第二話 ──見える男、聞こえる声
真神怜司には、もう一つの顔がある。
探偵という仮面の下に隠されたその本質は、“視える者”としての業だった。
いわゆる霊能者──とはいえ、華やかな霊媒や荒事をこなす祓い屋とは違う。彼にできるのは、ただ“視る”こと。肉眼では捉えられぬ存在を、彼は輪郭と温度をもって知覚する。
調子が良ければ、声すら届く。霊の波長と怜司自身の精神が一致したとき、ごくまれに──彼らが何を伝えたがっているのか、言葉として受け取ることができるのだ。
ある時は、夜道の電柱の影に佇む女が、
──まだ帰ってこない。母が待ってるの……と泣いた。
ある時は、廃屋の風呂場に這いつくばる男が、
──悪いのは、俺じゃない。あいつらが……と呻いた。
だが怜司にできるのは、ただ聞くことだけ。
彼らの言葉を誰かに伝えることはできても、成仏させる力は持ち合わせていない。
それが、真神怜司という男の限界だった。
小さなころから、彼には“見えていた”。
最初は夜にうなされる幻視だと思っていた。だが成長するにつれて、それが幻ではないことを彼は理解していった。
そのせいで友人を失い、家族に訝られ、学校でも浮いた。けれど彼にとって、それは“呪い”ではなかった。むしろ、世界がもう一枚の皮を剥いで見せてくるような、不思議な悦びと怖れが混じった感覚だった。
だからこそ──
普通の事件には、ほとんど興味が湧かない。
人が語りたがらない“おかしな出来事”。
地図に載らない“場所”。
口伝えにしか残らない“過去”。
そうしたものにこそ、彼は引き寄せられる。
“視える”という能力を、証明する術はない。
それでも時折、事件の中に、霊たちの囁きが混ざることがある。
彼らは、怜司に何かを伝えようとする。
怨嗟なのか、懇願なのか、警告なのか。
──この世に未練を残しているという点で、怜司と彼らは、似た者同士だった。
だから彼は、今日も見えない声に耳を傾ける。自らを“霊能者”と名乗ることはない。ただ、そこに“いる”ということを、認識するだけ。
──それが、彼にできる唯一の仕事だった。
依頼者が来ると、真神怜司はいつも癖のように“視て”しまう。
それは目で見るのではなく、皮膚の裏側で感じ取るような、熱や重さのある気配だった。
人というものは、過去に縛られている。
誰もが何かしらの痕跡を背負い、その残滓はときに霊的な影として顕れる。肉親を亡くした者には、その縁の霊が憑くことも多い。未練や罪悪感が濃ければ、まるで背中に寄り添うようにして、その者の歩みに付き従うのだ。
だから怜司は、相談に訪れた人間の“背後”に、まず意識を向ける。
それはあくまで確認作業。職業病のようなものだった。
だが──あの日、香月雫が事務所を訪れたとき、彼女の背後には何もいなかった。
空っぽだった。
兄の霊も、血縁者の影も、薄っすらとした怨嗟すらもない。
まるで、そこに“人間”の気配がなかった。
怜司は違和感を覚えた。
兄を亡くした──あるいは行方知れずになった者であれば、たいてい何かしら“背負っている”ものがある。
それは悲しみや執着の色であったり、あるいは強すぎる感情の痕だったり。
けれど、香月雫にはそれが一切なかった。
無風。
無音。
無影。
彼女の存在自体が、妙に空白だった。
“見えている”のに、見えない。
それは“視える者”にとって、もっとも奇妙で、もっとも危険な兆候でもある。
もちろん、怜司はその時点ではそれを言葉にすることはなかった。口にした瞬間、何かが“確定”してしまう予感があったからだ。
彼はただ、依頼者として彼女を受け入れ、話を聞き、手がかりを集め始めた。
だが、その背後に誰もいないという事実だけは、彼の心の奥底に、小さな棘のように刺さって残っていた。
それは──あまりにも静かで、あまりにも不自然な、沈黙だった。
だが、初めて雫に依頼を受けた時の違和感が後にとんでもない怪異だとは今は想像も出来ない怜司だった。
■
朝の京都。濃い曇り空が、街に湿った気配をまとわせていた。蝉の声すら遠く感じる静けさの中、烏丸通の古びた雑居ビルの三階にある真神調査事務所では、いつものようにコーヒーの香りが薄く漂っていた。
真神怜司は、机の上で古びた手帳を開きながら、黒々としたペンで昨日の依頼の概要を書き留めていた。
――依頼者、香月雫。兄・香月慧、行方不明。
その横に、もうひとつのメモ。
“080-xxxx-xxxx”
細く丁寧な文字で記された十一桁の携帯番号。雫が事務所を後にする際、「何かあれば」とそっと差し出していった紙片だった。
怜司は、迷いなくスマートフォンを手に取り、番号を入力した。
ツー……ツー……
虚ろな呼び出し音が耳の奥で反響する。しかし、応答はなかった。
「……出ないか」
ひとつ息を吐き、再度かけ直す。
だが、状況は変わらない。通話中でも電源オフでもない。不通というわけでもない。ただ、誰も出ない。
午前中だけで三度、怜司は番号にかけた。が、その度に同じ無応答。
奇妙な胸騒ぎが心の奥でじわりと広がっていく。
午後二時をまわった頃、怜司は四度目の発信をためらいながらも行った。
結果は同じだった。
その時だった。
カタン、と小さな音とともに、ドアがノックされた。
「……失礼します」
低く柔らかな声。振り返ると、ドアの隙間から顔を覗かせたのは、昨日のままの姿の香月雫だった。
白いブラウスに、長い黒髪。曇天の光が差し込む中でも、彼女の肌は透けるように白く、黒目がちの瞳はどこか遠くを見ているような印象を与えた。
「……お電話、出られなくてごめんなさい。大学に行くとき、自宅に携帯を忘れていってしまって……」
雫は申し訳なさそうに笑いながら、両手で鞄の取っ手をぎゅっと握っていた。
「戻ってから着信に気づいて……ちょうどこの辺りで用事があったものですから、つい……」
「……偶然、か」
怜司は無意識に呟いた。
「え?」
「いや、こちらとしては助かった。来てくれて」
彼は手帳を閉じ、椅子から立ち上がる。
「どうぞ。もう一度、話を聞かせてください」
「はい……」
雫は静かに頷き、昨日と同じソファへと腰を下ろした。
その後ろ姿を目で追いながら、怜司は、ふと“いつもの癖”で彼女の背中を見た。
──やはり、何もいない。
他の依頼者には大抵、何かしらが“憑いて”いる。喜びに寄り添う影、悲しみを引きずる影、後悔に縋る微かな声。
だが、雫には……
風の抜けるような空白だけが、そこにあった。
再び、妙な静けさが部屋に漂う。
外では雨が落ち始めていた。
蝉の鳴き声が遠く、湿気を含んだ空気が窓の隙間からじわりと忍び込んでくる。探偵事務所のソファに腰かける香月雫は、薄く笑みを浮かべながらも、どこか心ここにあらずといった風情だった。
真神怜司は、冷めかけたコーヒーをひと口すすったあと、静かに口を開いた。
「昨日の件、もう一度だけ、確認させてください」
雫はわずかに身を乗り出した。「はい」
「行方不明になったのは、あなたの兄・香月慧さん。失踪は八年前。大学のオカルト系サークルの肝試しイベントで、洞窟の中にある地底湖に飛び込み、そのまま行方不明に。同行していたメンバーたちは、警察の事情聴取に協力したが、事件性は認められず、いまに至る──間違いないですか?」
雫は静かに頷いた。「ええ……あのとき、私はまだ中学生で。兄がそんな危険な場所に行っていたことも、あとから知りました」
怜司は手元のノートにさらさらとメモを書き込むと、しばらく間を置いてから、ようやく本題に入った。
「実はね……今朝、あなたに電話したのは、依頼の件でちょっと相談があって」
雫が小首をかしげた。「はい?」
「今回の件、手がかりが少なすぎる。警察記録もほとんど黒塗りで、サークルの資料もろくに残っていない。正直、民間の調査では限界がある。でも──あなたは今、あの大学に通っている」
彼は顔を上げ、雫の瞳をまっすぐ見つめた。
「香月さん、お願いがあります。兄さんのことを調べるために、そのサークルに入って、できる限り事件当時のことを探っていただけませんか」
「え……私が……?」
雫は戸惑いを隠せず、思わず手を胸元に添えた。
「特に知りたいのは、あの日──肝試しに同行していたメンバーたちの名前です。彼らの話が聞ければ、何かが見えてくるかもしれない」
怜司は小さく息を吐くと、苦笑交じりに肩をすくめた。
「本来なら、こういう調査は俺の仕事なんだけどね。あの大学は、そもそも入ることすら難しい名門校だ。関係者以外がうろついてたら、すぐ警備に止められる」
彼は立ち上がり、深く頭を下げた。
「その分、依頼料は安くします。どうか、力を貸してもらえませんか」
沈黙の中、雫の髪がふわりと揺れた。外では、通り雨が静かに始まり、窓ガラスを細かく叩いていた。
翌朝の事務所には、いつもよりわずかに湿り気を帯びた空気が流れていた。連日の猛暑日。
京都の夏はすでに盛りを迎えており、窓の外からは蝉の鳴き声が遠く響いている。
真神怜司は、机の上に置かれた湯気の立つマグカップを片手に、パソコンの電源を入れた。黒い画面が静かに明るみを帯びる。その光が、昨晩の記憶を照らすように思えた。
──香月雫、そしてその兄・慧の行方不明事件。
八年前に起きたはずの“それ”は、なぜか今日まで、きちんと語られていない。
「名門大学、洞窟、地底湖──話題性なら十分だ。なのに……」
怜司は指先でキーボードを叩きながら、ディスプレイの光を睨んだ。打ち込んだ検索ワードは「大学名 地底湖 行方不明 香月慧」。
しかし。
画面に現れた検索結果は、拍子抜けするほど少なかった。
記事は一件。
それも地方紙のウェブアーカイブにひっそりと埋もれていた。
──『大学生が地底湖で行方不明 事故の可能性』──
本文はわずか十行ほど。
場所の名前もサークル名も伏せられ、ただ「事故と見られる」の一文で締めくくられていた。
「おかしい……」
怜司は眉間に皺を寄せる。
普通なら、こういった事件はもっと大きく報道される。若者、大学、肝試し、そして“地底湖”。
週刊誌が飛びつき、ワイドショーが特集を組んでもおかしくない。
──なのに、なぜか世間の記憶にさえ残っていない。
「SNSも……これといった記録がない……」
Twitter、Facebook、当時主流だったSNSを片っ端から調べてみたが、香月慧という名前に直接言及した投稿は見つからなかった。
ようやく見つけたのは、ある個人ブログのアーカイブだった。
事件当時にサークルに所属していたと思しき人物のものだ。
その内容は、断片的な言葉だけがぽつぽつと並んでいた。
──“あの日、あんなことが起きるとは思わなかった”
──“湖の闇がすべてを飲み込んだ”
──“俺たちはただ、決まりごとを守っただけだ”
怜司はモニター越しに目を細めた。
“決まりごと”?
肝試しに、そんなものがあるというのか。
クリックを繰り返し、さらに読み進めようとしたとき、突如として画面が切り替わった。
「……消えた?」
白い背景に、無機質な文字が浮かんでいた。
──『このページは削除されました』──
怜司は固まった指先でゆっくりと画面を閉じた。
部屋の外から、風鈴の音が一度だけ鳴った。その音が、妙に遠く、現実味を欠いて聞こえる。
「誰かが、消したのか。それとも……最初から“出してはいけない”話だったのか」
ぞくり、と背中を一筋の冷たいものが這った。
背後に気配はない。
しかし、妙な視線のようなものが肩口にまとわりついている。
怜司は立ち上がり、静かに窓のブラインドを下ろした。
微かな風が入ってくる隙間を塞ぎ、部屋の空気が閉じられていく。
「……香月雫。君の兄は、ただの行方不明者じゃないな」
マグカップのコーヒーはすっかり冷めていた。
だが、怜司の中にはじわじわと、事件への興味と違和感が熱を持ち始めていた。




