悩み事、最寄り駅まで十五分。
――靴……黒にすれば良かったな。
私――笹原桜子はマンションのエレベーター内にある大きな鏡を見てそう思った。
――靴、買って履き替えられるかしら。
私はコンビニの大きなガラス窓にうっすらうつる自分の姿を見て、スケジュールを思い起こす。
――靴……なんでこの色を選んだのかしら。
信号待ちで思わず見た足下。
玄関で見た時は“ベージュ”で良いと思ったのに。
全身を見てみると、なんだか落ち着かなかった。
――もしも今、たった一つ魔法が使えるとしたら。
私はきっと、この靴を黒に変えるわ。
そんな風にさえ思った。
今日は一日、この靴に後悔して過ごすのだと思うと気持ちはブルーで。
家から駅までのおよそ十五分の距離は、色々な事を考えすぎてしまうと改めて思いました。
そういった意味でこの時間は、ちょっと長すぎるかもしれません。
――靴を黒にすれば良かった。
なんて些細な事ばかり考えてしまうのだから。
「桜さん、元気ないね」
同期で同僚の坂室 陸は、私が会社に着くなりそう言った。
会社の人は皆、私の事を“桜さん”と呼ぶ。
“笹原さん”だと、“さ”が続くので呼びづらいらしい。
もともとササハラサクラコなんて、“さ”が多すぎるのである。
「ちょっと、靴がね……」
「靴?……今日もバッチリ決まってるんじゃない?」
「坂室くんは良い人だね、ありがとう」
私の心のこもっていない言葉に彼は顔をしかめ、私をじっと見つめてきました。そして、
「何か変なの?間違い探しとか、俺苦手なんだよなー」
と言います。
「間違い探し。か、」
私はそうぽつりと言って、椅子に腰をおろしました。
「女の人ってこう……髪型が決まらないとか。化粧の乗りが悪いとか。ほんの些細な事に気分を持っていかれちゃって大変だよね」
「……本当に」
パソコンの電源をつけながら私は相槌を打ちました。
隣の席の坂室くんは毎朝とてもよく話しかけてくれます。
それによって私の気はほんの少し紛れるので、私はいつもとてもありがたく思いながら話を聞いていました。
「前の彼女はよく、雨だからってデートをキャンセルしてきたよ」
「雨?」
「そう、履きたい靴が濡れるから。
持ちたい鞄が濡れるから。
そんな理由ばかり」
「……わからなくもないけれど、それは大変だったわね」
いくら付き合っている彼氏だとはいえ、そんなにも素直に言える子が居るんだと驚きながらも、私は言いました。
坂室くんは聞き上手でもあり、
「桜さんも、そういうタイプ?」
なんて上手に話を展開させてくれます。
「いえ……天気とか、仕方のない事はたくさんありますよ」
「じゃあ、今日はその靴がどうしたっていうの?」
坂室くんは間違い探しを放棄したように私の足下を指差して聞きました。
「黒にすれば良かったって、ただそれだけよ。小さいでしょう、ものすごく」
「はあ……。なんでベージュじゃダメなの?」
「なんとなく落ち着かないの。全身を鏡にうつした時にね、ああ、これじゃないって思っちゃったの」
坂室くんは不思議そうな顔で私を見ていました。
「家から駅まで、十五分くらいあるの、」
「それは結構あるね」
「だから駅につくまでに、余計なことをいっぱい考えちゃうわけ。
選択の間違いに気づいたとしても。
家に戻る時間はなくて、進まなければならないの。
それってなんだかすごく、悔しくない?せっかく気づいたのに。
それだけじゃないわ。腕時計を忘れて駅構内の雑貨屋さんで買った安い時計は、いつの間にかコレクションみたくなって家の引き出しを占領してる……」
ああ、一気にたくさん喋りすぎた。
私は肩を落としながら、
「馬鹿馬鹿しいものよね、」
なんて言って、パソコンに目線を戻しました。
するとしばらくして坂室くんは、
「馬鹿馬鹿しくないよ。
取り敢えず桜さん、今日はその腕時計を会社に置いて帰りましょうよ」
と言うのです。
「え?」
私は思わず坂室くんの顔を見ました。
「その時計を置いて帰れば、忘れても会社の引き出しにあるからって買わなくなる」
「確かに……。帰りは時間なんてスマートフォンで確認できるし、なくても支障がない……」
「あ、でもコレクションを続けたいのであれば、話は別ですよ?
そういうのが楽しい女子もいるからね、」
坂室くんは私よりも“女子”を知っている。と感心しながら、私は彼の次の言葉を待ちました。
「靴や服を間違えたというのは、家を出る前に気づけないもの?」
「私の家、全身鏡がなくて……。
だからいつも気が付くのが、マンションのエレベーター内の鏡なの……」
「ほら、解決できそう。そうやって落ち着いて考えてみてよ」
私は笑顔でそう言った坂室くんに、不覚にもドキリとしてしまいました。
私はいつも実年齢よりも上にみられ、耳にタコができるほど「落ち着いてるね」なんて言われてきた身です。だから、でしょうか……。
本当はこんなにもくだらない、お馬鹿なのに。
「あ、もうすぐ桜さん誕生日だよね。プレゼント決まって良かったー」
「え?」
坂室くんは自分のデスクの上にある卓上カレンダーを見てそう言ったのです。
私の誕生日は今月末。
チラリと盗み見した隣のデスク上にあるそのカレンダーには、確かに桜の花びらのマークが書かれていました。
「俺、全身鏡プレゼントするよ。
十五分も、靴の色や服、鞄に悩まないようにね」
「ちょ、ちょっと待って。
そうしたら今後その十五分は、私何を考えて歩けば良いの?」
くだらないことばかり考えていた十五分ですから、急に解放されるなんて、なんだか不安になったのでしょう。
気がつけばそんな事を聞いていました。
「そうだね……。
せっかくだし、試しに俺の事とか考えてみてよ」
「……どういう、事?」
「そのままだよ。
今桜さんが思っていること」
“坂室くんはどうして私の誕生日を知っているのかしら”
“坂室くんはどうして毎朝こんなに話しかけてくれるのかしら”
“坂室くんはいったい、何を考えているのかしら”
私の頭の中には、そんな疑問が巡っています。
坂室くんは少し私に考える時間を与えるような、そんな間をとった後に言いました。
「 “あの人はなぜ私の誕生日を知っていたのかしら”
“あの人はなぜ毎朝あんなに話しかけてくるのかしら”
“あの人はいったい、何を考えているのかしら”
そんな所でしょうかね」
と。
「さて、そろそろ仕事しましょうか」
坂室くんはいたずらっぽい顔をしてそう言い、仕事スイッチに切り替えるのです。
「なんだか意地悪ね、」
「そんな事言わないでよ。今日の帰りから、楽しみでしょう?その十五分が」
――それは何かの戦略ですか?
その日の帰り道。
履いている靴の色なんてどうでも良かった。
だって、私が思ったことをズバリ言い当てたのは、
――なぜ自分が誕生日を知っていたのか、知りたいでしょう?
――なぜ自分が毎朝話しかけているのか、知りたいでしょう?
――自分が何を考えているのか、知りたいでしょう?
という、私への問い掛けでしかなかったのですから。
ああ、考え事をしながら歩くのに、十五分はやっぱり長すぎるわ。
家に着いた私は、パタリとベッドに倒れ込む。なんだか疲れてしまったみたい。
明日は黒の靴を履く事にするの。
玄関に転がっている脱ぎっぱなしのベージュの靴は、明日の朝片付けるわ。
化粧を落とさないまま寝るなんて、明日後悔するかしら。
考える力は、もうありません。
目を閉じて、思考停止。
今日はもう、おしまいです。
目が覚めて回復したら、
――また考えるから、
君の事。