Trap(奸計)
最初に医務室にはいってきたのは雄一郎をここに連れてきた小隊の指揮官、相良二等陸尉だった。四十歳前後だろうか、身のこなしと物腰からもう少し若い男を想像していたが、短く刈り込まれた頭髪にはかなりの白髪が混じっており、眉間に深く刻まれた皺に強固な意思を感じさせる。〝どんな状況に於いても任務の遂行が最優先、譲歩は敗北に等しい。我こそは叩き上げの兵士なり〟といった融通の利かなさをその表情に貼り付ける様は、どこかボクシングの師であるカジを思い起こさせた。
「これを」
雄一郎が差し出すマウスピースを見た相良は怪訝な顔で聞き返す。
「なんだ、それは」
「薬効成分が浸透する過程では激しい痛みを伴います。これを噛んで耐えてください」
「そんなものは要らん!」
「では始めます」
麻酔なしでの処置に手馴れてきた雄一郎だった、カテーテルの挿入で顔をしかめる被処置者に痛覚の弱まる地点がある。そこで僅かに手首を返した場所が噴霧ポイントとなっていた。処置台の端を強く握る相良の拳が白くなる。表情が緩んだのを確かめプランジャーロッドを押し込んでいった。
陸上自衛隊中央即応集団か……設立の理念は国際平和協力活動だったのが、いつしかテロ対策の特殊部隊となり、9.02直近には、幾度となく首の挿げ替えが行われた内閣に於いて例外的に長期政権を保っていた一松防衛大臣の施設軍隊みたいなものとなっていたと聞く。被災時に行動を共にしていたこともそれを裏付けていた。
「終わりました」
痛みに潤ませた目を恥じるように、相良は雄一郎から顔を背けて処置台を降りる。
「施術をしっかり覚えろ」
強い口調で関谷に告げると、さっさと医務室を出て行く。入れ替わりにはいってきたのは三十代半ばの隊員だった。どの隊員も判で押したようにマウスピースを拒み、ひとりが出てゆくとまたひとりがはいってくる。それは全ての薬瓶が空になるまで繰り返された。最後のひとりは、一松とロマンスグレーをきっちり七三に分けた男を伴ってはいってくる。先ほど一松の右隣に居た男だ。目付きの鋭さから科学者ではなく、おそらく警察関係だろうと雄一郎は踏んでいた。
「ご苦労さん、順調のようだな。施術を見学させてもらってもいいかな? こちらは警察庁長官の真壁君だ」
「どうぞ。私の持ち合わせはこれでなくなります。先ほど杜都市のコミュニティに増産を急ぐよう伝えておきました。処置を済まされた隊員の方に同道していただければ、どこかで待ち合わせて皆さんの分のトコログリアをお渡しできると思います」
雄一郎の提案に同意するでもなく、ふむと唸っただけの一松だったが、最後の隊員への処置を関谷にたくそうとすると咎めるような声を上げる。
「隊員は貴重な戦力だ、間違いがあってはならん。最後まで鈴木君が処置をしてくれたまえ」
「しかし、二尉は自分にしっかり施術を覚えろと……」
関谷の反論を真壁が抑え込む。
「元首の指示に一兵卒が口答えするのか!」
「……いえ」
項垂れてカテーテルを返す関谷からそれを受け取ると、雄一郎は九瓶目の投与を終えて大きな息を洩らした。
「終了です」
雄一郎が言い終わらないうちに医務室のドアが開いて警官隊――私服であったため推測だが――が飛び込んできた。警官隊の生存者が居ることは関谷から聞かされていた。彼等が手にする小ぶりな自動拳銃から、雄一郎はそう推測する。
「何事ですか、これは」
真壁が歩み出て言った。
「無資格医療行為は傷害罪に当たる。鈴木雄一郎、君を逮捕する」
「しかしこれは、だい……元首の依頼ではないですか」
「そんなことは言っておらん、誰かそんな発言を記憶しておるかね?」
雄一郎は素早く関谷に顔を振る。しかし、彼は無念そうに俯くだけだった。
嵌められたか――しかしなんのために俺を? 一度は返されたバックパックとクロスボウを再び奪われる。拘束こそされなかったが、長い階段を下って鉄格子の部屋へと押し込められた。ガチャリ、と連れてきた警察官が施錠をする音が寒々とした部屋に響く。
二度目か、これでは危機管理が甘いといわれても仕方ないな、丈に偉そうなことは言えない。刑務所のような簡易寝台に腰をおろし、雄一郎は深くため息をついた。そして思い直したように部屋を見回す。窓はない。ステンレス製らしい格子を握ってみる。曲げることは可能だったが引きちぎるとなると関節が力を逃がしてしまうかもしれない。銃を持った見張りも居る、簡単には行かないだろう。
雄一郎は世界タイトルを奪取した試合を思い出していた。長期政権を誇っていたベネズエラのチャンピオンは、ランキングの低い頃から雄一郎の才能に怯え、タイトル戦のオファーに応じようとしなかった。ランキング一位、指名挑戦者となった雄一郎の挑戦を拒めずに迎えた試合、チャンピオンはアウトボクシングに徹した。長いリーチを巧みに利用して距離を詰めさせず、左の打ち分けにも右のガードの上げ下げで完璧に対応していた。ポイントアウトを狙うチャンピオンに、雄一郎は自陣営に戦略の変更を提案した。それまで無言で試合を見守っていたカジが言った。『スタイルを変えるな、ガードの上からでも奴のリバーを叩き続けろ。あの右腕を見ろ、真っ赤になっている。そのうち反応速度は落ちる、その時がチャンスだ』6ラウンドをにはいった辺りから明らかにチャンピオンのガードを上げる速度が鈍ってきた。そこへ雄一郎の渾身の左フックがテンプルをとらえる。7ラウンド0分2秒、緑のチャンピオンベルトはその持ち主を一瞬で変えていた。
脱出のチャンスは必ずある。焦るな、じっくり考えるんだ。雄一郎は簡易寝台に身体を投げ出した。
「行かない訳にはいかないよな」
「そうだな、燃やしたのが31体あったら20体前後が逃げ出した計算になる。他のコミュニティが襲われたら大変だ。清水海尉が置いていってくれた武器を分配しておかなければ」
「留守はどうする?」
正に普段の軽い調子はない。村山の引き算が、さらなるホモローチ第二世代上陸の可能性を無視したものであることをよく理解していた。
「新沼君に頑張ってもらうしかないだろうな、たった30分ほどだが住民は射撃訓練も受けている。我々が出掛ける前に食料を探してきて備蓄を増やし、防護壁を下ろして立て篭っていてもらおう」
「我々って……たったふたりだぜ? それで20体を相手にするのか、キツイな」
「小野木君はたったひとりで60体近くのホモローチに囲まれて生き延びたそうだ。しかも丸腰で。同じ人間である我々だ、銃もある。それに奴等が必ず襲ってくるとは限らんさ」
村山は正の肩をポンと叩いて笑顔を作る。ただ、自分自身の言葉が希望的観測であることもよく理解していた。大陸から飲まず食わずで渡ってきた第二世代の目的は明確だった。
「タケ坊か、あいつは普通の人間じゃないぜ」
杜都市のコミュニティで顔を合わせていた村山だ。熊や犬と話す丈が伊都淵に近いものを持っていることは承知している。
「それでも、あの若さだ。長い一人旅や自分の変化に耐えるのはたいへんだったはずだ」
「まあね、ところで村さんの腕はどうなん? こう、160km/hを超える剛速球で向かってくるホモローチを薙ぎ倒すなんて芸当はもう無理なん?」
「わからん。あれ以来、ボールも握ってはいないからな。だが自己暗示という魔法は解けた。今はこいつに頑張ってもらうしかない」
自動小銃を掲げる村山に頷いて正は立ち上がる。
「今夜の定時連絡で行動予定を報告、出発は明日早朝、だな。住民のみんなの食い扶持に負担をかけないで済むように食料を探してくるよ」
「頼む」