believe you're here
「アアナルコトガワカッテタノネ」
同行させず、真柴さん達のアークで待機してもらってたサイトだった。彼女は僕の前方10mほどの低空を飛んでいる。
「うん、トコログリアなしでの氷中行は経験があったからね。少し遅れた、行こう」
彼女との会話にも随分慣れてきていた。
「ウマレテクルダケデキセキナノニ、アナタタチハ、ナゼソノウエヲノゾムノ?」
「人間は愚かなんだよ。望めば何でも手にはいると思っている」
「サッキノヒトタチノヨウニ?」
「そうだな。でも、そうでない人もたくさんいる。人は変わりつつあるんだ。見捨てないでもう少し付き合ってやってくれないか?」
「イイワ、ワカッタ」
サイトは空高く舞い上がった。
「フブキニナル、イソギマショウ」
国道だったところを挟んで新しいアークがひとつ建っており、その隣でもアークの建造が進められていた。それを横目に僕はスロープを駆け上がってゆく。待ちわびた笑顔はすぐそこにある。ずっと口ずさみ続けたアヴリルの〝(I) wish you're here〟が〝I believe〟に変わる。
「ただいまー、腹減ったあ」
……どうして僕はこうなのだろう。気の利いた言葉を、とは思いつつも出掛ける時は出勤するサラリーマン、帰ってきたら学校を終えた小学生並み、と至極平凡な言葉しか思いつかない。「おっ! パパのお帰りだ」と、智君とふたりで歩哨に立っていた誠さんがからかう。再会の抱擁を交わす僕達の上をサイトを飛んでサイトがアークのてっぺんに止まった。
「あれがサイトか?」
「あれってのは失礼です。彼女はレディなんですから」
「そうか、そいつは失敬。原田さん特製のボタンスモークをご馳走してやろう」
僕がここを発つときにもたされたボタンスモークは(大変、失礼だが)お世辞にも美味いといえるような代物ではなかった。だが、誠さんがポケットからつまみ出すそれは意外にも食欲をそそる香りがする。チップに手が加えられたのだろうか? 僕の腕に舞い降りたサイトは誠さんの手から美味そうに啄んだ。
奥の居住区へ足を進める。母、生徒達、所教授ご夫妻と、たくさんの懐かしい顔が僕を迎えてくれた。肝心の真由美さんはと言うと……
「遅かったじゃない、どこかで浮気でもしてたの?」
と、やや拗ねたような顔で母の後ろから姿を覗かせる。
「する訳ないじゃないですか、真由美さんは僕の遺伝子の欠損箇所を埋めてくれる大事な女性なのに」
「バカっ、冗談よ」
僕の大仰な愛情表現は父親譲りなので仕方ない。衆目の中、臆面もなく愛の告白をする僕に真由美さんは顔を真っ赤にしていた。この後しばらく僕の〝遺伝子云々〟発言は、娯楽らしい娯楽などなくなってしまったこの世界でいいネタにされることとなる。僕の名前を知らない人達には「ああ、遺伝子の人ね」と指差され、旧知の人々からは名前をもじって〝丈熱〟君とからかわれた。
「お熱いのは結構だけど、明日の朝からあなたのチェックを始めるわよ。覚悟しておいてね」
梓先生が僕のカルテらしきものを手にそうおっしゃった。眼鏡をかけている梓先生にお目にかかるのは初めてだ。老眼鏡だろうか? それを口にするとご機嫌を損ねそうだったので黙っておく。
「痛いんですか? それは」
「出産程度よ」
と言って梓先生はふふんと笑う。いや、程度って……当たり前だが出産経験のない僕はビビッていた。
「髪……切ったんですね」
「鈴木さんが助けた人達の中に美容師の経験者がいたの。こんな状況ではお風呂もままならないでしょ? だから。――変?」
「いえ、とても似合ってます」
真由美さんは嬉しそうに微笑む。僕達はここを発つ前夜同様、地下のラボでふたりきりの時を過ごさせてもらっている。所教授のはからいだった。
「悪阻は収まったみたいですね」
「まだ、たまに気分が悪くなるけど、以前ほどではないわ。あなたのせいよ」
「すいません」
「バカね、あやまらなくっていいの。ねえ、触れてみて」
僕は真由美さんのお腹におずおずと手を伸ばす。じれったくなったのか、その手をとった真由美さんは彼女のセーターの下に僕の手を差し入れた。体温調整のせいだけではなく、彼女は全身が温かかった。全身というのは、左手が空いていたので……その……つまり……詳しくは聞かないで欲しい。
「丈君に助けられたこと自体、天文学的な確立だったとは思うけど、命ってまさに奇跡よね。あなたとあたしが、この中で本当にひとつになるの。肉体的にも、精神的にも」
確かに生命は奇跡だと言えよう。どれだけ科学が進化しようと未だに人類が完全治癒を見い出せない病はあり、人工的に手を加えられた生命にはホモローチのように免疫系に駆逐されてしまう。
「女の子かな?」
「本当はどっちでもいいの。この厳しい世界で産まれてくる命が無事に育ってくれれば。でも、女の子だったら、あたし似の下半身は可哀想だわ」
真由美さんははにかんだように笑った。これはどうでもいい話だが、この世界が平和だった頃、我が国の芸能界は〝細い足〟が美形の条件のように言われた。日向子もその口で、いつも膝上10cmぐらいのミニスカートかスキニージーンズを穿いていてものだ。だが、僕のように充実した下半身が好きな男だって居る。真由美さんのそれは僕にとって理想的なものだった。氷点下のこの世界、おしゃれなブティックも営業してない現状では願って叶えられるものではないが、いつの日かふたりの家庭が持てた時、真由美さんには膝丈タイトスカート&生足をリクエストしたいと思う。僕はそんなことをポワーンと考えていた。
「今度は、ずっといられるんでしょ?」
「いえ、呼び戻されたのは、さっき梓先生が言われた通り四肢のチェックのためです。おそらく行方がつかめない雄さんの捜索に駆り出されることになるでしょう。でも何ヶ月もかかることはないと思います。最後の足取りはわかっているんですし」
この不用意な発言のせいで、後日僕は真由美さんから「この大嘘つきっ!」となじられるのだが、この時の僕は本当にそう思っていた。
「そっか、じゃあ仕方ないわね。でも今だけ仕事の事は忘れて」
香水などつけてはいないはずの真由美さんの腕が僕の首に回されると、ほのかに甘い香りが漂ってくる。僕達は夢の世界へと旅立って行った。
「手足の状態は良好ね、神経伝達系にも問題なし。調子に乗って何トンもあるものを持ち上げたりしなかったでしょうね?」
「しませんよ」
重機を起こしたり押しがけしたりしたことは黙っておこう。
「一度、全ての電源を落とすわね」
「はい」
それも四肢の点検のために必要なのだろうと思っていたが、動かなくなった僕の手足を所教授ご夫妻は診察台に縛りつけて行く。
「これは、なにかの冗談ですか?」
「いや、君の脳を覚醒させる。何トンもの力で暴れられては、こんな拘束など屁の突っ張りにもならんので電源を落とした。今の君には必要ないかもしれんが、念のためだ」