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完結『名門大学生 地底湖失踪事件――水底に眠る声』  作者: カトラス


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第二十一話 ――赤子をあやす女

 桂川沿いの遊歩道を歩き、怜司は上桂公園の入り口へとたどり着いた。

 夕暮れが差し込み始めた空には薄いオレンジが広がり、風がさやさやと針葉樹の葉を揺らしていた。


 想像していたよりも広大な公園だった。

 針葉樹が公園の外縁をぐるりと取り囲み、都会の喧騒から切り離されたような静寂があった。

 入り口には「上桂公園整備計画」と書かれた案内板があり、都市計画の一環として整備されたと説明されている。


 園内には区民体育館、グラウンド、子どもたちが遊ぶ複合遊具の広場、そして傾斜を活かした滑り台の丘まである。

 まるで小さな町の中に独立した自然の島が生まれたような風景だ。


 入り口近くでは、ヘルメットを被った少年がスケボーを手にして、帰り支度をしていた。

 ギッ、とデッキを蹴る音が乾いた空気に跳ね、怜司の足を止める。


 ──さて、大泉まどかはどこに。


 人影を目で追い、公園の奥へと視線を走らせた。

 夕暮れの陽が木々の隙間から斜めに差し込んでいる。

 その光の中、ベンチのある静かな一角に、白い傘が見えた。


 乳母車の取っ手にひょいと掛けられたそれは、柔らかなシルエットの中でほのかに風に揺れている。

 その下、ひとりの女性が何かを抱きかかえ、あやすようにしていた。


 白いブラウスに、地味ながら上品なスカート。

 細い腕に抱かれた“赤ん坊”らしきものは、ふにゃふにゃと泣いたり笑ったりを繰り返している──が、その仕草や動きはどこか不自然で、妙に一定のリズムを保っていた。

 怜司の中で、かすかな違和感がざらりと波紋を立てる。


 ──まさか、まさかね。


 初めて見るその女性──大泉まどか。

 名前しか知らず、写真でも見たことはなかった。

 だが、あの整った横顔、落ち着いた佇まいにはどこか品があり、彼女が経験したであろう過去の悲劇を想起させる深い影が、その表情に刻まれていた。


 そして、まどかの視線は、抱いている“それ”に注がれたまま、優しく微笑んでいる。

 記憶の中の女性像との比較ではなく、初対面としてのまどかの姿には、何か説明のつかない引力のようなものがあった。


 ……だが、彼女の持つ優しさの奥に、どこか張り詰めたものを怜司は感じ取っていた。

 ふと、彼女の母が言った「随分変わったと思うから」という言葉が脳裏をよぎる。


 ──変わった? 彼女が? いったい、何が……。


 そしてもう一つ、まどかが流産したと聞いていたのに、目の前に“赤ん坊”がいるという現実。

 ──あれは、本当に?


 怜司は無意識のうちに息を飲んだ。

 そのまま、決意を固めるように、ゆっくりとその“白い傘”の元へと歩みを進めた。


 陽はすでに落ちかけており、針葉樹の枝葉の間から差し込む夕暮れの光が、公園内の地面に柔らかな陰影を描いていた。

 遠くから聞こえる子どもたちの歓声が、徐々に静まりかけている。夏の夕暮れ独特の、温度を孕んだ風が頬を撫でて通り過ぎた。


 その視線の先、白い日傘が木漏れ日の中にぼんやりと浮かび上がっている。

 傘は乳母車の取っ手に無造作に掛けられ、その下で女性が穏やかな表情で何かをあやしていた。


 ──あれが、大泉まどか……。


 面識はなかったが、表札と母親の話、そして状況的にも彼女であることは間違いないだろう。

 ただ、その光景に、怜司の足はふと止まった。


 彼女が抱いていたのは、赤ん坊──ではなかった。


 それは、ボロボロになった古い人形だった。


 色褪せたピンク色の布、縫い目からはほつれた綿が覗き、手足は汚れ、片目は完全に失われ、もう片方のガラス玉には無数のヒビが走っている。

 まるで何年も前に捨てられたぬいぐるみを、誰かが拾ってきたかのようだった。


 だが、まどかはその人形を、本物の赤ん坊のように優しくあやしていた。

 抱き上げ、頬を寄せ、耳元でそっと囁いている。


 「いい子ね……泣かないで……ほら、もうすぐおうちに帰るからね……」


 その声音は母性に満ちていて、まるで聖母が子を慈しむような温もりさえ感じさせた。

 だが──その優しさが、怜司には恐ろしかった。

 ぞくり、と背筋が冷たくなる。


 そのとき、人形の顔がふとこちらを向いた。

 光の加減か、偶然か──割れたガラス玉の片目が、怜司をじっと見つめているように思えた。


 ──笑った、のか?


 脳裏に奇妙な像が焼きつく。

 人形の口元が、わずかに、確かに、綻んだように見えた。


 “それ”は、怜司にしか見えない。

 なぜなら──そこには水子の霊が憑いていたからだ。


 まどかはただ壊れているだけではなかった。

 彼女は、自らの内にある喪失と母性の渦の中で、霊を赤子として抱きしめていたのだ。


 怜司の“視える目”は、それを見抜いてしまった。

 人形の内側に、漂う小さな存在。

 かつて生まれ得たはずの命。

 恨みとも、哀しみともつかぬ気配が、確かにそこにあった。


 ──まどか……あなたは……。


 怜司の中に、笠原の言葉が蘇った。


 「まどかは、あの裁判のあと、精神を病んでしまったと聞いている」


 そして、母親の言葉も。


 「驚かないでちょうだいね。きっとあなたの知ってるあの子とは……随分、変わってしまったと思うから」


 怜司は唇を噛みしめ、立ち尽くした。

 目の前にいるのは、酷な現実の中で生き残った、しかし深く傷を負った一人の女性。


 壊れてしまった──その事実は残酷だが、否定できなかった。


 話しかけるべきか、それとも立ち去るべきか。

 その判断は、怜司の胸の奥で、深く沈み込んでいった。


 怜司は一度、大きく息を吸い込んだ。

 そして意を決して、白い日傘のもとへゆっくりと歩を進める。


 木々に囲まれた上桂公園の奥──その静寂の中に、まどかはいた。

 ベンチに腰掛け、古びた人形を乳児のように抱き、あやし続けている。


 怜司の“視える目”には、その人形に宿る水子の霊の存在がはっきりと映っていた。

 だが、まどかにとってそれは紛れもなく“我が子”なのだ。

 その錯覚と現実の境界線を、怜司は踏みにじることなどできなかった。


 「……こんにちは」


 声は自然と、極めて丁寧なものになっていた。

 まどかは肩を震わせ、ゆっくりとこちらを振り返る。


 「大泉まどかさん……ですよね?」


 その名を告げた瞬間、まどかの顔に一瞬の警戒が走った。

 目元に怯えのようなものが浮かび、視線が怜司を探るように揺れた。


 「……あなたは?」


 その問いを待っていたかのように、怜司は静かに口を開いた。


 「いえ、ちょっと……高校時代のご友人から、ある方を探して欲しいと頼まれてほうぼう当たってこちらに辿りつきました」


 嘘ではない。いや、正確には都合のいい誤魔化しだ。

 南洛大学の名を出すのはリスクが高すぎる。

 あくまで、“旧友探し”の一環として辿り着いたという体を保たなければならない。


 「……そう」


 まどかは、ふと人形に視線を落とし、優しく頬を撫でた。

 怜司もそれに倣うように、自然な口調で続けた。


 「男の子ですか? それとも……」


 その一言に、まどかの硬かった表情がふっと和らいだ。


 「ふふ……この子は、女の子。ねえ、お名前は……」


 まどかが人形に語りかける様子を前に、怜司はそっと呼吸を整えた。


 彼女は壊れている。

 けれど、まだ完全に閉ざされてはいない。


 「ごめんなさい、お母さん。ちょっと、お伺いしたいことがあって……」


 その言葉は、まどかの中の何かを確かに揺らした。

 “お母さん”と呼ばれることで、彼女は微かに姿勢を正し、そして──


 「……いいわ。少しだけなら」


 まどかの声はかすかに震えていたが、そこには明確な意思があった。


 怜司は胸の奥に浮かぶ思いを押し殺す。


 ──香月慧の真相へ、あと一歩。

 ──まどかの心の扉を、静かに、確実に開かなくてはならない。


 そのためには、今、この瞬間の温度を、壊さずに進むしかないのだ。


「……で、聞きたいことって何よ?」


 問いは鋭かったが、その口調にはほんの少し柔らかさがあった。

 怜司は一呼吸おいて、まっすぐに言葉を放つ。


「香月慧さんの行方が分からなくて……それで、あなたなら何かご存知かと」


 まどかの表情が一変した。

 目の奥に、何か硬いものが走る。

 そして次の瞬間、彼女は俯き──突然、甲高い声で笑い出した。


「あははははっ……なにそれ。あんた、ほんっとにバカ正直ね。……あはっ、あはは……」


 その笑い声は壊れた玩具のように空虚で、不自然な響きをまとっていた。

 怜司は息を呑みながら、それでもまどかの目を逸らさなかった。


「……ねえ、あんた。本当は何者? まさか黒岩や赤松の差し金じゃないでしょうね?」


 背筋が冷たくなる。

 まどかは狂っている──だが、狂気の中にある種の論理がある。


「で? 誰に頼まれたのよ?」


 怜司は逃げずに答えた。


「……香月雫さんに頼まれて」


 まどかの動きが止まった。

 その名を聞いた瞬間、まどかの目が鋭く細められる。


「雫……しーちゃんのことね。……でも、あの子は香月くんの妹なんかじゃないわよ」


 怜司の思考が一瞬、止まる。


「しーちゃんと香月くんは、付き合ってたの。恋人同士だったのよ。……でも、二人とも、もう──」


 言いかけた言葉は、まどかの唇で閉ざされた。


 まどかは立ち上がり、白い日傘を手に取る。

 その仕草には、冷ややかな拒絶の意思が宿っていた。


「もう話さないわ。大学のことも、あの人たちのことも。私の中では全部、終わったの。関わりたくない」


 怜司は、立ち去ろうとするまどかに声をかけることができなかった。

 その代わりに、まどかの最後の言葉が残された。


「……川原。あの子なら、私以上にあいつらを恨んでる。話がしたいなら、探してみなさい」


 乳母車を押しながら、まどかは針葉樹の間に溶け込むように、夕暮れの公園の奥へと消えていった。


 怜司はその場に立ち尽くしていた。


(妹じゃない……? 恋人……? “もう”って、何だ……?)


 頭の中を渦巻く疑問。

 それでも、怜司は静かに拳を握った。


 ──次は、川原義明。

 すべてのピースをつなぐために。

 香月雫の“本当の姿”を知るために。









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