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「多目的室」と札のかかった広く平らな空き部屋には、舞台も客席もなかった。入口近くに座わらせてもらうと、夕方なのに入室する人たちがやっぱり「おはようございます」と挨拶していく。年齢層は幅広く、他で会う人より顔つきが穏やか。楽器ケースを広げ組み立てる仕草は雑談を混じえつつも無駄がなく儀式じみていて、その手つきは皆、愛おしそう。
しばらくして指揮者が前に立ち、普段智がしているように一つずつ伸ばしながら音階を合わせる。どんな意味があるんだろう。バラバラに吹いていた間はただの騒音だったのが、タクトが傾いた途端ミルフィーユのなめらかさで折り重なり、新しい音色が生まれる。打楽器の女性が「好きに叩いてみて」と小さな楽器を幾つか脇に置いてくれて、教えてもらったやり方で太鼓に合わせタンバリンを叩く。私に皆がついてきているみたいで、少し楽しい。
しばらくすると「三角帽子」と指揮者が言って、一斉に譜面台に楽譜を用意する。さっきまでと違い音色は水脈となり留まることなく有り様を変え、旋律に身を委ねていても違う主題が現れて手招きし、リズムを刻む人も気になってどれを聴いていればいいか迷ってしまう。来る途中のゲームセンターでやらせてもらった、ワニの頭を叩くボックスにそっくり。
音の洪水に、耳が溺れる。浮輪の代わりにハンカチにしがみつく。曲は終幕へと進み、勢いを増す音の波は今や怒涛となり明瞭な輪郭と質量をもって破裂寸前まで室内の空気を圧縮し、行き場を失い私の額から皮下に侵入する。そして音波を浴びるだけの装置に全身を作り変え、頭が印象を形成する前に反射で指先を感応させる。
凄い経験、というより体験に近いな。こんな音楽があったなんて。




