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A home too far(故郷は遠く)

 僕は放心状態だった。僕達の帰還を待っていたはずの〝しらせ〟はオレンジの船尾から突き出したプロペラを虚しく掲げて氷の海に沈んでいる。大切な仲間を失い、全ての途は閉ざされたかのように思えていた。それは行町も一歩も、サイトも同様だった。

《君は帰ることが出来る。行ってくれ、行ってもう心配することはないと伝えてくれ》

 そう告げる僕に、サイトはマリアの身体ほどの氷塊を止まり木にしてカクカクと首を振った。

《嫌よ》

「俺がついてきた理由がわかるか?」

 行町がポツリと言った。

「さあ……」

 質問の意味を探ろうとゆう気力さえ起きない。

「あの時の喧嘩な、あれを謝りたかったんだ」

「もう忘れたって言ったじゃないか」

「お前の名前が〝死んだ赤ん坊〟の名前だって言ったことを忘れたのか。そんなはずはないだろう」

 思い出したくもないことを行町は思い出させてくれた。確かに僕がキレた引き金は〝ターケ坊〟ではなく、その言葉だった。42歳で僕の父親となった恋多き男は、母と結婚する前に婚約者を病気で亡くし、その前には妻子が居る身で、若い女性と付き合っていたらしい。その時に出来た子供をこの世界に迎え入れてあげることが出来ず、僕にその名前をつけたことを泥酔した懇親会の席でベラベラと喋っていたそうだ。行町のオヤジだかおふくろだかが、それを聞いて彼に話してしまったのだろう。或いは盗み聞きだったのかもしれない。確かめようにも、その時、父さんは既に他界しており、母さんは『父さんは人を愛し過ぎちゃうのよ』と、否定の言葉を口にすることはなかった。

「もう、いいよ」

「よくないっ! お前が許すと言ってくれない限り、俺は死んでも死にきれない」

 語気を強める行町の顔を僕は見た。彼の顔が父さんのそれに変わってゆくように思えた。

――9.02が神の怒りだとすれば生き残ったお前達は神に忘れられた存在だ。なにも恐れるものなんかない。そもそも神なんてものは人それぞれの内にある。諦めるってこたあ、自分自身に負けたってことだ。それにまるっきり同じ名前をつけたんじゃないぞ。亡くなった子は健康の健でタケル、大和武尊のタケルでも良かったんだがな。お前はそのどっちでもない、頑丈で丈夫なタケルだ。とんだ名前負けだな――

「なんだと?」

 幻聴に詰め寄る僕に行町は怪訝そうな顔で返してきた。

「俺の静って名前はな、未熟児で深夜に産まれてきて朝を迎えられなかった姉ちゃんの名前だそうだ」

――だとさ、お前がここで諦めちまうってこたあ、それほど多くの人の願いに背を向けるってことだ。丈、お前は子供の顔が見たくねえのか?――

「行こう! 陸路が残ってる」

 僕は務めを果たさねばならない。中ノ原に残してきた真由美さんとお腹の赤ん坊に。母さんに、必死に生き抜こうとしている人々の希望に応えなければいけないんだ。

「行こうったって、俺はこの足だ。歩けやしねえよ」

「おぶってやるさ。僕達が無事日本に帰りつくことができたら、お前を許す」

「無茶苦茶言ってやがる。そんなんじゃあ死ぬ訳には行かねえじゃねえか」

「ああ、もう誰ひとりとして死なせるつもりはない」

 氷の陸路を行くとして能登半島の突端まで800km近くある。行町を背負って走るローラーブレードの耐久性に不安はあったが、行けるところまで行こう。死ぬなら少しでも日本に近いところで死んでやる。僕はそう考えていた。一歩がすっくと立ち上がった。

 陸路にはホモローチの第一・第二世代、人喰いの他、種々雑多な動物の亡骸があった。氷の棺に埋められた者、まだ死んで間がないのか薄い雪のベールに覆われただけのものもあった。

「すまんな、足でまといになっちまって。帰ったら一杯奢ってやるからな」

 背中で行町が言った。

「僕は下戸なんだ。奢ってくれるなら熱いエスプレッソを頼む」

「なんだ、情けない奴だな」

「その情けない奴に背負われてるお前はどうなんだ」

 軽口の応酬の一方で、僕はローラーブレードのベアリングが上げる異音が気になっていた。速度を抑えたのは決して一歩に合わせた訳ではなかった。五時間も走っただろうか。吹雪がブリザードに変わろうとしている。開放した視界も雪煙で霞んでいた。

「少し休もう」

 僕の背中で感じる揺れが行町の折れた足に与える苦痛は並大抵ではなかっただろう。少し前から彼は気を失っていた。一歩にしたところで明瞭な返事をするだけの体力は残ってなかったようだ。倒れ込むように身体を伏せると長い舌を出して喘いでいた。

《雪洞を掘る》

 クロームモリブデン製のアイスハーケンはプレス鋼板でできており、力の入れ方が悪いとすぐに変形してしまう。一歩との杜都市行で作った氷のホテルを懐かしく思い出していた。

《君もはいれ》

 気だるそうに顔を向ける一歩だったが身体を起こす気配がない。行町を押し込んだ雪洞に一歩の身体を抱え上げて運んだ。

《食べておけよ》

 行町の背嚢から出したパワーバー――隊ではバランスクッキーとか呼ぶらしい――を半分に折って一歩の口に押し込んだ。彼の緩慢な口の動きが疲労の度合いをよくあらわしていた。

 眠ってしまえばトコログリアによる体温調整は効かなくなる。僕はハーフコートを脱ぎ捨てて一歩と行町を抱く形で横になる。少しでも僕の体温を行町に伝導させようと思ったのだ。地磁気を読んで体内コンパスに修正を加える。

《合ってるかい?》

《ええ》

 サイトの返事が弱々しく聞こえるのは、翼を持たない僕達にとって残された道程が果てしなく遠いものに思えていたからではないだろうか。

 十五分程度の休憩の後、再び担ぎ上げた行町が目を覚ました。

「置いていってくれ。俺はもう許してもらわなくっていい」

「嫌なこった」

 喉が乾いたのだろう。起き上がった一歩が氷を舐めている。

《そんなのを舐めると余計に喉が乾くぞ、ほら》

 雪洞を掘った時のかき氷をペットボトルに入れ、それを懐で温めて出来た水を掌に注ぐ。

《お前達の分がなくなる》

《仲間だろう、その〝お前達〟には君も含まれている》

《ありがとう》

 ザラザラした舌がくすぐったかったが、彼が素直に礼を言ったことに僕は驚いていた。

「さあ、帰ろう。僕達の国へ」

 それはくじけそうになる僕自身に向けた言葉でもあった。Wish you're here を口ずさみながら僕達は再び行進を始めた。


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