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Arousal(覚醒)

 出産を『鼻からスイカを出すようなものだ』と表現された方が居る。しかしP300Aによる脳のリフォームは、例えるなら『頭部の穴という穴からハラペーニョソースを絞り出す』ようなものだ。痛覚の伝達を弛めてなければ気が狂れるか舌を噛み切っていただろう。それほど凄まじい痛みを、梓先生は『出産程度よ』とおっしゃった。そもそも彼女は出産に経験さえなかったはずなのに……騙された。

 僕に選択の余地があったなら、こうまでして脳味噌を変えたいとは思わない。愚か者は愚か者なりに人生に幸福を見い出すことが可能なのだから。あっ、真由美さんにフラレたと思い込んで追加投与を頼んだことがあったか……固いこと言いっこなし、長編は書きっ放しなのだ。

「どうだね?」

「さあ、特に以前と変わったようには思えませんが……」

 拘束を解かれた僕の手足に、梓先生が通電を開始する。再び身体に力が漲っていった。

「これは伊都淵の提案だった。しかしカジさんも賛成し、私もこれ以外に方法はないと思っている。悪いが君のお母さんにも真由美さんにも告げてない。君に投与したP300Aは伊都淵と同じ濃度のものだ。人工の激減したこの世界で、これに対応できる人間を探している余裕はない。君には自衛隊一個小隊並みの戦闘力もある。わかってくれ」

「バッテリーパックは以前の二倍の容量があるわ。ローラーブレードの発電機能が使えなくても24時間は動き回れるはずよ。伊都淵君を信じてあげて」

 梓先生の眼差しにも鬼気迫るものがあった。不意に思考が爆発的な動きを見せた。僕自身が体験した数々の記憶、伊都淵さんに詰め込まれた膨大な情報、誰のものか判然としない記憶までが奔流となって脳内を駆け巡っている。伊都淵さんの提案の意味するところ、所ご夫妻の呻吟の理由がはっきりとわかった。

「伊都淵さんは、僕にホモローチの拠点を潰してこいと言われるのですね? 渡航手段など、具体的なプランはあるんでしょうか?」

 顔を見合わせる所教授ご夫妻は、僕の内面変化に気づかれたようだ。これが伊都淵さんの視座なのだろうか、一歩に言われた通り、最初の変化で自分の頭が良くなったと思いこんでしまったことに赤面せねばならない、つまり 慙愧に堪えず羞愧を極め、汗顔の至りに存じます。と、ひとつの思考に対して複数の考察が行われて言葉の洪水が脳内に起こる。

 とりあえず性格には変化がないようで安心した。真由美さんを妊娠させておいて女性の好みが変わってしまっても困る。

「先ずは伊都淵の許へ行ってくれ。私は医者だ、戦略的なことについては素人だからな」

 それを言うなら二ヶ月半前まで小学校教諭だった僕だって同じだ。バケモノじみた四肢とバケモノめいた脳味噌まで与えられることにはなったが、本来の僕は単なる気弱な青年なのだ。「嫌だ、嫌だ、真由美さんと離れたくないよー」と泣き喚くこともできたのだろうが《それはとても近視眼的で放埒な考えです》と脳内で告げる声がある。

「はい」と短く答えて、地下ラボの階段を上がって行った。


「この大嘘つきっ! バケモノに殺されて死んじゃえばいいのよっ!」

 中国行きを告げた途端、予想通りの反応で真由美さんが激しく泣き出した。そりゃまあ、確かに殺されれば死ぬだろうが――

「いや、あの時は本当にそう思っていたんです。話を聞いて下さい」

 感情的になった女性を言葉で説得出来るものではない。なにやらデジャブのように感じるのは遺伝子の記憶まで蘇ってきているようだ。あのオヤジめ、相当な……

 肩に置いた手は振り払われ、顔を覗こうとすればそっぽを向かれる。こんな時はどうすればいいのだろう。

「この子が……あたしのことなんて、どうでもいいんでしょっ!」

「どうでもいいはずありません。でも、僕が行かなければ、真由美さんとその子の将来だって、どうなることか――」

「そんな先のことなんか、どうだっていいっ! あんたなんか、四秒で忘れてやるっ!」

 なんだ、その微妙な数字は……僕は苦笑しかけたが自分の尻をつねって堪えた。真由美さんの言葉は支離滅裂だったが、これは感情が昂ぶった人類にありがちな一時的精神錯乱に起因するもので……いやいや、脳内辞書をひけらかすのは僕の美意識に反する。普通に行こう――僕にはどうも理屈でものを片付けようとする悪いところがある。修正条項その1として脳内メモに書き込むと《それではここに記録しておきます》と、やはり頭の中から返事があった。脳細胞の活性化が激しく行われていたのだろう。ならば、と〝女性への正しい接し方全集〟を紐解くと親子二代に渡った失敗例しか浮かんでこないので、感情に任せることにした。

「絶対に帰ってきます。僕を信じて下さい。なにがあろうと真由美さんもその子もひとりにはしません」

《あなたが死んだところで、この女性も胎児も〝ひとり〟にはなりませんよ》という脳内からの屁理屈めいた反駁を隅に追いやり、彼女の首を折らない程度の力加減で僕に顔を向けさせ無理矢理唇を重ねた。真由美さんの唇は少し胃液の味がして、とても切なくなった。僕の胸に両手を突っ張って引き離そうとしていた真由美さんから力が抜ける。僕は真由美さんを抱きしめていた腕を緩めた。

「絶対よ、あなたが死んだら化けてでてやるからっ!」

《未だ感情が整理されていないようですね、この女性は。死んで化けて出るとしたら、こちらだというのに。ふたりの遺伝子が正常に融合された場合に予測される知能指数は――》

ええい、黙れっ! 僕の脳味噌、恋愛は理屈じゃないんだっ! 背中に回された真由美さんの腕に力がこめられた。

「這ってでも帰ってきます。死んでも帰ってきます」

《帰還の蓋然性は乏しいでしょう、ただ今の発言には自家撞着があり――》黙れというのに……

「だめっ! 死んじゃあ……死んじゃあ、帰ってこれないじゃない」

 言われるまでもなくその通りだ。僕はあくまでも気概を伝えたかったのだ。しかし、さっきは『死んじゃえ』と言われたような……感情というものが、これほど明晰な思考の妨げとなるものだということを僕は改めて知った。僕達の会話は傍から見れば三歳児の喧嘩としか映らなかっただろう。

 このまま夢の世界第2ラウンド突入と行きたかったのだが、理性の助けを借りて使命感へと意識を向ける。再度の環境変化の可能性、ホモローチ第二世代の脅威、そして行方不明中の雄さんの境遇、僕達が懸念すべきことは山積されていたのだ。


「行ってきまーす」

 効いてないじゃないか、P300A……

 泣き腫らして目を真っ赤にした真由美さんと固く抱擁を交わし、僕は緩斜面を滑り降りる。次なる使命を母に伝える役目は真由美さんにお願いしておいた。女性に泣かれるのは例え肉親だろうと使命感がくじけそうになるものだ。

 約700kmの行程だ、杜都市の皆さんは元気にしているだろうか、あの傲慢な犬と優しい熊はどうしているんだろう。これでもか、と目一杯惹かれる後ろ髪を断ち切るように思いを未来に向け、僕は氷の台地を蹴った。


――サイトに先着してもらう訳には行かないか? 十州道で問題が発生した。トコログリアと医療用具を運んでもらいたい。

 300kmほど進んだ辺りで伊都淵さんからの連絡がはいった。

《――だ、そうだ。頼めるかい?》

《ええ、任せておいて》

 サイトの思考も明快に読み取れるようになっていた。カタカナ尽くしでなければギナタ読みを冒す心配もない。『ココデハキモノヲヌイデクダサイ』というヤツである。玄関先で裸になっていた方々にも多大な迷惑をかけていたことだろう。今後はこれで行く。

 サイトが飛び立って行った。という訳で僕は、いつぞや杜都市から中ノ原に向かった時と同じく単独行となってしまった。ただ今回は退屈を紛らわせてくれる奴等が居る。早速、僕らーズが話しかけてきた。

《どんなプランだと思われます?》

《〝しらせ〟を動かせ、ってんじゃないかな? 燃料切れ以外は問題ないんだろ?》

《おそらくそうなるでしょうね。あなたなら氷に埋まった燃料タンクを掘り出すことが可能ですから。そして砕氷船である〝しらせ〟には氷で航路を閉ざされた時のためC-4爆薬が搭載されているはずです。それで研究施設――つまりホモローチ製造工場を破壊せよ、との命令が下るかと》

《うへえ、殺戮かあ。あまり気は進まない任務だね》

《これは罪なき命を守るための戦争です。この期に及んで躊躇するのは臆病者の証拠です》

《臆病者でも殺人者よりかはマシだろう》

《いえいえ、よく言うでしょう? ひとり殺せば殺人者、大勢殺せば英雄、と》

《それは一部の教信者の発想だよ、湾岸戦争を引き起こした人達のようなね。僕は純然たる日本人、農耕民族なんだ》

 いつぞや同僚だった女性に『僕はUAE国籍なんだ』と告げたことを持ち出されるかと思ったが、僕らーズは黙っててくれた。呆れていたのかも知れないが。

 自分自身の脳細胞に人格と個性を持たせ論じ合う。とてもまともな人間のやることとは思えないが、前半をなくせば、いわゆる葛藤とか自問自答とかいう言葉で片付けられる。それに僕はその〝まとも〟の範疇を超えてしまっている。大抵の人間なら気が狂うか、自暴自棄になってっしまうかのこの状況だったが、とってつけたような知性(性格が違うため僕自身の思考であるとは認めたくない)が、それを邪魔する。まあいいさ、これだけの任務なんだ、きっと優れた参謀をつけてもらえるだろう。その彼の指示に従ったことにしよう、そうすれば幾らか罪の意識も軽減されるだろう。僕はそう考えていた。


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