Beyond the glacier(氷河の彼方)
「自衛隊って、格闘技を習うんだろう? 受身はとれるよな」
「術科学校で柔道と剣道は習った。なんでそんなことを訊くんだ? お前、まさか……」
氷壁にぶらさがったままで世間話をしようとした訳ではない。この状況では行町を放り投げるしかないように思えた。
「その〝まさか〟だ。手加減はするが、氷にぶら下がった状態で人を放り投げるなんて初めての経験だからな。痛い思いをさせたらごめん」
「ちょっと、まっ――」
行町の抗議を待たず、カウントダウンもなしで左手を振って彼の体を放り投げた。力が弱すぎても体が浮き上がるだけで行町は氷河に飲み込まれることになる。「うわっ」と叫び声が上がり、しばらくしてからドサリという鈍い音と「ぐえっ」という声が聞こえた。
《次は君の番だ、手を伸ばしてくれ》
残念ながらマリアがぶら下がる場所まではふたりが一杯手を伸ばしあって届くかどうかの距離だった。
《バカね、これは前足っていうの。いずれにせよ片方で私の体は支えられない。ダイエットしておくんだったわ》
冗談混じりにそう言うマリアの顔はとても悲しげだった。
《だったら、僕が先に上がって両手で君を引き上げる》
行町を放り投げて空いた左手は氷に深く打ち込めてなかった。体を保持することが出来ないのだから当然だ。マリアにはそれがわかっているようだった。
《私を置いて行きなさい。もう、どれだけもこうしてはいられない》
《嫌だっ! 僕の父さんは言ってた。格好悪くても、人に見苦しいと言われても諦めの悪いヤツが最後に勝つことだってあるんだって。君も諦めないでくれ》
ローラーブレードを履いた足では氷の壁に踏ん張ることはできないが、僕ひとりの体重なら両手懸垂の要領で楽に登れる。だが上からマリアのところまでは手が届かない。僕は迷っていた。
《ふたりとも落ちてしまったら、あの子の面倒は誰が見るの?》
こんな時にまで、一歩の心配かよ。あいつは君の可愛い小熊ではないんだぞ。《待っててくれ》そう告げると僕は氷をよじ登った。
行町を探す。手加減したつもりだが思ったより遠くに投げ飛ばしてしまったようだ。駆け寄って彼の背嚢からロープを取り出した。
「ひでえヤツだなお前は。足が折れちまったぜ」
「すまん、マリアを引き上げたら殴ってもいいぞ。お前の体を借りる」
僕は行町を担ぎ上げて氷河がポッカリと口を開けた縦穴まで走った。
「いてててて、お手柔らかに頼むぜ」
「すまん」
行町の背嚢には小さなハーケンが2本あるきり。僕はそれを深く氷に打ち込んで行町の体を縛ったロープに通した。
「なんとか堪えてくれ。マリアを引っ張り上げる」
「おうっ! まかせ……いててて、任せとけって」
行町が顔をしかめてる。崩れた棚氷がオーバーハングとなって見にくかったがマリアの黒く逞しい背中はまだそこにある。僕は穴に身を乗り出した。
異形の群れが破壊した部屋の柱を集めて作った臨時の火葬檀では、犠牲者が荼毘に付されていた。経文を唱える僧侶もなく、最早誰の遺体だかわからない断片となってしまったものもあったが、炎を囲んだ人々は黙祷で犠牲者に別れを告げていた。
自衛隊員達は寸暇を惜しんで異形の死骸を運び出している。
「くっせえ! こいつ等、死んでまで面倒かけやがって――あっ!」
板橋が毒づく声に続いて何かを思い出したように声を上げた。
「隊長、真壁司令と警官隊が地下の監房に閉じ込められています」
鼻と口を覆うマスクをずらして相良が聞き返す。
「閉じ込められてるだと? あのバケモノにそんな知恵があったのか」
「いえ、自ら逃げ込んだようです。さっきの地震でドアが歪んで出られなくなったと――」
手を止めた隊員達の間から怒りの滲んだ声が上がる。「隠れてたのか? 仲間がやられてたのに」「なんて奴等だ」それを制して相良が言った。
「板橋の報告は作業が全て終了してから受けた。そうだな」
「はいっ!」
隊員達は作業に戻っていった。何度かに分けないと燃やし切ることは出来ん。武器庫の火炎放射器で足りるだろうか――相良にとって喫緊の課題は臆病者の救出ではなかった。
伊都淵の気分を鬱いだのは失った視力ではない。人類の愚行に気づいたせいだった。
急ごしらえのHAARPでさえ、これほどの威力を示すんだ。金にものを言わせたどこかの大国が本格的なものを作り上げていたとすれば地球のコアに加速度をつけるくらいのことはできただろう。地軸のズレはそれによって引き起こされたに違いない。雨も、夜の闇でさえも自然が無償で与えてくれる恵みなのに、それをコントロールしようとしたバカはどこのどいつだ。疫病や災害、テロですら一部の特権階級の陰謀だと被害妄想気味に唱え続けていたジャーナリストが居たことを思い出す。彼の主張もあながち見当はずれではなかったようだな、今となっては何もかも手遅れだが――伊都淵の耳に近づく足音が聞こえた。
「酷い結果になってしまいましたね」
声を落として雄一郎が言った。
「〝犠牲なくして勝利なし〟だよ」
「チャーチルですか」
「ああ、だが俺が最後にそれを聞いたのはアーチボルト・ウィトウィッキーだった」
伊都淵はロボットが活躍する映画のワンシーンを思い浮かべていた。
「誰ですか、それは」
雄一郎の知らない名前だった。
「サム・ウィトウィッキーの高祖父だよ」
そう言って目を閉じたままの伊都淵が笑う。再び疲れた足音を聞いた。
「これからどうする?」
「所か……お前、ここに留まって国家再建に力を尽くしてみないか」
「それはお前の役目だろう」
目を開かない伊都淵の表情から多くを読み取ることは出来ないが、苦悩と悲嘆が彼に重くのしかかっていることは所にも窺えた。
「俺はな、こんな大馬鹿野郎ばかり生み出す人類が果たしてこの星に生き残っていいものかどうか確信がなくなっちまったんだ。それに大量殺戮を行なった者を世間が――俺達はこの地にそれを取り戻そうとしている訳だが――まっとうな人間だと思うはずがない。人殺しに国を治めることなどできないんだ」
破壊神のような形相で第二世代の群れに立ち向かった伊都淵だった。それが彼の本意でなかったことは、その寂しげな物言いからも汲んで取れる。
「しかし、俺は医学にしか能のない男だ。またぞろあんな奴等に襲われたら――」
所の言葉が終わらないうちに伊都淵は言った。
「ここには防衛のスペシャリストが居る。それに化物の本拠は丈君が叩き潰しているはずだ」
ザッザッと多くの足音が近づいてくるのが伊都淵の耳に届いた。
「お願いします、教授」「是非、引き受けて下さいっ」「陸上自衛隊中央即応集団14名、他1名、あなたの指揮下にはいります!」
雄一郎の発言を皮切りに、人々の所を推す声が広がっていった。
僕の体は行町の体重と頼りないハーケンだけで支えられていた。前足、いや、僕の家族であるマリアは手を延ばすことを拒んでいる。僕は彼女の太い腕を掴んだ。
「引っ張るぞ!」
ぐい、と力を入れた瞬間、僕の体はズルズルと前のめりに穴に飲み込まれる。行町の苦痛に耐える声とハーケンの抜ける音が聞こえた。
《無理よ》
《僕は諦めない、だから君も諦めるな》
期せずして僕が発したのは、父さんが病に倒れた婚約者に言った言葉だった。
《ありがとう、あなた達のことは忘れない》
氷に立てた爪をマリアが引き抜くと、腕を掴んだ僕の手袋の中を彼女の重みが抜け落ちてゆく。
「マリアー!」
慈愛の象徴を一瞬にして巻き込んでいったのは氷の渦という受難だった。




