魔法図書館は危うい
イラスト:りちうむいおんさま ( http://7484.mitemin.net/ )
指定ジャンル・必須要素:なし
→→ ジャンル:ファンタジー (イラストは表紙として)
この作品は12,935字となっております。
できそこないの僕が出会ったのは、史上最強の司書さんでした。
**********
「またやっちゃった……」
訓練室からの廊下を歩きながら、今日の失敗を振り返って溜息が零れた。汚れてもいない眼鏡をベストの裾で拭いてみる。かけ直してもやっぱり変わらなかった。
壁に等間隔に設置されたランプが、僕の存在を検知してぼうっと弱く光る。付いては消えてを繰り返す光のせいで、廊下は異様なほど薄暗い。
すると見えなかった廊下の先が突然強く光りだす。目を凝らせば光に照らされた三人の少年の姿が見えた。僕はこれから起こることを予想して静かに深く息を吸うと、腹に力を入れて息を止めた。気取られないよう歩く足は止めない。
――僕は空気、僕は空気。気付くな、話し掛けるな、通り過ぎろ。
そう念じながら進むも空しく、彼らはすぐさま僕の存在に気が付くと、僕の頭上のランプを一瞥して下品な笑い声を上げる。
「おいおい、まじかよ。ロニーの魔力、自分のこともまともに照らせないらしいぜ」
「そんなのランプを見なくたって、今日の演習見てれば分かるけどな」
「あの状態で魔法石が光らないとか、俺初めて見たんだけど」
ギャハハと声を響かせる彼らは、今にも爆発してしまいそうなほどの光に照らされながら通り過ぎて行った。
この魔法学校で使われているランプは、照らす者の魔力を検知してその強さに応じて光力が変化する。その光力の度合いによって自分の持つ魔力を知るためだ。
今すれ違った三人のうちの中央のマックスという男は、学校でも一、二を争う魔力の持ち主。向かいのランプがあんなに強く光っていたのも、三人が通ったからというより大部分はマックスの魔力のせいだろう。でもあとのラルフとオーブリーのふたりも、僕より魔力が強いことは確実だけれど。
本当は魔法学校なんて通いたくなかったんだ。けれど、そんな我儘が許されるはずがなかった。
僕の家系は代々、魔石商を営んでいる。魔石商と言っても魔法石を買い付けては売るというだけではない。自分の手で魔法石を集め、その効力を確かめ、買い手が求める微妙な効力の違いを汲み取った上で最適の魔法石を提示しなくてはいけない。そういう意味で僕の家系はかなり熟練した魔石商として知られている。
だから当然、僕も魔石商になることを生まれた時から求められていた。兄弟がいれば少しは違う道への選択肢もあったかもしれないけれど、僕は一人っ子だ。逃れられるはずもなかった。
魔力というのは鍛錬によって強化することができるけれど、生まれ持ったものが大部分を占める。魔力の最大を十として、生まれ持ったものが五ある者と一しかない者とでは、そもそものスタート位置が違うんだ。僕は一しかなかった。いや今も、一もないのかもしれない。
魔石商となるためにはこの魔法学校を卒業しなければいけないという、家訓のような決まり事がある。魔石商自身が正しく魔法を扱えなければ、魔法の決め手となる魔法石の良し悪しが分からないからだ。
だからここに入れられた。持っている魔力の強さは関係ない、ここに入れば必要最低限の魔力は鍛えられるだろうと家族は思っている。実際そうやって送り出された。
……だけど、この様だ。全寮制で家族と顔をあわせないでいることにほっとしているのは僕ぐらいだろう。
毎日毎日、失敗ばかりしている。呪文はきちんと覚えていて間違えてもいないのに、掠り傷程度しか負わせられないようなか弱い効力しか引き出せない。今日なんて、魔法石を光らせることすらできなかった。
何が悪いのか分からない。持っている魔力が弱いだけが理由ではないとは思う。だけど何をどうしたらみんなのように問題なく魔法を使えるのかが分からない。先生たちもお手上げのようで決まって、「もっと練習しなさい」って言うんだ。練習なんて吐き気がするくらいやってるのに、それを見もしないで。
そんな中で唯一優しいアルマ先生の助言で、僕は今図書館へと向かっている。学校付属の魔法図書館だ。
今日の僕の無様な失敗を見ていたアルマ先生が、他の生徒が退室した後に近付いてきてくれた。演習の授業の時、彼女は監督する先生の助手として付いているから、本当なら生徒への個人的な助言は禁じられている。だけどこっそりと僕の所に来てくれた。
「ロニー君、あなたに足りないのは知識じゃないかと思うの。呪文はよく覚えているし手順もしっかりしているわ。そういう意味での知識ではなくて、その呪文が持つ意味やその魔法が作られた経緯を知らないということ」
「みんなはそれを知っているんですか?」
「そうした家に生まれた子以外はあまり知らないでしょうね。だけどね、知識があればその魔法を使う時にはそれなりの感情が伴うはずよ。成功するイメージやそれを受けた相手の状態を想像して、呪文の上に成功させたいという強い意志を乗せることができる。
今のロニー君はそうね、無心すぎるの。もっと、ハチャメチャなくらい感情を出してもいいと思うわ」
だからまずは知識を得なさい。それがアルマ先生の結論だった。
僕は元々、そんなに感情表現が豊かな方じゃない。表情にもあまり出ない。だけど当然、成功させたい気持ちはある。今度こそ成功させて周りの目を気にせずに学校生活を送りたい。そういつも思ってはいるけど、その気持ちが足りないのだろうか。
ここの図書館は魔法関連の蔵書しかないけれど、国立の図書館に少し劣るくらいの規模らしい。どちらにも入ってみたことがないから、それがどれくらいものかは分からないんだけど。アルマ先生が念押ししてこの図書館の素晴らしさを力説していなかったら、来なかったかもしれない。
そういえば去り際に彼女が言っていた、「あなたにとって素敵な出会いもあるはずよ」というのは一体何のことだろう。
別棟を構えた魔法図書館。屋根は高く、緩やかな弧を描いている。壁には楕円の窓が幾つも不規則に並んでいて、何かの模様のようにも見える。縦に長いその建物は一見すると四角い塔、もしくは装飾の多い柱のようだ。内装はどんな風になっているんだろう。
真っ赤な革張りの扉を引くと、独特な臭いに包まれた。これが古い本の臭いらしい。
扉をそっと閉じて館内を見渡すと、一続きのフロアになっていた。入口を入ってすぐから通路を挟んで左右に書架が並んでいて、その向こうに幾つかの大きな四角いテーブルとそれを囲む座面の柔らかそうな椅子が見える。既に数人が席に着いて、手元の分厚い書物に熱視線を送っていた。
その更に奥、館の中央には丸く縁取られたカウンターがある。司書さんらしい人が五人、あちらこちらを向いて座っていて、どこから来られても対応できるようにしているようだ。
その上は屋根まで吹き抜けになっている。内壁を這うように回廊がぐるりぐるりと上まで続いているけれど、背の低い書架がこちらを背にして並んでいて通路の様子は分からない。下から見上げれば少し閉鎖的で、蛇のとぐろのように見える。
今の僕に適した本はどこにあるだろう。どの書架にもこれといった表示はない。仕方なくカウンターへと足を進める。
中は少しひんやりとしていた。シャツ越しに感じる冷気がたまに肩を震えさせて、長くは居られそうにない。
書架の間を抜けて、テーブルの脇を通り過ぎる。幸い、図書館利用者の中に僕の学年の人はいないようだ。それにみんな本に集中しているから、わざわざ中断してまで他の利用者を見ようとはしない。おかげで呼吸が楽になった。初めて来たけれど、こんなに居心地がいいならこれからはこの図書館を拠点にしよう。
カウンターに居るひとりと目が合った。すらりとした細身の女性で、朗らかに微笑んで立ち上がってくれたので、少し緊張する。
「こんにちは、何かお探し?」
「あ、こんにちは。あの……魔法の歴史みたいなものが載っている本ってありますか?」
「魔法の歴史? ちょっと待ってね」
そう言うとカウンターの下から大きくて分厚いファイルを出す。かなりの重量があるようで、うんしょ、という掛け声が何だか愛らしい。ファイルの中身は蔵書リストのようだ。相当古くからのものらしく、元の色が分からないほど茶色く変色している。それを躊躇なく捲っていく指ははっとするほど白い。
落ち着かなくて無駄に眼鏡の位置を直す。
「魔法の起源がいい? それとも魔法別の誕生秘話?」
「……どちらかと言えば魔法別で」
「それなら上ね」
上、と言われて無意識に顔を上げた。真上は魔方陣に似た模様が描かれた天井しかなく、そこでやっと回廊のことを指していると気が付いた。
「上のことはもっと詳しい人がいるの。奥の階段から上がって行って、あの辺りにいると思う。
ハナっていう黒髪の……司書ってことにしておいたらいいのかしら」
まずカウンターの向こうにある大きな階段を指差して、それから回廊を三周と少ししたところで指を止める。回って行くしか手がないから、かなり距離がありそうだ。いるのはハナという黒髪の司書さん……でいいのか?
目の前の司書さん――そういえば名前を聞いていない――はこちらを向き直ると、くすりと可笑しそうに顔を歪ませた。肩の辺りでハニーブラウンの髪先が踊って、全身で笑っているようにも見える。
「ハナは気難しいけど物知りだから、何でも聞いてみるといいよ。ただ、本当に気難しいけど」
頑張ってね、と送り出されたら帰るに帰れなくなった。そんなに扱いにくそうな人のところには、できれば行きたくないんだけど。
仕方なく、礼を言ってカウンターから離れると階段へと向かう。触れた手すりはよく冷えていて、思わず叫びそうになるのを何とか堪えた。石ではなくせめて木にしてくれていたら良かったのに。
十数段の階段を上ると、そこから回廊が始まる。広めの緩やかな斜面がずっと続いていた。書架の上板に左手で触れながら、ゆっくりと進みだす。
書架は僕の目線と同じくらいで低く横長だけれど、厚みがあって階下を見ることができない。何周回ったのかは、角を幾つ曲がったかで判断するしかなかった。あの優しい司書さんが既に恋しい。振り返っても来た道は戻るまで見えないことに気が付いて、もう下へは戻れないような錯覚に陥った。
時間をかけてようやく三周目の辺りに辿り着く。
どこにいるんだろう。通路は広く、隠れる場所はないはずだ。そういえばここに上がって来る間、誰ともすれ違わなかったけど、本当に人なんているんだろうか。少し心配になってきた。
それでも今更会わずに降りていくのも格好悪いし、いるって言われたんだからいるんだろうと信じることにして、また次の角を曲がった。
いた。ハナさんかは分からないけど、人がいた。
壁を背にして、でかでかと奥行きのありそうなソファにゆったりと腰掛けている。傾斜になっているはずなのに、とよく見ればソファの下には台が置かれていて、真っ直ぐになるようにちゃんと工夫されていた。
横顔が見えるはずだったのに、特大の魔導書のようなものを顔の前に掲げていて見ることはできない。ソファの肘置きもあるせいで、むしろ上半身全体が隠れている。見えるのは黒髪で覆われた後頭部だけだ。脚は艶やかな紫の布に覆われているけど、その下からやけにフリフリした裾が覗いていて、ドレスのように見える。
体型を見る限り――ほとんど見えてはいないけれど――同年代か、下手をすれば年下のようにも思える。でももしかしたらあの本の向こうはしわしわのお婆さんという可能性もない訳じゃないから、何とも言えない。
あぁ、本を持っている手はつるりとしているから、それはないか。やっぱり年下かもしれない。
そう思うと「気難しい」や「物知り」というのを疑いたくなる。この人じゃないんだろうか。
ものは試し、と少し遠目からそっと声を掛ける。
「あの……」
「何」
わ、すぐ返ってきた。かなり短かったけれど刺々しく返ってきた。それでも本は微動だにしない。
「ハナさん、ですか?」
「何の用」
質問ならせめて語尾を上げてほしい。疑問符を浮かべてほしい。じゃないと怖くて言葉が続かない。ただ、顔が見えなくてよかったかもしれない。これで睨まれたりしたらもっと動けなくなりそうだ。
渇いてきた唇を湿らせると、大きく一歩踏み出して正面になる位置で改めて声を出す。
「下で、魔法の歴史についての本のことを聞いたら、ハナさんが詳しいから聞いてみるように言われて」
「そこから上に向かって六番目の棚の下から二段目、左から数えて十七冊目」
「へ?」
「だから六番目の棚の、下から二段目の、左から数えて十七冊目。『魔法の歴史入門』って本がある」
本の場所を教えてくれていると分かって、忘れないうちに探してこようと動き出した。
六番目の棚……下から二段目……左から十七……と、これか。確かに言われた通り、『魔法の歴史入門』という本があった。正式な題名は『馬鹿でも分かる魔法の歴史入門』だったけど。こんな本もあるんだな。
その本を持って、ハナさんの所まで戻る。ひとつ異議を唱えたくなってしまったからだ。
彼女は相変わらず顔の前に本を掲げて読み耽っている。俺の気配を感じたのか、僕が声を掛ける前にハナさんの声が聞こえた。
「何よ、何か文句でも?」
「文句ってほどじゃないですけど……」
自分の口調がいかにもふてくされた感じが出ていて、しまったと思った。が、思った時にはもう遅かった。
今まで姿を隠していた本が下へと下ろされる。そのままバフッと膝の上に置かれるとスカートの裾が反動で小さく浮き上がった。
そこにいたのは、見る限り少女だった。けれど少女では出せない色香を感じさせた。
長い黒髪は艶々していて、あどけない顔を凛と引き締めている。着ているドレスは胸元にもフリルがあしらわれ、ところどころにコサージュと刺繍の施されたリボンが付いているという、幼さを強調するようなものだった。なのに髪と同じ色をしたレースが妙に大人っぽく、気安く近付けない何かがあった。
大きな存在感のある目で僕を捉えると、小さな唇が動き出す。
「何の予備知識もなく単に知ろうとするのは逆に遠回り。まずはそこから始めなさい」
「……はぁ」
「気のない返事はやめてくれる? 言いたいことがあるなら言いなさいよ」
言いたいことは多分色々ある。顔と話し方が合っていなくて戸惑うとか。何でこんな微妙な位置にいるのかとか。そのソファは私物なのかとか。
だけど頭がごちゃごちゃして、とりあえず一番最初に形になったものを言葉にしてみる。
「司書さんなんですか?」
「違うけど」
え、じゃあ僕は一体何者に教えを乞おうとしているんだ?
「まぁでも、下にいる司書たちよりはここの本のことを知っているわ。何がどこにあるか全部把握してる」
「借りられたりするのに?」
「本自体が居場所を教えてくれるのよ。だからここにいる間は司書と思ってくれたらいいわ」
どういうことなんだろう。意味が分からないけれど冗談を言っている風でもないし、本当にそんなことがあるんだろうか。何だか只者じゃない気がしてきた。
ハナさんはどうやら本を読むのをやめて、僕と少し話す気になったらしい。
開いたままだった本を閉じると、表紙にふっと息を吹きかける。すると本は光る粉のように舞い上がって、やがて消えた。
呆気にとられてぽかんとする僕を見て、ハナさんはからかうような視線を寄越す。
「元の場所に戻したの。自分で行くの面倒でしょ?」
「え、でも今のどうやって……」
「教えないわよ、私が作った魔法なんだから」
作った? そう聞こうとして先手を取られ、名前を聞かれる。僕だけ知っているのも不公平かと素直に答えた。
「ロニー・クレイグです」
「クレイグ……魔石商の?」
「知ってるんですか?」
「まぁね」
ふぅん、あんたがね。意味深に、そして無遠慮にじろじろと見てくる。何だか居た堪れなくて腹の辺りでベストをぎゅっと握った。
考えてみれば魔石商のクレイグ家といえば古くから知られているし、名前を聞いて関連付けたとしても不思議ではない。ただそれをハナさんが気付いたとなると話は違ってくると思う。この人はきっと見た目通りの人ではないんだろう。
「歳は幾つ? 何年?」
「十三です、二年生。……あの、ハナさんは?」
僕が聞くと、それまで小さくても笑みを浮かべていた表情がすっと変わる。感情の落ちた目で見られると、周囲の空気から一気に温度が引いていくように感じた。
「ちょっと、レディに何てこと聞く訳? それを聞いていいのは五歳の坊やまでよ」
「す、すみませっ」
震える唇が咄嗟に謝罪の言葉を吐き出すと、身体がじんわりと温かくなっていくのが分かった。見れば、ハナさんがにこりと笑っている。もうすっかり元の温度で、むしろさっきより上がっている気がする。その証拠に眼鏡が薄く曇った。
無意識に短くなっていた呼吸で苦しくなって、僕は深呼吸を繰り返した。縮こまった肺が痛い。
「これで分かった? 女を怒らせると怖いのよ」
何だろう、この感じ。呪文を唱えた訳でもなく、ただそこで表情を変化させただけなのに、こんなにも空気を一変させた。空間を操っているような、周りのもの全てが彼女に従っているような気配さえある。
五感が決して逆らうなと知らせている。けれど反対に、従うなら確実に自分を変えてくれることも予期させた。
変えてほしい、できそこないの僕を。変わる術を教えてほしい。
もう下を向いて歩くのは、嫌なんだ……。
突然、何かが叩きつけられるような大きな破壊音と衝撃が、図書館を襲った。ハナさんに話し掛けようと口を開いていた僕は思わぬ揺れに対応できず、よろけながら舌先を噛んでしまった。
床に座り込むと自然と目に入ったのは、さっきまで天井があったはずの場所に広がる鮮やかな青。それをいい天気だなと思う暇もなく、何者かの刺々しい尻尾のようなものがそこを横切った。
「まったく、性懲りもなく……。少しは学習しなさいっての」
頭上から声が聞こえて見上げれば、隣にハナさんが立っていた。僕に言っているのかと思ったけれど、目線は上だ。
言葉と同様にいかにも面倒そうに顔を顰めて、腰に手を当てている。立ち上がってもやっぱり小柄な彼女がそうすると、なおさら少女に見えた。――けれど恐らくずっと年上なんだろう。
そしてその格好のまま固まっている僕をちらりと見下ろすと、少しだけ楽しそうに口角を上げた。
「危ないから下がってなさい。折角だからわたしの特別席で見せてあげる」
「でも、ハナさんも危ないんじゃ」
「あら、それ誰に言ってるの? 心配ご無用よ」
邪魔だからと追い立てられて、言われた通り彼女が座っていたソファに腰掛ける。身体を包み込むような安心感とほどよい反発力に一瞬くつろぎかけたけれど、本当にこんなところで座って見ていていいんだろうか。幾ら自分より明らかに強そうでも、女性の後ろで見ているなんて。
そう思っても、僕が動けば足手まといになるのは必至。どうしようもない。肩を落とし、素直に身体を預けた。
小さな背中が書架の前に立つ。集中しているのが、ひりつく肌で何となく分かった。
階下の慌てた声が聞こえてくる。自分が戦うと言う勇敢な少年の声も上がっている。外へ出るよう指示しているのはさっきの司書さんだろうか。見えないけれどそんな気がした。
重い音で入口の扉が閉まる。聞こえていた声が無くなって、図書館に静寂が満ちる。
一瞬だけ見えたあの尻尾は一体何だったんだろう。尻尾の大きさがああなら、全長はどのくらいあるんだ。天井を破ったのもあいつなのか。
風の音がする。大きな穴から轟々と低い音で流れ込んでくる、生温かい……いや、違う。これは。
ぬっと、長い顔が穴から入ってくる。
大きな口からはみ出した尖った歯は乱雑で、その隙間からだらしなく粘っこい涎を垂らしている。唸るように吐きだされた息は黄土色で、しかも腐敗臭がした。こちらを向いた鼻先が器用にひくついている。
「臭い息吐いてんじゃないわよ、その臭い染み付いたら取れないんだからね」
ハナさんは相手の姿を見ても動揺しない。それどころか聞き分けのない子供に注意するような気安さで話し掛けている。以前にも対面している口振りだ。
相手もハナさんの声が聞こえたらしく、更に中まで顔を突っ込んできた。細くつり上がった目が人間でもないのに神経質さを醸し出す。穴の縁にかけた前足の、厚く鋭い爪が凶暴だ。凹凸に波打つ皮膚は美しさの欠片もない。言葉が分かるということはないだろうけど、挑発されているのは分かるのだろうか。
目の前の、見たこともない情景のどこに集中すればいいのか分からない。そんな僕をハナさんが振り返る。身体は半歩こちらに向けたまま、その目はまた敵を見据える。
「これはね、デラヴィナっていうの。魔力の多いところに集まる習性があって、ここはこれまでにも何度か襲撃されてる。
フォルムはドラゴンに似ているけど少し違うわ」
そう言いながら、すっと指を差す。その先には不自然なほどに膨らむデラヴィナの腹があった。
「あの大きなお腹の中に魔法石を生まれ持っていて、魔法が使えるのよ。身体が大きくて力がある分、人間より厄介なの。使える魔法は個体によってそれぞれだけど、この子は……火炎魔法なんて本が燃えちゃうじゃない、ムカつく」
最後の方は僕に教えてくれているというよりは独り言、もしくはデラヴィナへの文句だった。
よく見れば、デラヴィナの腹が時折赤く点滅する。あのごつごつした土色の皮膚も案外薄いのかもしれない。
僕がそうやって考えている間、ハナさんはと言うとずっとデラヴィナに文句を言い続けている。場所を考えろだの、涎を拭けだの、この状況なのにただの注意になっているのが何だか可笑しかった。
デラヴィナが動く。少し前足を移動させただけだったけれど、その大きな爪が壁に当たって深い傷を付ける。あの爪には絶対に触れられたくない。
引き続き見ていると、身体をくねくねと左右に揺らし始めた。何をしているのかと疑問に思った時、後ろに身体を引いたデラヴィナが、口からわっと火を噴いた。
体格の割にその炎は大きくはなかったけど、周りの本の表紙を炙る程度の威力は十分にあった。魔法だからだろう、触れていないこちら側の本の背表紙もちりちりと音をさせながら形を変えている。
背後に異様な熱を感じて振り返れば、ソファを縁取る金の装飾が熱を吸収して今にも溶け落ちそうになっていた。慌ててソファから離れると、しばらく動かしていなかった脚がもつれて情けなくこけてしまう。自分のふがいなさにまた動けなくなった。舌もまだ痛い。
ハナさんは大丈夫だろうか。格好悪く床に這いつくばったまま、彼女の様子を窺う。
俯いて垂れた髪で表情は分からない。けれど見上げた肩が震えている。やっぱり女性だ、きっと怖かっただろう。声だけでも掛けてあげなくてはと、名前を呼んだ。
「ハナさ……」
「図書館をこんなにめちゃくちゃにして……もうあんたのこと絶対許さないから」
また、空気が変わる。今度は重い。重力がのしかかってくるような感覚がある。上からも横からも力が加えられ、そのうち押し潰されるんじゃないかと思えるほどだ。――この人は怖がってなんかない、戦う気だ。
向かうデラヴィナもその異変を感じたのか、口元をもごもごと動かしている。それでも何でもないように、むしろハナさんへの興味からか前のめりになった。掴まれた壁がぼろぼろと崩れている。
それを見ながら、ハナさんは邪魔そうにドレスの裾をたくし上げた。
「楽しそうにできるのも今のうちよ……おいで、アウラ」
彼女の声が優しく何かを呼ぶ。するとどこからともなく蝶が現れ、ふわりふわりと宙を舞っているのが見えた。美しい羽は自身を主張するように光り、その軌道を印していく。無性に引き寄せられる姿に、デラヴィナも意識を向けずにはいられないらしい。
やがて蝶は、ハナさんの掲げた指に静かに止まった。彼女はこの蝶を呼んでいたんだ。
愛おしそうに微笑んだハナさんは瞼を閉じると、ゆっくりと深く息を吸い込む。それはただの深呼吸ではなかった。彼女がそうしている間に、花を象った光の粒子がそこここから湧き出ては上へと流れていくからだ。そして彼女自身も光に包まれるように、その髪も、ドレスも、仄白い輝きを放つ。
散りばめられた光の中で、彼女は目覚めた。太陽に照らされて開く一輪の花のように。
――僕には確かに、そう見えた。
射抜くような強い眼差しをデラヴィナに向け、彼女は熱の篭もった声を放つ。
「自分の愚かさをその肌に刻みなさい。そして知りなさい、花の怒りを!」
激しい光の波が階下から柱のように伸びて、飛び立つ蝶を追いかける。すべてはひとつになり大きな翼のような形を取ると、一直線にデラヴィナの腹に突き刺さった。
デラヴィナは逃げる間もなく、耳を劈くような咆哮を上げながら悶えている。蝶も光も散っていった腹からは、赤い光が筋になって零れている。巨大な魔法石が今にも転がり出てきそうだ。
しかし苦しみながらも、デラヴィナは身を捩って飛び立ってしまう。
「あ、行かせていいんですか?!」
いつの間にか身体が軽くなっていた僕は立ち上がって駆け寄り、逃げられることに何の反応も示さないハナさんを窺うと、軽く大丈夫よと答えられた。
彼女はすっかり元通りになっている。失礼だけどとても残念だ。
「でも、また戻ってきたりとか」
「あの子が戻ってくることはないわ。長く見積もってあと一時間ってところかしら」
住処に戻った頃が限界ね、と話すハナさん。彼女はとても冷静だけど、ここで仕留めるだけの力はなかったということなんだろうか。
そんなことを考えていると、ふとこちらを見たハナさんが不満そうに睨んでくる。今度は空気が変わるようなものではなかったけど、既にトラウマだ。身体がびくりと震えた。
「力が足りないとか考えてるんじゃないでしょうね?」
「え、いや、それは……」
「いい? わざと帰らせたの。あの背中を見なさい」
言われて、よろよろと飛んでいくデラヴィナの背中を見つめる。そこに何かが見えた気がして、眼鏡を掛け直してじっと凝視する。
「あれは……花?」
「そう、花の紋章。わたしのマーク」
アウラという蝶が光と共にデラヴィナの腹に刺さった時、実は魔法石を通って背中の皮膚の内側まで到達していたらしい。そして腹の中の魔法石の力を借りて、花の紋章を焼き付けた。それが少しの時間を経て、皮膚の外側に出てきているんだ。
「あの紋章を付けて住処まで帰ってもらうの。そうすればあの子の仲間がそれを見て、ここには自分達より強い者がいるって分かる。そうすればここが襲われることはなくなるから」
ハナさんはそこまで言うと振り返って、壁際の窓に向かって歩いていく。装飾部分は無事だったようだけど、ガラスはすりガラスのように縮れて外を眺めることはできない。
が、ハナさんはそのガラスに何の躊躇いもなく触れて割ってしまう。これも魔法かと思ったけど、そういえば明らかに力を込めていて、やっぱり怒らせたくない人だと思った。
窓の外、校舎を眺めながら彼女は続ける。
「ここは魔法学校でしょう? まして図書館なんて、デラヴィナの大好きな魔力が沢山集まってる。だからこうして、ここに近付くのを怖いと思わせなきゃいけないの。
まぁ、彼らはひとつの群れで暮らしている訳じゃないから、何度も繰り返さなきゃいけないんだけど」
わたしはそのためにいるようなものね。彼女は肩を竦めてそう言った。
ハナさんは図書館を守るためにここにいる。何だか納得できる。
デラヴィナが火を噴いた時、本が焼けるのを見て彼女は本当に怒っていた。義務感じゃなく、この図書館を大切にしたいという気持ちが表れていた。
何が彼女をこんなに強くしたんだろう。生まれ持った魔力の強さ? 鍛錬?
僕も強くなれるだろうか。助けられるのを床に這いつくばって見ているんじゃなくて、誰かを守れる力を持てるだろうか。
「あの紋章にはもうひとつ意味があってね、あの子が死んじゃうとあの魔法石がわたしのところに来るようになっているの」
「……来たら、それはどうするんですか?」
「次の魔法を作るわ。あの子の死は無駄にしない」
もう見えなくなったデラヴィナの姿をハナさんは振り返る。目を細めて空を見つめながら、この人は何を思っているんだろう。
確かに今、強くなりたいと思った。けれど何かの犠牲の上にその強さがあるなら、それはとても怖いことにも思える。今までそんな風に気にしたことはなかった。
迷いなく答えたハナさんを見て思ったんだ。強くなることが無感覚になることなら、それを手にするのは怖い。人でなくなってしまうような気さえする。今のまま、後ろから眺めている方が僕にはいいんじゃないかと思えて、どちらを選ぶべきか分からない。
思い切って、この人に尋ねてみよう。怒られたとしても、それはそれだ。
「ハナさん」
「何?」
「戦うことは失うことなんでしょうか? こうやって壊れて、本も焼けて、デラヴィナはいずれ死んで。得られるものは魔法石だけ。それを得たら魔法を作って、また同じように使うんですよね。
……怖くはないんですか?」
――繰り返していくこと、当たり前になっていくこと。怖くはないんですか?
彼女は怒らなかった。しばらくの間、じっと空を見上げたまま動かなかった。僕は彼女が答えるのをずっと待っていた。
やがて彼女は淡々と、こちらを向くこともせず言葉を吐いた。
「戦いや争いに犠牲はつきものよ。目の前で仲間を何人も失ったわ。わたしが奪った命の数も、デラヴィナ達や他のモンスターも合わせれば数百万はあるかしら。
弱ければ倒され、強ければ生き残れる。そういう世界にわたしたちは生きてるの。わたしはそうやって、生きてきたの」
そう話してから彼女は黙ってしまった。けれど僕は、彼女の言葉がそれで終わりではないと思った。感情を削ぎ落としたような冷たい無表情は、あまりに彼女に似合わない。
彼女は困ったように眉を下げてから、僕を見上げた。
「怖くないことなんてない。いつ自分が死ぬか、周りの人を亡くしてしまうか……自分が奪う命のことを考えたら、いつだって怖い。
だから今、戦うの。将来、こんな思いをする人がいなくなるように、そんな世界を変えられるように今、わたしは戦っているの」
きっと誰もが戦う意味を模索している。傷付くことと隣り合わせのこの世界じゃ、そんな意味を見つける暇もなく否応なしに魔力を使わなくてはいけない。
彼女は沢山傷付いている。見てきた光景、失ったもの、奪った命。見えない部分にできた傷は簡単には癒せない。
だからこそ、彼女は強いのだろう。
怖がることを恐れない。恐れながらも怯まない。世界を変える、その目的のために傷付くことから逃げない。――だから強いんだ。
「……僕も強く、なれますか?」
頭で考えるより先に、そう言っていた。
彼女が目指す世界を僕も見てみたい。僕のように魔力の弱さから下を向いてしまう子がいなくなるように。みんなが胸を張って暮らせる世界を、僕も実現させたい。
僕の問いに一瞬目を丸くした彼女は、今までで一番甘く僕に微笑んだ。
「群集を守る英雄はいつの時代も、あなたくらい臆病だって知ってる?」
こんな時にも彼女の言葉は優しくないけれど、これまでのどんな言葉より僕の胸を熱くさせた。この声を忘れることはないだろう。
そういえばデラヴィナが出てから、彼女は戦うだけでなく、僕に説明をしてくれた。デラヴィナの特性、彼女の魔法のこと。みんなが避難していった中で、僕は彼女にここで見ていることを許された。
やはり彼女が導いてくれる、そんな気がした。きっと初めから、僕の内情に気付いていたんじゃないだろうか。改めて聞く代わりに、貪欲にも僕は質問を続けた。
「どうすれば強くなれますか?」
すると彼女は、あのすべてを溶かすような微笑みから一転、意地悪くにやりと笑う。
「ここの修理を手伝ってくれたら、教えてあげてもいいわよ?」
こんな天井がほとんど抜け落ちて、あちこちに傷や焼け跡が付いているのを元通りにするには一体どれほどかかるだろう。本当は多分、この人の魔法で綺麗にできるはずだし、からかっているんだろうとも思う。
だけど迷いはなかった。
「分かりました、手伝います」
「その根性、いつまで続くか楽しみだわ」
ふふんと鼻を鳴らす彼女がすっと空に向けて手を上げた。何をするのかを首を傾げた僕をちらりと見て、
「ロニー・クレイグの前途を祝して!」
と叫ぶと、掲げた指先から火花が飛び出て、指差した空に大輪の花が打ち上がった。幾つも幾つもひとりでに咲いては散って、明るい空を彩っている。
パンと弾ける花火を見ながら思う。この人はきっとすごい人だ。まだほとんどのことを知らないけれど、そんな気がする。この人に付いて歩く未来が、何となく想像できた。
そしてその強さが分かったからこそ思う。この人が魔法図書館にいるから余計にデラヴィナが寄ってきちゃうんじゃないかって。修理してもまた壊される未来も、割とはっきり想像がついた。
花火はまだ咲き続けている。空を見上げる彼女は、ただの無邪気な少女のようだ。だけど。
――ハナさんがいる魔法図書館は、きっとかなり危うい。
りちうむいおんさま、ありがとうございました。
初めてファンタジーに手を出してしまいました。ファンタジーと呼べるかは置いといて。それらしくなっていたら嬉しい。
できるだけイラストに忠実に行こうと思ったんですが、どうだろう……魔法は、うん、よく分からない泣
ちなみにハナという名前は花と被せた訳ではないんですよ、日本人じゃないですし。あまりに両方出るから名前変えようかと思ったけど、もうハナさんにしか見えなかったのでそのままです。




