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完結『名門大学生 地底湖失踪事件――水底に眠る声』  作者: カトラス


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第十三話 ──赤松

 探偵事務所の照明を落とした室内には、夜の静けさとパソコンのファンの微かな唸りだけが残っていた。

 怜司はソファから立ち上がり、机の上に広げられた裁判記録をひとつひとつ指先でなぞるように見直していた。


 ──ここからが本番だ。


 裁判所で入手した情報は、怜司にとって確かな突破口となる予感を漂わせていた。雫が調べて教えてくれた四人の名は、裁判記録を通じて一本の太い線へとつながりはじめている。

 とりわけ、黒塗りされた“代表”の存在が際立っていた。雫の兄にまつわる真相──その影は、彼の名を囲むようにして裁判記録の随所に浮かび上がってくる。


 「……接触する相手を、選ばないとな」


 低く呟いた怜司は、手元のタブレットを操作し、地図アプリで四人の居住地を改めて確認する。冷え始めた夜気が、少し開けた窓から頬を撫でてきた。


 ──赤松達彦。京都市三条河原町のマンション住まい。

 ──大泉まどか。京都市西京区の松尾地区に在住。

 ──間宮拓真。大阪の梅田界隈に事務所があると思われる。

 ──川原義明。東京・練馬。現在の足ではすぐには動けない。


 距離と行動のしやすさから考えて、やはり最初に接触すべきは赤松だと判断する。


 「京都市内、しかも三条河原町なら張り込みには……いや、人通りが多いのがネックか」


 独り言のように呟きながら、怜司は赤松の顔写真を再確認する。大学時代の卒業アルバムから引き出した一枚──実はこのアルバムは、数日前に大学生協に問い合わせて取り寄せていたものだ。調査の基本は足と準備、そう自負する怜司にとって、過去を知る資料は何よりも重要だった。


 赤松は加害者として訴えられた男だ。まどかへの暴力、裏切り、そして敗訴──そのすべてが裁判記録に刻まれていた。

 ただ接触するにはまだ早い。彼の生活を静かに観察することで、何かしらのほころびや、過去の痕跡が見えてくるはずだ。


 「まずは、張り込みだ……」


 怜司はゆっくりと椅子から立ち上がり、スーツの上着に腕を通す。静まり返った事務所の空気が、どこか張りつめたものへと変わっていた。


 窓の外には、夜の街の灯りが滲んでいた。秋の風がわずかにカーテンを揺らし、衣服の裾をはためかせるような気配だけが、時折入り込んでくる。


 怜司は玄関の鍵をかける前に、最後にもう一度机の上を見渡した。


 裁判記録、雫が調べて教えてくれた幹部メンバーの情報、地図、そして真実へと通じる断片──。


 どれもが、これから向かう夜の先に潜む“何か”を告げているようだった。


 玄関の扉を開けた瞬間、鼻を突くような夜の湿気と、アスファルトに残る夏の熱気が混じった空気が流れ込んできた。

 その一歩を踏み出した瞬間、事務所の灯りが静かに背後で消えた。


 怜司は一度も振り返ることなく、夜の街へと歩き出した。

 この街のどこかに、まだ語られていない“真実”が眠っている。


 彼はその気配を、確かに感じていた。


 三条河原町。京都市内でもひときわ賑わいの絶えないその通りに、夜の帳が静かに降り始めていた。

 冷たい月の光が、灰色の壁面に鈍く反射する。建ってまだ数年という、いかにも新しげなマンション。その高層の姿を、怜司は少し離れた歩道の縁から見上げていた。


 「これは……まだ新しいな。見たところ、築五年といったところか」


 冷静な声が、自らの観察を確認するように宙へ溶けていく。

 外壁は滑らかなコンクリート打ち放し。無駄のない直線で構成されたデザインに、目立たないながらも高級感が滲んでいた。

 そして、ロビーを照らすLED照明は淡く、しかし夜の静寂に異質なほど無機質な光を投げていた。


 怜司の目は、マンション入り口の郵便ポスト群に移った。

 その中に「赤松達彦」の名はなかった。だが、それで焦ることもない。


 ──確かな情報は、すでに握っている。


 赤松がこのマンションの最上階、10階に住んでいることは、官報の登記情報で確認済みだ。

 ポストに名を記さないのは、彼なりの警戒か、それとも単なる見栄か。どちらにせよ、潜んでいるという事実に変わりはない。


 「奴は結婚しているのか、それとも独身か……」


 今後の調査対象として、生活スタイルを把握することは必須だった。

 そもそも、こんな高級マンションに住んでいる赤松の職業は何なのか。

 それを突き止めることが、今後の調査の第一歩となる。


 このマンションは、京都市内の中でもひときわ土地価格が高騰している地域にある。

 部屋の広さはおそらく限られており、ファミリー向けというより単身者やディンクス層、あるいは不動産投資目的の購入者がターゲット層だろう。

 実際、近年ではこうした物件を中国人投資家や富裕層が買い漁っていると聞く。


 「京都も……ずいぶんと住みにくくなったもんだな」


 自嘲気味に呟き、怜司は小さくため息を吐く。

 中級層には到底手が届かない価格帯のマンション。だが、そんな場所にあの男は住んでいる。

 それだけの金をどうやって得たのか。その背景に、過去の出来事が影を落としていないとは限らない。


 怜司は視線を少しだけ外し、マンションの正面口に目をやった。

 ちょうどUberEatsの配達員がスマホ片手に出入りしようとしていた。

 その隙をぬってエントランスに滑り込み、足音を消してポストの並ぶ壁の前に立つ。


 やはり名前はない──しかし、それでも怜司は揺るがない。

 高さ制限がある京都市内の建物は、結果として部屋数が限られる。

 その分、調査の効率は格段に高まる。


 「……さて。注意深く楽しませてもらおうか」


 怜司は静かにポケットから折りたたんだ紙を取り出す。

 それは、雫が丹念に調べて教えてくれた当時のオカルト愛好会幹部の名前が書かれたメモだった。


 淡い街灯に照らされる中、紙に刻まれた文字を指先でなぞりながら、怜司の眼差しは再び高層の最上階を射貫く。

 あの闇の向こうに──過去と罪の記憶が今も蠢いている。


 彼の胸には、確かな熱が宿りはじめていた。


 

 探偵としての張り込みにおいて、無闇に時間を浪費するのは愚策だ。怜司は冷静に、効率と成果のバランスを計算していた。


 狙うは朝と夕方──出社と退社のタイミングだ。

 その時間帯に住人の出入りが集中することは、長年の経験からも明らかだった。


 マンションから一定距離をとった見通しのよい角、飲食店の看板が邪魔をして陰になる位置に、怜司は毎日足を運んだ。

 朝は午前七時から十時まで、夕方は午後五時から八時まで。合間には事務所に戻り、記録を整理し、気配を消して再び張り込む。


 一週間──同じ動作を、同じ場所で繰り返す。

 すると、確実に“見えてくるもの”があった。


 ある男に、怜司は注目していた。


 毎日のように、夕方の時間帯にマンションから出てくる。

 その服装はスーツではなく、Tシャツにデニムのラフな格好。右腕の肘から上には、複雑な曲線で構成されたファッションタトゥーがのぞいていた。


 「……どう見ても、一般のサラリーマンじゃないな」


 怜司は持参した小型双眼鏡で、そいつの動きを観察する。


 恰幅は、大学時代の卒業アルバムに写っていた頃に比べ、いくぶん肉付きがよくなっていたが……顔の輪郭、鼻の高さ、目元の陰りは、確かに赤松達彦の面影を残していた。


 この人物が本当に赤松かどうか、まだ確信は持てない。

 だが──決定的だったのは、怜司の“目”に映るものだった。


 「……やっぱり、憑いてるな」


 怜司の目には視えていた。

 男の足元から腰にかけて、ねっとりとまとわりつく影。怨念に染まったような女の霊が、彼の脚をつかみ、擦り寄り、囁きつづけている。


 さらに、腰の周辺には赤子の霊が複数、苦悶の表情を浮かべながら群れていた。

 背中には、生霊特有の透明な怨嗟の帯が絡みついていた。


 「……想像以上だな、こいつ」


 霊という存在は、強い執着や未練、恨みを抱いた人間の行動と精神に、はっきりと痕跡を残す。

 この男に憑いている数、種類、そして密度。


 それは“普通の人間”が抱えるには、あまりにも多すぎた。


 よくこんな状態で事故や不幸に見舞われていないのが不思議に思える状況に見えた。

 ──まぁ、怜司に目をつけられた時点で、不幸の始まりかもしれない。


 怜司は、背筋に冷たいものが這うのを感じながらも、視線をそらさなかった。


 張り込みを続ける中、ふと疑問が浮かぶ。

 ──そもそも、こんな高級マンションに住んでいる赤松の職業は何なのか。


 怜司は大学時代の卒業アルバムを、既に大学生協に問い合わせて事前に入手していた。

 顔の照合は済んでいる。

 だが、それだけでは足りない。


 次は奴の現在の職業、交友関係、そして日常のルーティンを明らかにする必要がある。


 闇に沈む京都の街、その静寂に似合わぬ重苦しい空気を前にして、怜司の中で何かが確かに動き出していた。


 ──これは、ただの張り込みではない。

 真実の輪郭を炙り出す、予兆であり、前哨戦だった。


 尾行は、静と動の狭間に漂う張り詰めた緊張の連続だ。


 怜司は赤松達彦と思しき人物を、一定の距離を保ちつつ慎重に追っていた。


 奴は毎日、決まって夕方十八時にマンションを出る。

 その姿には、会社帰りの疲れたサラリーマンの気配はない。

 どこか浮世離れした、夜に目を覚ます生き物のような気配が漂っていた。


 この日は雲ひとつない快晴で、真夏の陽がまだ通りを照らしていた。

 しかし怜司の胸の内は、晴天とは裏腹に重い予感に満ちていた。


 男はタクシーにも地下鉄にも乗らず、ただひたすら徒歩で進む。

 目的地が徒歩圏内にあることを示していた。


 三条通りから路地に入り、男はやがて木屋町通りへと南下した。

 「維新ロード」と呼ばれるその通りは、かつて志士たちが命を賭けて駆け抜けた場所だったが、今では雑多なネオンが瞬く歓楽街に変貌していた。


 そして奴は、先斗町に近い雑居ビルの一階にあるガールズバーへと足を踏み入れた。


 「……酒を飲みに来ただけとは思えないな」


 怜司は、通りを挟んだ居酒屋ののれんの影に身を潜めて観察を続けた。


 しかし、男は店内に留まることなく十五分足らずで姿を現し、再び歩き出す。


 次に向かったのは、四条通りの先にある煌びやかなホストクラブ。

 派手なスーツ姿の若者たちと笑顔で言葉を交わし、中へと入っていった。


 「……こっち側の人間とも繋がりがあるのか?」


 だがここも滞在時間は短く、程なくして男は店を出ると、さらに足を進めて四条河原町の裏路地へと向かった。


 そこには、古びた雑居ビルがひっそりと建っていた。

 ネオンの明かりが半ば壊れた看板を照らし出し、ファッションヘルスの名が浮かび上がっていた。


 怜司の鼻をかすめたのは、香水とアルコールと汗の混じった濃密な夜のにおい。


 男は店の正面から入るのではなく、裏口へとまわり、スタッフと何やら言葉を交わした後、建物の中へと消えていった。


 ──客ではない。従業員でもない。


 だがその堂々とした振る舞い、店内スタッフとの親しげな応対、そして何よりも、あの高級マンションに住めるような経済力──。


 「……オーナーか、それとも経営に関わってるか……」


 怜司はそう呟く代わりに、喉奥でその言葉を噛み殺した。


 ほどなくして男は再び表通りへと戻り、最初のガールズバーへと吸い込まれていった。


 夜の街をまるで私有地のように自在に往来するその姿。


 怜司の中で、一抹の怒りと焦燥がじわじわと膨らんでいく。

 

 ──よく、こんな状態で事故や不幸に見舞われていないものだ。


 腰には赤子の霊、足元には女の生霊が絡みつき、背中には怨嗟の影が揺れていた。


 見えないだけで、奴の背後には無数の“声”がまとわりついている。


 ……まぁ、怜司に目をつけられた時点で、そろそろ不幸の幕は上がり始めているのかもしれない。


 怜司は静かに、そして深く、夜の闇へと目を凝らした。


 赤松達彦らしき人物の行動パターンは、ほぼ掴めた。

 夕方十八時ちょうど、彼は毎日のようにマンションを出て、歓楽街へと向かっていた。ガールズバー、ホストクラブ、そして風俗店──その一連のルートは、夜の世界に精通する者の動きにしか見えなかった。


 だが、それ以上の情報は、これ以上の尾行だけでは得られそうにない。

 となれば、次の一手は「接触」だ。


「……さすがにガールズバーに一人で乗り込むのは、ちょっと無茶やな」


 怜司はソファにもたれかかり、独り言のようにぼやいた。

 単身で潜入すれば、間違いなく目立つ。聞き出したい相手は夜の住人。こちらが探りを入れようとしているのが察知されれば、一瞬で警戒され、口を閉ざされるだろう。

 必要なのは、場の空気になじみ、相手の警戒を自然に解く“共犯者”だった。


 怜司はスマートフォンを手に取り、連絡帳を指でスクロールしていく。目的の名前を見つけると、小さく息を吐いて通話ボタンを押した。


「道暁……あいつしかおらんわ」


 呼び出し音が三回鳴ったところで、受話口からくぐもった声が聞こえた。


『……おお、怜司か。こんな時間に電話なんて珍しいなぁ』


 僧侶らしからぬ、そしていつになく覇気のない声だった。


「どないしたんや。なんか元気なさそうやけど、呪物でも祟ったんか?」


 軽口を叩いてみたが、返ってきたのは気の抜けたような笑いだった。


『まぁなぁ……ちょっと、しんどい日が続いててな』


「そっか……実はな。前に雫さんが調べて教えてくれた旧オカルト愛好会の幹部の名前、覚えとるやろ? あれを元に裁判記録を洗うてたんや。そしたら加害者側の中心人物が赤松っちゅう男やと判明してな」


『赤松……そいつが、今張り込んでるマンションの奴か?』


「そうや。そいつが出入りしとるガールズバーがあってな。そこに潜って情報引き出したい思てんねんけど……さすがに一人で乗り込むのは無理がある」


『なるほどなぁ……ええで。たまには俗世に顔出すのも悪うないわ』


「助かるわ。明日の十九時、阪急四条河原町の北出口の喫煙所の前でええか? 先斗町に近いさかい、ちょうどええやろ」


『了解や。でもひとつだけ……今日はちょっと調子悪いんや。気にせんといてな。明日にはようなってる思うさかい』


「無理せんといてや。ほんま頼りにしてる」


 通話を終えたあと、怜司はスマホを机の上に置き、しばしじっと画面を見つめていた。


 ──道暁と話すと、つい京都の言葉が出る。

 普段は標準語で過ごしているが、彼と話すと気が緩み、昔のイントネーションが自然と戻ってくる。それだけ信頼している証なのかもしれなかった。


 鬼の淵に一緒に行って以来、ときどきは道暁にも連絡を入れるようにしていた。頼りになる相棒であり、今もこうして助け舟を出してくれるのは有難い。


 しかし──


(……気のせいか、あいつ、ほんまに元気なかったな)


 妙な胸騒ぎを振り払うように、怜司は椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。

 事務所の窓の外には、厚い雲が垂れこめ、夜の空を覆っていた。

 その隙間から、ほんのわずかに星が覗いている。


 それはまるで、暗雲に隠された真実を照らす、かすかな光のように見えた。











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