第1話 最下層への片道切符
「ミリア。悪いが、君はここで『戦死』したことにしてくれ」
耳元で囁かれた言葉の意味を理解するより早く、背中に強い衝撃が走った。
私の体はふわりと宙に浮き、次の瞬間には重力に従って奈落の闇へと吸い込まれていく。
「あっ――」
手を伸ばした先に見えたのは、見慣れた黄金の鎧。
勇者アルド。
私の婚約者であり、幼い頃から背中を追い続けてきた人。
彼は、崖の上から私を見下ろしていた。
その端整な顔には、悲しみも躊躇いもない。
あるのは、壊れた道具を処分する時のような、無機質な「処理」の目だけだった。
「回復魔法が出ない聖女なんて、ただの足手まといだ。国への報告は僕がうまくやっておくから、安心して逝くといい」
遠ざかる声。
冷たい風が頬を切り裂く。
視界が闇に染まる。
ああ、やっぱり。
そうだったのですね。
胸の奥が、すうっと冷えていく。
悲しみよりも先に、妙な納得感が押し寄せてきた。
最近、私の聖魔法が発動しなくなっていたのは事実だ。
でもそれは、魔力が枯渇したからじゃない。
彼が私に向ける視線に、軽蔑と計算しか感じられなくなって……私の心が、彼を「癒やしたい」と思えなくなってしまったから。
聖女の力は愛と献身が源泉。
愛が冷めれば、魔法も枯れる。
そんな当たり前のことに、彼は気づかなかった。
いいえ、気づいていて切り捨てたのだ。
(ああ……まるで『フネンゴミ』ですね)
ふと、前世の記憶にある異国の言葉が脳裏をよぎる。
もう燃えることのない、役立たずのゴミ。
それが今の私。
(でも、これで……もう早起きして彼の剣を磨かなくていいのですね)
底なしの闇へ落ちながら、私は涙よりも先に安堵を覚えていた。
毎朝の完璧な身支度も。
理不尽な罵倒に耐えることも。
泥だらけの装備を、徹夜で洗濯することも。
もう、しなくていい。
不意に、体がふわりと軽くなる。
転移の罠だ。
ダンジョンの深層へ強制移動させられる、死への片道切符。
強烈な浮遊感の後、私の体は硬い石畳の上へと投げ出された。
「……っ、うぅ……」
全身を打ち付けた痛みに呻きながら、ゆっくりと顔を上げる。
そこは、広大な石造りの広間だった。
天井は遥か高く、見えないほどの闇に覆われている。
壁には鬼の形相をした彫刻が並び、紫色の松明が揺らめいていた。
最下層。
文献でしか読んだことのない、魔王の居城。
死ぬんだ。
私はここで、魔物に食われて。
震える手で体を起こし、周囲を見渡した。
その時だ。
「……ん?」
私の目は、魔物への恐怖よりも先に、ある一点に釘付けになった。
床。
石畳の継ぎ目。
(……汚い)
埃だ。
それも、ただの埃ではない。
数百年、いや数千年掃除されていないであろう、分厚く堆積した灰色の粉塵。
それが湿気を含んで、フェルトのように床にべっとりとへばりついている。
視線を上げる。
壁のレリーフには蜘蛛の巣がカーテンのように垂れ下がり、松明の煤が天井をどす黒く変色させていた。
「けほっ、けほっ……!」
思わず咳き込む。
空気が悪い。
カビと腐敗臭、そして肌にまとわりつくような脂っこい湿気が充満している。
(なんて……なんて不衛生な!)
死の恐怖が一瞬で吹き飛んだ。
背筋がぞわぞわと粟立つ。
これは恐怖ではない。生理的な嫌悪感だ。
私は前世の記憶のせいか、あるいは生まれつきの性分か、どうしても「汚れ」を見過ごせない。
シーツの皺ひとつ、窓の曇り一点すら許せない質なのだ。
これからここで死ぬとしても。
こんな埃まみれの床の上で死ぬなんて、絶対に嫌。
「……誰だ」
地の底から響くような、重低音が空間を震わせた。
広間の最奥。
高くそびえる黒曜石の玉座に、影があった。
男だ。
夜の闇を凝縮したような黒髪。
側頭部から伸びる、禍々しくも美しい角。
そして、血のように赤い瞳が、気だるげに私を見下ろしている。
魔王。
人類の敵。
彼はゆっくりと指先を持ち上げた。
それだけの動作で、空気が軋み、重力を増す。
「人間か。……勇者の手先か知らんが、目障りだ。消えろ」
彼の指先から、黒い波動が溢れ出した。
それは矢のような攻撃ではない。
タールのようにドロドロとした闇が、床を侵食しながら私へ向かって這い寄ってくる。
純粋な魔力の塊だ。
触れれば即死。
本能がそう告げている。
なのに。
(うわぁ……あれ、すごく油汚れに似ている……)
私の思考は、致命的にズレていた。
迫りくる死の波動が、私には「換気扇の裏に溜まったヘドロ」に見えてしまったのだ。
あんなものを浴びたら、服が台無しになる。
せっかくの最期が、あんな汚れに飲み込まれて終わるなんて。
(許せません)
私は反射的に、懐から愛用の杖を取り出していた。
聖女としての儀式用ではない。
先端に清潔な布を取り付けた、私なりの「お掃除棒」だ。
「お客様! 土足で泥を持ち込まないでください!」
叫ぶと同時に、体の奥底から熱いものが溢れ出す。
アルドに対しては枯れ果てていた魔力が、今は堰を切ったように湧き上がってくる。
対象は「人」ではない。「環境」だ。
目的は「治癒」ではない。「清浄化」だ。
私の魔法が、唸りを上げる。
「【神聖環境魔法】――『全浄化』!」
杖を振るう。
放たれたのは、眩いばかりの純白の光。
それは攻撃魔法のような鋭さはなく、泡立つ洗剤のように優しく、しかし圧倒的な質量で展開された。
衝突。
魔王の放った泥のような闇と、私の白い光がぶつかる。
轟音は――しなかった。
ジュワァァァ……。
まるで熱したフライパンに水をかけたような音が響く。
侵食してくる闇は、私の光に触れた端から「シュワシュワ」と音を立てて分解され、透明な粒子となって消えていく。
「……な?」
玉座の方から、息を呑む気配が伝わってくる。
私の光は止まらない。
波動を中和した余波で、周囲の床を一気に走り抜ける。
こびりついた埃が剥がれ落ち、カビが消滅し、石畳が新築のように輝きを取り戻していく。
数秒後。
私の周囲半径十メートルだけが、ピカピカに磨き上げられた「聖域」となっていた。
「ふぅ……」
私は額の汗を拭い、満足げに息を吐く。
よし。これで最低限、座る場所は確保できた。
杖を下ろし、顔を上げる。
魔王が、先ほどまでの気だるげな表情を消し、玉座の肘掛けを強く握りしめていた。
その赤い瞳に映っているのは、侮蔑ではない。
理解不能な現象を前にした、純粋な警戒と驚愕だった。
「お前……今、俺の瘴気を消したのか? 魔法無効化ですらない、これは……」
「え? 何って……」
私は自分の足元と、まだ黒く煤けている彼の方を交互に見比べ、当たり前の事実を口にした。
「ただのお掃除ですが?」
魔王の目が、これ以上ないほど大きく見開かれた。
後に伝説となる「魔界リゾート」の歴史は、このささやかな認識のズレから幕を開けたのだった。




