Triumph of Timid(気弱な青年の凱旋)
氷点下の冷気が僕達の体力と生命への執着を急速に奪ってゆく。休憩は一時間毎、三十分毎とその間隔を狭めていった。ローラーブレードのホイールが割れたのは出発して500kmをどれだけか過ぎた辺りだった。つんのめった僕は危うく行町の身体を投げ出してしまうところだった。しかし、そうなったとしても彼はもう不平を言わなかっただろう。
なにか語り掛けてくるような元気は一歩になく、サイトも悲しげな目で見つめるのみ。沈黙を破ったのは僕らーズだった。
《意地を張るのも大概にしましょう。この座標は記憶しました。彼を背負っていては日本に帰り着ける望みはなくなります》
P300Aで活性化したはずの僕の脳味噌だが、思考に霞がかかったようで反論さえ思いつかない。僕らーズの提案に素直に従うことにした。すまん、必ず迎えに来るからな。僕は行町の冷たくなった身体に手を合わせた Wish you're here ――今度はピンク・フロイドのヴァージョン―を行町への挽歌として贈った。
《頑張りましょう、後たった260kmです》
《頼みのローラーブレードなしで〝たった〟と言えるのか》
僕の空元気は押し黙った。ひとことの意思疎通もなく、僕と一歩はバランスクッキーの最後の1本を分けあった。
《行こうか》
足がゴムになったように感じるという表現がある。この時の僕は、手も足も、そして脳までゴムになったように感じられていた。
――〝しらせ〟との連絡が途絶えました。
十州道発のその通信は日本中のコミュニティに伝えられた。所が伊都淵のツナギのポケットから衛星電話を抜き出す。
「川崎君か、梓を頼む」
――通信は聞いたわ。衛星は使えるのね?
「ああ、丈君に埋めた発信器のアルマナックデータとエフェメリスデータを教えてくれ」
所の声を聞いた人々の落胆に沈んでいた顔に僅かだか希望が灯されたように見えた。
「お前の出番だ」
データを伝え終えた所は伊都淵の肩に手を置いて言った。
「キーボードに点字はなかったよな?」
不安気な伊都淵の声に、派手な防寒衣を異形の血で変色させた石川が歩み出て言った。
「衛星の操作なら私にも出来ると思います。ただ、ここから捜索に向かうとなると時間がかかり過ぎます。日本海側にコミュニティにはないんでしょうか?」
その問いには真柴が歩み出て答えた。早くから無線担当班を設置して生存者の捜索にあたっていた彼は北陸と上越地方のコミュニティとコンタクトが取れていたのだ。
「心当たりがあります。小野木君の位置が補足できたら、その座標を教えてください」
《もうよせってば、君まで死んじゃうぞ》
《私は犬だ、人間の言葉はわからない》
四肢の電源が落ちた僕は身動きできない状況に居た。その僕の襟を咥えて一歩が引きずる。だが彼がどれだけ必死に頑張っても5メートルと進まない。
《サイトに道案内を頼んでおく。彼女を追うんだ》
《何度も言わせるな、私に人間の言葉はわからない》
わかってるじゃないか、ちゃんと――
《彼は勇敢な男ですね。以前の発言は撤回させてください》
一歩の行動は、ついにこの傲慢な僕らーズをも屈服させていた。
《僕にも謝るべきことがある》
《なんでしょう》
《君の意見を否定し続けたけど、ようやくわかったよ。人間には感情があって、そこには残虐性も含まれる。それだけを抽出して排除するなんてことは不可能なんだ。激しい憎悪があるから深く人を愛することが出来る。哀しみがあるからこそ喜びも生まれる。殺戮や戦争を否定するなら、それは人類の存在そのものを否定することになる》
《全く同意見です》
僕らーズが賛同し、薄れゆく意識の中で僕は満足気に笑った。もうどれだけ歩いたのか、どれだけ日本に近づくことができたのか、バイオナビも働きを止めようとしていた。
ワンッ! 一歩が吠えた。とうとう彼の言葉まで理解できなくなってしまったようだ。真由美さん、母さん、ごめん。
「あそこだっ! 見つけたぞー、こっちだ」
「幻聴まで聞こえちゃおしまいだな――」その呟きを最後に僕の意識は途切れた。
「プルス100、ドゥルック120-80、呼吸20パ-ミニッツ、JCSは……300です」
「ああ、それはいい。単なる電池切れだよ。朦朧としているが意識はあるようだ。JCSは20、括弧開くGCS、E-4括弧閉じる、としておこう。しかし、この腕……静注は効くのかな?」
「さあ?」
幻聴は続いていた。なんとか生き延びたいという願望が青年医師と看護師の幻覚まで見せているようだ。と、いうことはまだ天国ではないな。ここが煉獄ってヤツなのだろうか。僕の罪深き魂はこんなんで浄化されるのだろうか。
「到着されました」
離れた場所から別の声が聞こえた。
「低体温症もないようだ。ふたりにしてあげよう」
「低体温症がある、彼女にはそう言って差し上げたら?」
看護師の提案に医師はこう答えていた。
「名案だな」
医師達の去る足音が小さくなると、入れ違いに近づいてくる足音がある。視界の外で衣擦れのような音がすると一糸纏わぬ姿の真由美さんが現れて、同じく全裸の僕に覆い被さってきた。えも言われぬ香りと温もりが伝わってくる。これは絶対に幻覚だと確信した。
《違いますってば》
僕らーズが戻ってきたようだが相変わらず手足は動かない。となるとここは天国なのか? だとしたら少々マズイことになる。日向子や真一がどこかにいるはずだ。この状況を見られたら、どう弁明しよう。きっと父さんも冷やかしにやってくるだろう。僕は狼狽えながら周囲を見回した。そして重大な事に気づいた。
「なんで真由美さんが天国にいるんですかっ! まさか……」
「ここは天国なんかじゃないわ」
真由美さんの涙の粒は大きすぎて頬を伝わることなく直接僕の顔に落ちてくる。
「天国でないとすると、ここは一体……」
「呉東市のアークよ。ここの沖合――でいいのかな? 80km地点で倒れていたあなたをここの人達が見つけ出してくれたの。あの大きなスピッツと鳥さんも無事よ」
「そうですか、良かった。でも、あれはスピッツじゃありません」
「そんなの、どうだっていいっ!」
真由美さんは泣いた顔のままで怒った。そして声を詰まらせる。ここで何か言わねば男じゃない。ところが僕はかなりマヌケな言葉を口にしてしまう。
「僕は……生きてるんですね」
「当たり前じゃない。あたしをこんなに心配させて――この最低男」
遺伝子の記憶がふいに蘇り、僕はふっと笑った。
「なにがおかしいのよ」
「さっきの言葉――真由美さんのお母さんが僕の父さんに言ったのと同じです。お願いがあります。まず服を着て先生を呼んできて下さい。手足に電気を流してもらわないと、あなたを抱きしめられない。それから……」
「それから?」
「先生を追い出して、もう一度服を脱いでこうして下さい」
「……バカ」
泣き笑いの顔になった真由美さんは抵抗できない僕の唇を奪っていた。
完




