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第63話 信西の過去⑤─同志悪左府─


   1


 このまま世俗に残ってうだつの上がらない中級貴族として生涯を終えるべきか。志を諦め、出家して都の郊外で隠棲するべきか。どちらを選ぶかで迷っていた。

 世俗に残れば、生活は保障される。だが、皇位に就けないあのボンクラ皇子のお守りを一生やらされ、肝心な民衆の救済ができずに終わる可能性がある。

 隠棲すれば、自由になれる。今の不遇やしがらみからも。だが、自由に活動できる分、助けられる人も自分の目の見える範囲だけと限られてくる。

 どちらをとっても、いいことも悪いことも半々あるのだ。選ぶにしても、どれが正解かわからないから、どうしても一方を選ぶのをためらってしまう。


 悶々とした日々の中で、羨ましいなと思える青年がいた。左大臣藤原頼長である。

 彼はハッキリと物を言う。そしてその物言いは、若さや非常識な父のメチャクチャな意見の影響のせいか、道理に反していることもある。だが、それでもどうにかして理にかなったものとして、自分なりに、しかも自信たっぷりに言う。

 道理に反しているものを強引に道理に即しているかのように言う。こういうのを「詭弁へりくつ」というのだが、この詭弁を上手に言えるのは、賢い証拠である。

 そんな物言いが、柔らかいふわふわとしたことが大好きな公卿たちにとっては、良くは思われていない。

 周りの公卿や殿上人は、強いという意味の「悪」と、律令制始まって以来最悪の左大臣という意味での「悪」をかけ、

「悪左府」

 と呼ばれている。


 そんな二重の意味での悪の左大臣と、話す機会があった。

 朝議の休み時間に、厠で用を済ませ、清涼殿へと続く回廊を歩いているときに、彼の方から話しかけてきたのだ。

「実は私も、こんな世の中は変えた方がいいと内心思っている」

「どうしてだ?」

「みんな私の才をわかってくれない。院も、兄も、その他の殿上人も」

 不満げに頼長は言った。

「それでも、貴方はまだ若いのに、内大臣から左大臣にまで上り詰めた。それでも十分立派ではありませぬか」

 十分立派である。私のような同族の端くれから見れば。むしろ、少し羨ましくもあり、妬ましくもある。

「私は父と約束をしているんです。関白になって、親孝行をするって。『左大臣』ではダメなんです。関白にならないと」

「なるほど」

「私は父上が年を召してから生まれた子。なのに、私のことをどの自分の子供達よりも愛してくれた。その恩返しが、私はしたいのだ」

「若いのに、親孝行だなんて」

 悪左府という怖いあだ名を持っているわりには、親思いで向上心があることに、私は人間らしさを感じた。

「そろそろ朝議が再開される。戻ろう」

「そうだな」

「話の続きは後で」

 私と頼長は、朝議が再開されるため、再び清涼殿へと戻った。


   3


「今日の朝議、お疲れさまでした」

 朝議が終わったあと、左府殿はこちらから声をかけてきた。

 私は、こちらこそ、と返した。

 左府殿はすぐに、

「ずっと思っていたのだが、貴方は出家をした方がいい」

 と言った。

「よく言われます」

 出家を勧められることは、よくある。彼の言う出家の勧めもどうせ、仏の力を使ってこの世の中を良くしてくれ、という理由になっていない理由なのだろう。そう思っていた。なぜ出家を勧めるのか尋ねると、左府殿は、

「貴方のように、誰かを助けたいと思える高貴な志がある人間にこそ、墨染めの衣がよく似合う。その優しさと君の頭の良さをもって、恵まれない民たちを救ってあげてほしい」

 と答えた。

 感情論もあるが、今までとは違う、筋のとおった理由だった。

「でも、私は僧侶にはあまりいい印象が無くて」

「そうか。まあ無理にとは言わない。するかしないかは貴方次第。あと、今度よければ宇治のわが家へ来ないか? そこで、貴方とゆっくり語り合いたい」

「はい」

 左府殿自らが話しかけてくるのは珍しきこと。ここで左府殿のおぼえをもらっておくのも悪くはない。


 後日私は馬で三条の邸宅から、南東にある宇治の左大臣邸へと向かった。

「ようこそ、宇治のわが家へ」

 左府殿は黒ブチの猫を抱いて、私を出迎えてくれた。

「よーし、いい子だ」

 春の心地いい日差しが降り注ぐ高縁で猫と遊んでいるときの左府殿は、世間で呼ばれている「悪左府」という仰々しい異名からかけ離れた、どこにでもいる普通の貴族の青年であった。

「猫が、好きなのですね」

「昔から一緒に暮らしていたからな」

「触っても、いいか?」

「ああ」

 左府殿は猫を持ち上げ、私の上に乗せた。猫は無邪気な表情で首を左右に回しながら、あちらこちらを眺めている。

 私は撫でようとしたが、猫はいきなり、シャーッ!! という鋭い泣き声で爪を出して、引っ搔いてきた。

「引っかかれてしまった」

 少し、悲しい。猫にさえ嫌われてしまうとは。

 左府殿は懐かしそうに、

「よくあることです。私だって、飼い始めたときは、何度も引っ掛かれたし、噛まれもしました」

 と語り、猫の喉元を優しく撫でた。

 猫は左府殿に顎を撫でられ、気持ち良さそうに上を向いている。

「大変だったのだな」

「でも、いずれ、わかってくれます。気長にそのときを待ちましょう」

 左府殿は猫の顎を撫でたあと、尻をぽんぽんと軽く撫でた。

 猫はその拍子に合わせるがごとく、尻と尻尾を上へ上へと上げていく。

(わかってくれるまで、か)

 難しいだろうな。今の現状では。

 みんな考えているのは自分の昇進と目先の利益だけ。道理を論じれば狂人扱いされる。濁悪という言葉をそのまま絵にした宮中の中で、わかってもらうのは難しい。それでもやるしかない。みんなが何の心配もなく暮らしていける世の中を創るためには。いつかはあの猫と左府殿のように、分かり合える日が来るかもしれない。その日が来るとずっと信じ続けて。


 この日からたまに左府殿の家を訪れるようになった。

 そこで今の世の中を憂いたり、政治や経済のことについて朝まで語り合ったりした。

 左府殿の飼っている猫とも仲良くなった。

 最初は引っ掻かれたり噛みつかれたりしたが、回を重ねるごとに私の手を受け入れるようになっていった。そしてあのとき彼が見せてくれた気持ちよさそうな顔を私にも見せてくれるようにもなった。


   4


 蝉時雨が洛中の周りにある山という山、森という森の中から聞こえる蒸し暑い夏の日。この日も私は左府殿の家に招かれていた。

 手拭いで薄い狩衣の袖に流れ落ちる汗を拭きながら、左府殿は言った。

「いいことを教えよう。貴方の祖父や曽祖父がやっていた大学頭を今つとめている葉室家の家長が亡くなった。今大学頭という空いた地位を巡って、学者たちが争っている」

「ほう」

「最近葉室家の家督を孫が継いだのだが、その孫がまだ年少で、大学頭になるにはまだ時間がかかりそうだ。そこで、つなぎとなる大学頭が必要なのだ」

「なるほど……」

 大学頭は、私の家が代々継いできた官職である。だが、私の父や祖父に先立たれて以来、北家の中でも力を持っている勧修寺家の支流葉室家が、代々この官職に就いていた。

 その葉室家の当主が、まだ年少である。この好機を逃しては、一生巡って来ないかもしれない。

「私を、大学頭に推挙してくれないか」

 おそるおそる私は、小刻みに口を開き、そう言おうとしたとき、

「その大学頭の繋ぎに、私は貴方を推そうと考えている」

 といった。

「本当か!?」

 まさか、左府殿が私を推してくれるとは思わなかった。

 左府殿は、ああ、と頷いて続ける。

「貴方のような立派な才を持った人を、世に出さないのは、とても惜しいことである。繋ぎという形で申し訳ないが、それでいいなら、推挙させてほしい」

「ありがとう!!」


 だが、推挙は叶わなかった。秋の除目の際に鳥羽院が賛成したそうなのだが、左府殿の父である太閤殿下や寺社や利権にすがる一部の公卿たちの強いご反対により、大学頭就任は無かったことにされた。

 左府殿は自身の父上や反対勢力を説得なさったそうだが、聞き入れず、ずっと抗議をしていたそうだ。反対勢力に折れた鳥羽の院は、渋々私を大学頭にするのを取りやめたそうだ。

「力及ばず、本当に申し訳ない」

 左府殿は頭を下げた。朝議ではいつも強気でいる彼だが、このときは申し訳なさと悔しさが混じったやるせない感じだった。

「いいんだ。自分の蒔いた種だ」

 そうだ。私は信念のために上ともたくさん衝突している。そして、たくさんの敵を作っている。こればかりは、因果応報だ。大学頭は、自分の分に過ぎた願いであった。

 現世では、どんなに欲しいと願っても手に入れられないものはたくさんある。富、名声、力、知識、愛……。望んでも手に入らないものは、人によって様々だ。それが私にとって、大学頭という官職だったに過ぎない。でも、それを頭で分かっていても、諦めきれない。大学頭は先祖代々受け継がれてきた官職だから。

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