この俺を不意打ちで次元の間に飛ばすたぁ、舐めた真似しやがって……』
「あはは、ごめんごめん。屋根の上でのんきに寝ているようだったから、つい」
『ついじゃねぇ。その喉噛み千切るぞ』
ミントの声は怒鳴らない分、余計に本気を感じさせた。スグリをよそに両者は睨み合う。
「そんな可愛い姿で凄まれてもね」
『だったら本当の姿で相手してやろうか』
ぐるる、とミントが喉を鳴らす。しなやかな黒猫の輪郭から、じわりと滲みだすのは濃い闇色の霧だ。
スグリの周囲を囲む黒い霧は、やがて徐々に大きな獣の輪郭を取っていく。闇の中で浮かぶのは、二つの緑色の炎。深い森の深緑のように、底の見えない湖の緑青のように、ゆらゆらと色を変えて青年を見据える。
しかし、それらが完全に形作る前に、青年は降参というように両手を掲げて見せた。
「おおっと、怖い怖い。さすがに僕も、猫妖精の王族をまともに相手するほど愚かじゃないよ」
『てめぇは愚かだよ。俺だけじゃなく、こいつに手を出した時点でな』
「なるほど。黒の御方様は、今はこの子に夢中ってことか」
『ふざけるな』
黒い霧の獣が、青年に向かって飛び掛かった。獣の顎が、宣言通りに青年の喉を噛み千切る――が、青年は笑顔を浮かべたままだった。
「じゃあ、そろそろお暇しようかな。怖い護衛も戻ってきたことだし」
噛み千切られたはずの喉の部分から、さらさらと砂が落ちるようにして青年の身体が消えていく。
赤い目が、スグリを見つめた。
「じゃあね、スグリちゃん」
またね、と赤い唇が動いた後、その唇も赤い目も、砂のように掻き消えてしまった。
青年が消え、残されたのはテーブルの上の皿とカップ、ポットだけ。それ以外、青年のいた痕跡は無い。
まるで幻のようで、現実感がわかずに呆然とするスグリであったが、床についた手に温かな毛並みがすり寄ったことで我に返った。
「ミント……」
『怪我はねぇな?』
「う、うん」
意外にもミントの声は優しい。さっきまで響いていた声が恐ろしかったせいか、余計にそう感じた。
見下ろせば、ミントはいつも通りの黒猫の姿で、青緑色の目でこちらを見上げていた。ミントを抱き上げて温もりを感じたことで、ようやく自分の手が、身体がひどく冷たくなっていることに気づく。スグリは震える指先で、ミントの毛並みを梳く。
「……こ、怖かった……」
かたかたと小さく震えるスグリに配慮してか、ミントはそのまま強く抱きしめられても嫌がらない。スグリの震えが治まるまで、ミントは辛抱強く待ってくれた。