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作者: 鷹の舞。

 買い物帰りは、いつも億劫になる。だって重たいもの。ビニール袋がパンパンに膨れ上がっている。よく破れないなと思う。ビニール袋を持つ手にキリキリとビニールの取手部分が食い込んでくる。痛い。とっても痛い。とりあえず地面に置いてエスケープ。ふぅ~痛いわ。まだ両手はジンジン痛んでいる。手の平を見ると、どちらの手にも横一文字に赤みがかかっていた。手が少し熱を帯びてきた。エコバックならこんなことにはならないのに。今さらエコバックを持ってくればよかったと後悔し始める。家を出発する前に、エコバックを忘れていることには気が付いていた。エコバックは冷蔵庫の横に磁石で取り付けた箱状の入れ物の中にある。今の私なら間違いなく取りに行く。だが、その時の私は愚かにも取りに行かなかった。エコバックを忘れている事に気付いたのがスニーカーを履いた後で、一度結んだ靴紐をわざわざほどいてエコバックを取りに行って、また靴紐を結びなおすという何でもない行為が徒労に感じたからだ。あの時の自分に会えるなら、そいつのたるんだ横っ腹を摘まみあげてこう言いたい。


「靴のまま取りに行きなさいよ!」


 どうしてその発想が出てこなかったのだろうか、床が汚れてしまっても、拭けばいいではないか。なんて今さら言っても仕方がない。今考えるべきことはエコバックを取りに戻らなかったことを嘆くのではなく、エコバック無しのこの状況をどうやり過ごすかを考えるべきだ。…さっきのスーパーにもう何カ月も捨てられ続けている自転車を私は数台知っている。もちろん鍵はささりっぱなしだし、自転車置き場には屋根があるから雨ざらしだったわけではない。衛生面に心配はないが、安全面に問題がある。これは決してそれらの自転車がボロボロで今にも壊れそうだからというわけではない。私の運転技術の問題だ。今まで生きてきてかれこれ四十数年経つわけだが、自転車に乗ることがどうしてもできない。一輪車は乗れた。これが二輪となるとそうもいかない。三輪は楽勝。四輪は免許取ってません。残念ながらスーパーに一輪と三輪は捨てられていなかった。無理して自転車に乗って怪我したくもないし、そもそも勝手に人の自転車に乗るの犯罪だし、なぁんにもメリットがない。この案没。何かほかにいい案はないだろうか。うーん。この荷物をどうにかして私の家まで送る方法。送るといえば…送りバント!そうだわ。プロ野球選手の送りバントで家まで送ってもらおうかしら。そうだわ。そうしましょう。さっそく連絡しようと思ったけど駄目だわ。知り合いにプロ野球選手いないもの。それに送りバントってバッターさん一人を犠牲にして次の塁に送ってもらう仕組みだったわよねぇ。私の買い物帰りの重たい荷物のために犠牲になってくれる執事みたいなプロ野球選手がいるとは思えない。私の夫も言ってたわ。


「バントしたからといって必ずしもランナーを送れるとは限らない。最悪の場合ゲッツーもありうる。バントは成功率が他と比べて高いだけで、安全な作戦ではない。」


そう、バントは安全な作戦ではない。仮にもしプロ野球選手にバントしてもらえたとしても必ず家まで送ってくれるとは限らない。最悪の場合のゲッツーになったら私はどうなるのかしら…考えるだけで恐ろしいわ。家には確実に帰りたいもの。この案も没ね。どうにかして家に帰る方法はないかしら。いや、最後はもう手で持って帰る覚悟はしているけど、重たいもの。何かいい方法はないかしら………


「あの、宮部さん。大丈夫ですか?」


 唐突に声をかけられて驚いた。声のする方向では家が近所のママ友、林中さんが車の助手席の窓を開けて私を見ていた。私は一目で感じ取った。林中さんの様子がなんだかおかしい。なんというか、悲壮感、疲労感、とにかくあまり体調がよくなさそうだった。顔が引きつっていた。声もなんだか震えていた。変な感じがした。かくいう私も、道の途中で大きなビニール袋を二つ足元に置いて、腕を組んで考えごとをしているという怪しさ満開の絵面だ。閑静な住宅街で私ったら一人異空間状態。


「はい、別に…どうかしましたか?」

「…あっ、いや、よ、よろしかったら家まで送りますよ。袋、重たいでしょ?」


 これだっ!きたっ!これよっ、これこれ!。この手があったわ。偶然車で通りかかった近所のママ友に帰りしなを拾ってもらう案。やはり持つべきものは車と免許持ちで家が近所のママ友に限りますわね。おほほ。


「すみません…じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな?」


 私は手の痛さなんか忘れて二つの大きなビニール袋を持ち上げた。持ち上げてから気付いたことは、まだ車のドアを開けてなかったことだ。急に手の痛みを思い出して、すぐさまコンクリートの地面にビニール袋を下ろす。この間わずか数秒。バスケットボールのドリブルみたいだ。おまけに袋の中から嫌な音が聞こえてきた。卵さんが無事であることを祈りつつ、私は後部座席のドアを開けて二つのビニール袋を再度持ち上げて今度は慎重に乗せた。時すでにお寿司…いや、遅し。と思ったが、まだご存命の卵さんがいると仮定して丁寧に作業した。ドアを閉めて、私は反対側のドアから入ろうと思って車の後方をぐるりと回りこむ。もし今、林中さんが車を発進させて卵さんたちがさらわれてしまったらどうしよう。そんなくだらないことでも、一度考えてしまったら何となく怖くなって、小走りで反対側まで行った。ドアを開けて、後部座席に座り込む。よかった。卵さんたちさらわれなかった。私の心配は案の定、杞憂だった。


「…じゃあ、あのっ行き、ますね。」


 林中さんはやはり様子がおかしい。今日はどうしたのだろう。


「お願いします。」


 私は訝しがりながらも、深くは聞かないことにした。

窓の外ではものすごいスピードで街ゆく人々が行き交う。動画を早送りしているようだ。あとたぶん三分くらいで私の家に着くと思うのだが、その間沈黙しっぱなしだなんて無理。マグロが泳ぎ続けないと死んでしまうように、喋り続けないと死んでしまう主婦にとってその時間は地獄だ。何か話そう。


「林中さんもお買い物とかだったり?」

「えぇ、まぁ、そ、そうではないですけど、別にあの、たいしたあれということでもないです。」

「なるほどそうですか。」


 全然わからない。唯一わかったことは、買い物帰りではないということだけ。その前は何をしていたんだろう、気になる。それから三十秒ほどまた沈黙。どうも気にかかる。いつもの林中さんなら、特に私から働きかけなくても話してくれるし、私のことも聞いてくれる。それがどうだろう。今日は私に聞くどころか、自ら話しかけようとしない。私から話しかけても、曖昧な返事で会話を膨らまそうとしない。最初感じた具合の悪さは、今どちらかというと何かに怯えているような風に見える。この状況で誰におびえるというのだろう。私?もしかして私に怯えてる感じ?そんな。まさか。ないない。だとしたら誰に怯えているのか、ひょっとして何かに追いかけられている的な?私は体を捻り、後ろに追跡車がいないか確認した。うん。いるわけないよね。アクション映画と昼ドラの見すぎな私は捻っていた体を元に戻し、今度は頭を捻り始める。仮に万が一…いや、億が一…兆、京、亥(ここから先は知らないので)仮に亥が一、林中さんが私に怯えているとして、どうして私に怯える必要があるのか。最近探偵物のドラマも見始めた私は何でもかんでも事件の新犯人を発表する前みたいに筋道立てて物事を整理することにハマっていた。考えられることは二つ。一つは私がいきなり凶器を取り出して、「今から言うとおりに車を運転しろ。」と、俗にいうカージャックをするのではないかと林中さんが懸念しているかもしれないということ。しかし、これは私を車に乗せなければ済んだ話なので、可能性は低い。となると二つ目の不倫現場への生き道、もしくは不倫現場からの帰り道に私と出会ってしまったということ。これはかなり有力だ。えー。やだなー。そんな厄介ごとには関わりたくないな。もし、林中さんが不倫していたとして、いったい誰だろう?一番ドラマ的展開を取るなら、うちの主人。それなら私に対してのこの異様な怯えとも取れる態度には納得がいく。だけどもしその通りだったら私は全然納得いかない。まぁ、あくまでドラマ的処方をとったらの話だから、真に受けない真に受けない。今朝だって主人を玄関で送り届けて…あれ?思い出せない。主人を今朝送り出した記憶が出てこない。あらあら、私も年なのかもしれないわね。昨日の晩ごはんどころか、今朝の記憶すら曖昧になってきているわ。だけど、あの人は今消防署にいて、トレーニングやらパトロールやらしているはずで不倫なんて…ダメだ。アリバイが固まれば固まるほど、不倫のリアリティーが増していく。だいたい不倫ってのは、まさかあの人が?とか、仕事に行ったはずなのに、とかそういうシチュエーションだって相場で決まってる。そりゃそうだ。わざわざ休みの日に妻帯者がフラッと不倫をしに行くはずがない。行くなら一番怪しまれない平日の出勤日。その日が今日?まさか今日?じゃあ、今車を運転している林中さんは私の旦那をたぶらかす憎っくき泥棒猫?許せないわ。この車をジャックしてやろうかしら。それならジャックするにあたって何か凶器を持っていないと成功しないと思う。さすがに一般の主婦が散弾銃を持ち歩いていないし、そもそも持ってすらないし、唯一持ってる凶器である包丁は家の台所の引き出しの中だし、何かない。ものだろうか。さっき買ったものでパンパンに膨れ上がっているビニール袋の中を目で確認する。ジャガイモやニンジン、キノコ、ベーコン、バター、牛乳、どれも使えそうにない。あ。やば。卵さんけっこうな数ご臨終なされてる。つら。うーん。ブロッコリーのいずれ切って捨てる下の硬い部分で脅せるだろうか?答えはノーだ。悪いが冗談にもならない。ならナシ。今のナシ。どうしてやろうかしら………


「―――よ。」

「へあっ?」


 私は間抜けな声を上げていた。それまで全く話しかけてこなかった林中さんがいきなり話しかけてきたからだ。しかも林中さんの言葉を聞き漏らしてしまった。車内に静寂が訪れる。ヤバい。何この沈黙。なぜだか心臓の鼓動が早くなる。なぜか林中さんは何も言わない。もしかしたら林中さんは今すごい気まずくなるようなセリフを吐いたのかもしれない。それゆえにこの沈黙を受け入れているのかしら。本当は私が聞き漏らしただけなのに。っていうかホントに喋んないわね。固まっちゃってるわ。え。わかんない。こういう時はどうすればいいの?自爆スイッチがあれば間違いなく押すであろうこの状況。荷物もビニール袋もなんもかんも放り出して雄叫びをあげながらこの車から出ていこうかしら。そのほうが楽だわ。よしそうしましょう。落ち着いて、ゆっくり息を吸って…


「あの、宮部さん。お家の前まで着きましたけど…」

「はうっぷ!え?あ、はい。…あっ、そうですか、すみません!」


 言われてはじめて車が止まっていることに気づいた。窓の外には私の家がある。私はあわてて車の後部座席を飛び出して、反対側のドアを開けてビニール袋を鷲掴む。助手席の窓に顔を近づけて、


「今日はほんとにありがとうございました。なんか、いろいろすみませんでした。」

「いえいえ、では。」


 そういうと、林中さんは私の返事を聞くことなく、窓を閉めて車を走らせた。明らかに私と関わりたくなさそうな感じを受けた。やはり私の予想は的のど真ん中を射抜いていたのか?今はわからないが、夫が帰ってくればわかることだ。あの人は嘘が下手だから、不倫なんかした日にはいつも通りにはいられないはずだ。それにまだあの人が不倫したと決まったわけではない。林中さんの調子がいつもと違っただけなのだ。私の思い過ごし。考えすぎ。気にしすぎ。妻の私が夫を信じなくてどうするのよ。結婚生活もそれなりに長いわけだ。今までもいろいろあったではないか。だけどそれらを乗り越えてきたではないか。積み重ねてきた愛はジェンガのように倒れたりはしないし、花びらのように散ってしまったりはしない。ならば私がすべきことは何か?それは夕ご飯とお風呂を用意しておいて、疲れて帰ってきた夫を玄関先で温かく迎えてあげる。これが妻のやるべきことであり、かつ私にできる最大限のパフォーマンス。かなり大げさに聞こえるかもしれないが、専業主婦は主婦のプロだと私は思っている。プロはどんなコンディションの中でも常にベストなパフォーマンスをしなければならないものだ。今日もそう。いつものように淡々と家事をこなす。結婚してから今日までそうしてきたように。そしてこれからどちらかが先に死ぬまでそうやっていくように。

 心の整理がついた私は、一旦下ろしたビニール袋を再び両手で持ち上げた。再び持ち上げて気付いた。まだ玄関のドアを開けていなかった。この短時間で同じミスを重ねてしまった。すぐさま荷物を下ろす。あっ!そっと下ろさなきゃ!と思った時には…はぁ…私はなにやってんのかしら…。


台所に二つの大きなビニール袋を下ろす。大きな荷物を運んだのと、温かい気候が手伝って身体か火照っている。だから、家の窓という窓をすべて開けた。こうすることで家の中に風の通り道が出来て涼しい。自然のクーラーだ。キッチンに戻り、時計を確認する。台所の時計は結婚記念に夫の弟さんが贈ってくれたものでもう数十年台所の壁に吊るされっぱなしだ。長針が12のところに来ると音楽が流れ、下半分のメリーゴーランドみたいな飾りが回る。正確には回っていた。今ではメリーゴーランドは回らないし、音楽も低く、くぐもった音しか出ない。おまけに時計の針は4~5分早い。だけどかなり大きな時計で相当重そうだから、わざわざ下ろして時間を合わせるようなことはしない。ただいま17時48分。つまり、正確には、17時43,4分という事になる。消防士の夫は17時30分に仕事を終え、そのまま電車とバスに揺られ、少し歩いてうちに帰ってくる。この間だいたい小一時間。だから、18時半にあの人は帰ってきて、まずお風呂に入る。それまでにお風呂を沸かしておく。あの人がお風呂から上がるまでにご飯を完成させておく。今日も気をつけるのはその二点のみ。言っておくが、我が家は亭主関白ではない。私が勝手にプロ意識を持っているだけで、多分あの人はお風呂が沸いてなくても、ご飯が出来ていなくても、文句の一つも言わないでポケーっとしているだろう。今までに何回かご飯もお風呂も間に合わなかったことがあるが、特に何も言わず脱衣所でパンツ一丁のまま待機していた。それが健気でかわいくもあった。あえてお風呂を沸かさないで、もう一度あの風景を見ようかとも思ったが、それはさすがに、と自分を律して私はお風呂場へ向かった。


 お風呂場を軽く洗い、栓をしてお湯を沸かし始めたのが十分ほど前。浴槽がいっぱいになるまでは20分弱かかるので、まだお湯を止めに行く必要はない。十分換気もしたし、身体の火照りも取れたので、部屋中のドアを閉めて回った。順番的にいつも最後にリビングのドアを閉める。ここは鍵が少し硬くなっていて開け閉めするのに力を使う。何とか鍵がかかり、しまったかどうか確認する。私は鍵を閉めたら念入りに確認しないと気が済まない質だ。しっかりとリビングの鍵がかかっていることを確認した私はキッチンへ向かう。


ごぽごぽと目の前の鍋が音を立てている。沸騰する鍋の水を見ていると先週だっただろうか、カレーを作ったのを思い出した。


「カレーどう?」

「嘘はつきたくないから、正直に言うと、まずくはないけどなんか変。」

「まぁ、せっかく作ったのに、」

「私は妻を甘やかさない主義だ。」

「ふぅ~ん、変って何が変?」

「何かが足りないような気がする。」

「んー。多分それ、愛情じゃない?」

「えっ?入れてないの?」

「うん。」

「うんって、お前…」


 あれは失敗だった。つい、愛情を入れるのを忘れていた。今回は同じ過ちを繰り返さないように、愛情を入れよう!ちなみに今日の献立はシチューである。野菜を刻む。ブロッコリーの堅い所を切り落とした時、この部位でハイジャックしようと目論んでいたことを思い出した。ないわ。無理無理。ぽいっ。生ごみ専用のごみ箱に、一時期ハイジャック用の凶器になりかけた惜しい部位が、惜しげもなく捨てられる。刻んだ野菜と、ルーやら、バターやら、牛乳を、先ほどからごぽついている鍋に投入する。私はあまり手順なんかを気にしない。分量だけしっかりと守って、完成系がそれっぽくなればおーけー。今までそれでやってきて、何とかなった。このやり方は私だけじゃなく、私のお母さんもそうだった。これは我が木村族(木村は私の旧姓です。)に伝わる由緒正しき料理方法なのかもしれない。

ごぽごぽと鍋が唸る。それを上から見下ろしながら私は考える。後は何を入れるのか。一つ足りないものがある。…そう、愛情だ。今回は愛情の入れ忘れに気付けた。しかし、ここで問題がある。それは愛情の注入方法だ。何をどうすれば料理に愛情を入れたことになるのか。私にはわからない。全くわからない。皆目見当もつかない。ここまでくると哲学的な話になってしまうが、そもそも愛情とは何なのかさえわからない。主人を愛していないわけじゃないし、嫌いな訳でもない。愛してると口で言う事は誰にでも簡単にできる。だけど、何をもって愛情というのか、愛しているといえるのか、好き同士がキスをしたらそれで愛なのか?お互いが愛しているといえるのか?私はそうは思わない。そう思わないだけで、私自身、確固たる持論があるわけではない。わからないのだ。それを模索していくのが夫婦なのだと思った時期もあった。十数年ほど前、新婚ホヤホヤのペーペーでアッパラパーな頭の中お花畑状態の新米主婦だったころの私も同じ悩みを抱えていた。そしてその答えをベテランになった未来の自分に託した。私はまだベテランではないので中間発表になってしまうが、今のところ新米だったころの自分と何ら変わりない。なんの答えもヒントさえ見いだせないでいる。年だけとった。脂肪だけ増えた。ついでに最近は何かとすぐイライラするし、ブラジャーつけるのめんどくさくなってきたし、夫が私の誕生日にシワ取りクリーム買ってくるし…だいたいどこの世界の夫が妻の誕生日にシワ取りクリーム買ってくんのよ。天然すぎるの?ピュワすぎるの?それともストレートな嫌味?純真無垢な汚れ無き正直な心で私に嫌味をぶつけているの?あの渡すときのどや顔はどちらともとれる。あーいやになっちゃう。いいだしたらキリないや。とにかく、このシチューに今現在の私ができる最大限の事はしよう。私は腕を組み、左手であごをさすりながら考える。最近見始めた刑事もののドラマの主人公が考える時のポーズだ。静かな空間に鍋のごぽごぽだけが聞こえる。どうすればいい?愛情は注ぐって表現をよく使うわよね、だったら何か愛情から連想される液状のものを入れれば、愛情を入れたことになるかもしれない。愛情から連想されるもの…愛情、アイジョウ、AIJYOU。んー。母の愛的なニュアンスで行くと、やっぱり母乳?乳?牛乳?でも牛乳はさっき入れたから、できれば他の乳がいいよねぇ。豆乳?ないない。今うちにない。練乳?ないない。そんなの絶対美味しくない。これ以上はないか…いや、あった!

 ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ…

 セットしていたタイマーが元気に二十分の経過を教えてくれる。これはお風呂を沸かし始めた時にセットしたものなので、お湯を止めて冷めないようにシートで覆わなくてはいけない。私はお風呂場に向かって歩き出す。最後にギリギリ思いついた巨乳。ないない。私そんなに大きくない。とりあえず、今日は投げキッスでもしておこう。台所を去り際に鍋に向かって投げキッスをした。ポトン。そんな音が聞こえた気がした。思えば投げキッスなんて今までの人生でしたことあっただろうか?うーむ。思い出せない。もしかしたら、思い出せないのではなくて、したことがないのかもしれない。えっ?まさか今のが初?初めての相手が鍋?イケてないわ私。衝撃の事実にげんなりしながらも私はお風呂場へ向かった。


お風呂は止めて、シートをかけた。シチューは完成。ご飯も炊けている。今日の夕ご飯はシチューライスだ。これはうちの夫曰く、一般家庭には存在しないメニューらしいから、一応説明しておくと。ほかほかのご飯の上にあつあつのシチューをかけてスプーンで召し上がる料理だ。ウチでは定番料理だったが、初めて夫に出した時にこんなことがあった。


「今日はシチューライスでーす。いぇーい。」

「……………」

「ささ、熱いうちに召し上がれ。」

「………これは?」

「シチューライス。」

「…白いカレーライスじゃなくて?」

「白いシチューライスにございます。」

「…カレー味のシチューじゃなくて?」

「シチュー味のシチューにございます。」

「…これは夢じゃなくて。」

「現実にございます。ていうか、食べたことないの?シチュー。」

「あるよ。何回もあるよ。ただこのパターンは初めてだ。とても驚いたよ。」

「え?あなたの家こうやって食べないの?」

「んー、世間一般はそうやって食べないね。」

「嘘、ウチだけ?えー、びっくりだわ。とってもびっくりだわ。久しぶりに会った友達が性転換してた時ぐらいびっくりだわ。」

「過去にそんなことあったの?」

「んー…ないけど?」


 木村族(木村は私の旧姓です。)サイドの言い分としては、カレーもシチューも似たようなそれこそ親戚みたいなものだから、シチューにご飯をかけてもよくね?という事なのだが、どうやらウチ以外の家庭はそうではないらしい。だから、あの一件以降はシチューとご飯は別々の器に盛りつけるようにした。今日だってもちろんそうした。もうテーブルの上に二人分準備してある。さてさて、料理もお風呂も完璧に準備したのはいいが、今日は夫の帰りが遅い。そう気づいたのは、いつもの癖で18時50分に夕食をお皿に盛りつけてテーブルに運んだ時だ。そのくらい誤差の範囲だと思う人もいるかもしれない。私だってそう思うタイプの人間だ。だけど、あの人は消防士という職業柄もあって、時間は必ず守る。死んでも守る。私が「私と時間とどっちが大事なのよ!」って言ったら、多分、時間って言いそう…。そのくらい時間に厳格なのだ。寄り道なんかもほとんどしない。今までずっと18時30分~35分の間に必ず帰ってきていたのだ。それが今日は連絡もなしに、この時間まで帰ってこない。心配にならないわけがない。とりあえずメールを打とう。ポケットの中からスマホを取り出す。最近ガラケーから乗り換えたばかりで、いまいち液晶パネルに慣れないが、眉間にしわを寄せながら、おぼつかないながらにどうにかこうにか頑張る。簡単な作業なのだが、まだ結構な時間がかかる。こうしている間に玄関が開いてあの人が帰ってきてくれればいいのに、なんて思いながら打つもんだから余計に時間がかかった。何とかして送信までこぎつける。時計の針は7時10分を示している。本当の時間に直しても7時を回っている。テーブルの上に運んだシチューが冷めていく。さめるほどにおいしくなくなっていく。気まぐれで気難しい私の気持ちもだんだんとさめていく。私は椅子に腰かけ、テーブルの上のまだ手が付けられていないご飯とシチューを眺めた。途端に寂しくなった。条件反射みたいに。まるでこの景色を見るといつも寂しくなるというのが決まっているみたいに。こんな時間まで夫がいないのは初めてのはずなのに。この既視感は何なのであろう。もう何でもいいからあの人に会いたい。今すぐ会いたい。何してるの?私を一人にしないで。帰ってきて。どうしてなの?どうして帰ってこないの?私に何も言わないで。今も私はここで待ち続けているというのに。忽然といなくならないでよ。

 突如襲われた激しい喪失感や虚無感に押しつぶされてしまいそうになっていた時、家のインターホンが鳴った。

 私は飛び上がるようにして玄関に向かった。スリッパも履かないで、はだしのまま玄関のタイルの上を歩く。ドアを開けるとそこにいたのは夫ではなく、夫の弟だった。


「こんばんは。」


 内心はがっかりしたが、安易に表情に出すほど私も子供ではない。


「あら、繁さん。こんな時間にどうしたの?」

「近くを通りかかったんで、調子はどうかなと思って。思ったより元気そうでよかった。」

「やだ、何言ってるのよ。まるで病人みたいに扱って。今日シチューなんだけどさ、うちで食べていかない?」


 繁さんはまだ独身で、よくウチの家で三人一緒にご飯を食べる。寡黙でどこか抜けている私の夫と違って、繁さんはおしゃべりで、わりと鋭い。ご飯を食べに来たときは、繁さんの話を聞いて笑うのが私の密かな楽しみでもあった。


「奥さんも大丈夫そうだし、久しぶりにお世話になろうかな。お邪魔しまーす。」


 妙に私をいたわるような言動が気にかかるが、悪い気はしなかったので特に深く追及はしなかった。そういえば繁さんが一人でうちを訪ねてくるなんて珍しい。来るときは夫と二人で仕事帰り一緒に来るのに。夫も帰ってこないし今日は変な日ね。私はテーブルの上のシチューが盛り付けられている方のお皿を二つ持ち上げて、電子レンジで温めにいこうとした。


「ちょっと待ってくれ」


 先ほどのひょうきんな明るい話し方とは打って変わって、急に真面目な、それでいて一種の怒りのようなものさえ感じ取れる低くてドスの利いた声で私は呼び止められた。振り返ると私は反射的に恐怖した。


「えっ?何?どうしたの、急に…」


 繁さんが今までに見たことないほどの剣幕な表情で私を睨みつけていた。突如向けられた私に対する憎悪、嫌悪といったまなざしに私は怯んだ。私はそのまなざしに牙を向けることも、逃げることさえも選択できない。ただそこで息をしているだけ、そこに在るだけ、そこに私の意志や、考えはなく、存在のみが許されただけの置物のような状態に私は陥る。それほどに私は戦慄し、恐怖していた。


「僕の前に誰かとご飯を食べていたの?」


 私は辛うじて首を横に二回振る。恐怖でそれ以上何もアクションは取らなかった。半分金縛りのような状態だったから、取れなかったと言った方が正しいのかもしれない。


「そうだよね。そんなはずないよね。じゃあ何で二人分の食事が用意されてるの?」


 何かやましいことをしたわけではないのに、私は返答に困る。夫の帰りを待っていて、帰りが遅いから心配してたらあなたが来たの。と言えば済むのに、まごついていて上手く自然な対応ができない。おどおどするほどますます自分がやましいことを隠しているかのように見えてしまう。そうわかっているのに、うまく呼吸ができず、話すのに必要な空気が肺に溜め込めない。体は微妙に痙攣し始めて、口の中も乾いてきた。どうして自分はこんなにも追い込まれているのだろう。今日一日何の変哲もない、普通の一日だ。何も違和感など…、

あった…。買い物帰りに車で拾って貰った林中さんの様子がいつもと違っていたこと。夫を朝見送った記憶がどうしても思い出せないこと。私より時間を取りそうなほど、時間に厳しい夫が未だに帰ってきてないという事。いつも夫と一緒にうちへ来る繁さんが一人でうちに来た事。

今日は全然普通の一日なんかじゃない。だけどそれは私の周りの話。私自身は何も変わってなんかいない。過去に何百、何千と過ごしてきた毎日と同じように、今日を消費しただけ。私は何も変わってない。悪いことも、人の道を外れたようなことも何一つしていない。そう、こんなにも人に責められることはないはず。だったらどうして繁さんはここまで私を追い込むの?そしてどうして私は何も言い返せないの?繁さんの行動も私自身の動揺も私には理解できない。


「どうして二人分の料理が出てるんだってきいてるだろうがよ!!!」


 声のトーンも口調も豹変した繁さんがテーブルをどつきながら私をより一層睨む。

 私は恐怖で半分泣きながら、震える唇を少しだけ動かして、


「…だ、だって、あの人…夫が……」


 私はまだ言葉を続けようとしていたけど、気付いた時には繁さんに腕をつかまれて、強く引っ張られていた。両手に掴んでいたシチューのお皿は大きな音を立て、フローリングの床を白く染める。


「いや、離して!」

「こっちに来るんだ!」


 必死にもがいても年下の若い男性から逃げられる力なんてあるわけないと自分でもわかっていながら、私は必死にあがいた。締め切られたふすまを繁さんが乱暴にこじ開ける。繁さんは私の手をつかんだままその部屋に入っていく。私はその部屋の中央で投げ飛ばされた。私は両手で受け身を取って、たった今私を投げ飛ばした繁さんを精いっぱいの眼力で睨んだ。繁さんは全く動じずに、冷たい目で私を見下ろして、


「あんたが見るのは俺じゃない。そこの兄さんだ。」


 と言って、あごで私の見るべき方向を最示した。繁さんの言っていることがよくわからないまま私は顔を反対側に向ける。そこには私の夫がいた。正しくは夫の遺骨が入った箱と、夫の遺影が仏壇に飾られていた。見たくなかった。私の記憶はこの瞬間を待っていたかのように私にすべてを思い出させた。

つい二週間前、マンション火災の救助に失敗して私の夫は命を落とした。新聞に書いてあった記事には、私の夫はその日派遣された消防隊の中で一番階級が高かったため、部屋に逃げ遅れた人を救出するか否かの選択権を持っていた。現場は一刻を争い、即座に判断を迫られる。結局、救助には向かわず退避することになり小隊はもと来た道を戻ったらしい。ところが火の手が及ばないところまで小隊が差し掛かったところで、隊員の一人が一番後ろを歩いていたはずの私の夫がいないことに気付く。その数秒後、マンションの一室が爆ぜた。それは火災の現場で起きる爆発現象、バックドラフトというらしい。それに巻き込まれた私の夫は焼死体となって発見された。部屋の中には他に老人の女性がなくなっていたらしい。

私はその日の新聞より早くその事実を知った。夫が24時間勤務で帰ってこない日だったのでその日は11時には寝ていた。非常識ともいえる時間にインターホンが鳴ったのもその日だった。私が玄関に出ると、いつもより一人少ない小隊が副隊長を先頭に並んでいた。この状況が何を意味するのかは分かっていた。わかっていたけど、そんなものはドラマのワンシーンでしか存在しないと思っていた。夫が常に死と隣り合わせの職業という事はわかっていた、つもりだったのかもしれない。副隊長が頭を下げるのを皮切りに後ろの隊員たちも頭を下げる。その後の私の記憶は断片的なものでしか思い出せない。

葬式のあと、夫が最も慕っていた部下が私こんな話をした。私の夫は若い時、今回の事件のように取り残された人を助けるか否かの判断を迫られる事態に遭遇していたらしい。その時も退避の判断が下されていた。私の夫は強く反対したが、まだ若く、経験が浅くて、立場の低い夫では勝手な行動も許されず上からの命令に従うしかなかったという。後日、ニュースで遺族が泣きながらインタビューに答えるシーンを見て、人の命が守れずに消防士を気取る自分が恥ずかしくなったと、次もし同じ場面が来たら俺は死んでも助けに行く。と夫はその部下に言っていたそうだ。私はそれを聞いて泣いた。死んでも助けに行って、本当に死んだ。私を残して…。いったいどれほど泣いただろう。ふと我に返った時、私はいつもと変わらない生活をしていた。その時もさっきみたいに遺影を見てすべて思い出した。その日もさっきみたいに一人家で二人前の料理を作って待っていた。そんなことを夫が死んでから何回繰り返しただろう。自然に仏間には入らないようになった。周りのママ友の前でどれほど夫が死んでないかのように振る舞っていただろう。あの事件から、私だけ今までと何も変わらなかった。私だけ取り巻く環境の変化を受け入れられなかった。夫が死んだという都合の悪い記憶だけ欠如している私は、傍から見れば一人異空間。もうこんなことは止めよう。毎晩そう思って目を閉じて、眠りにつく。だけど、次の日の朝には夫のいた日々の私になっている。専業主婦で、夫が帰って来るまでに何としてもご飯とお風呂の準備を万全にしておくことに誇りとプロ意識を感じていた馬鹿な私。靴ひもごときでエコバックを取りにいかなかったおかげで帰り道に後悔する馬鹿な私。夫が死ぬ前の私を毎日無理やり演じていた馬鹿な私。だけどそれも今日で終わりそう…。私は遺影の中の夫と目を合わせた。涙をこらえながら、


「ごめんなさい。私の中でもちゃんとあなたを殺さないとダメよね。もう料理も作らないわ。」


 遺影の中の夫の口角が少しだけ上がった気がした。


 繁さんは今、リビングのカーテンを少しだけ開けて外の景色を眺めてみている。今日はもう帰るらしい。そりゃそうだ。今の今まで病んでいた、病み上がりたてホヤホヤの四十路の未亡人なんかと二人きりでディナーを楽しもうなんて考える独身男性とかいないわよね。でもね、私がよく見るような昼ドラだったらそうやって気のある素振りなんておくびにも出してなかった年下の男の子が、息の詰まりそうな主人公の前に現れるんだけど…え?ついていけない?私キモい?あ、じゃ今のも無し。とにかく、繁さんはもう帰るらしいから、玄関まで送り届けようと思うんだけど、さっきから繁さん何やらリビングの中をせわしなく歩き回って一体どうしたのかしら。


「繁さん。そろそろ…」

「ああ、ごめんね。姉さん。もう帰るよ。」


 繁さんは私の言葉を遮るように食い気味で会話を返してくる。怒っていると感じ取れなくもない微妙なリアクションだ。決めた。もうあんまり話しかけない。二人で直列になって並んで玄関に向かう。その間私は中学校の理科で習った直列繋ぎの回路図を思い浮かべていた。今の私に効果音を付けるなら、ぽわわーん。が最も適当だと思われる。そんなしょうもないことを考えていると玄関に着いた。


「また来るよ。姉さんがまたピンチの時に俺はすぐ駆けつけるよ。」

「買い物帰りの荷物が多い時なんかは特にピンチだわ。」

「そういう危険度の低いピンチには現れません。」

「正義のヒーローも所詮はそんなものよね。」


 内心私は安心していた。最後に気まずい雰囲気で別れたくなかったからだ。一気に全身が軽くなった。


「ではまた。」


 繁さんは私に背中を向けたまま、振り返らずに右手だけ挙げて玄関を出ていく。私は微笑んで繁さんの背中に手を振り続けた。スローモーションほどのスピードでゆっくりと玄関戸が閉まっていく。

 ガシャン!

 玄関戸が完全に締まりきる。それが合図だったかのように一気に静寂が漂う。もう笑顔はいらない。私は改めて仏間に足を運ぶ。夫の遺影を手に取る。さっき笑って見えた遺影が今度は悲しそうな顔に見える。まるで私の考えに反感の念を抱いているようにも見える。


「そんな顔したって駄目よ。もう決めたんだから。」


 私は遺影を隣の部屋のテーブルの上に置いた。


「あなたは私の中で生きたままにしておきたいの。…そのせいで私と周りの間にギャップが生じるなら、私が死ねばいいだけの話。そこで見てて。」


 私はタンスの引き出しの中からいつも新聞を束ねる時に使う白い紐を取り出す。首を吊ろう。一般家庭でできる死に方はそれくらいしかないと思う。包丁で死ぬ勇気はない。私は部屋を見渡す。もう何十年とこの部屋のこの景色を見た。私は夜カーテンをしっかり閉める癖みたいなものがあるから、今カーテンが少しだけ開いているのが少し気に食わないが、そんなことはどうでもいい。なにかひもが結べるようなところがないだろうかと探した。この部屋の自殺環境は整っていた。このリビングは構造的に部屋の中に太い丸太がむき出しの状態で通っている。あれにそんな使い方があったとは。洗濯物も丸太が太すぎてハンガーが使えずに、タオルくらいしか干せなくて使えないなと思っていたあの丸太。最後の最後に、いい仕事してくれるわ。テーブルの椅子を移動させて、丸太の下まで行く。丸太に糸を通す。ひもの結び方なんて知らないけど、何度も何度も交差させていたら、もう絶対解けないであろうといえるほど固く結べた。めちゃくちゃな結び方なので、結び目はいびつな形をしている。準備は整った。首の下にひもを通して、後は足元の椅子を蹴飛ばすだけ。とっとと椅子を蹴飛ばしてやろうとしたその時。

 カラカラカラ…

 少しだけカーテンが開いているのが気になっていた所の窓がひとりでに開いた。


「やめろぉ!」


 繁さんが出てきた。どうして鍵が…私は慌てて椅子を蹴飛ばした。しかし、Oの字に縛っただけのひもでは十分に顔を固定することはできず、私はあごにアッパーパンチを受けたような体勢で空中を自由落下した。足から地面に着地し、おしりと手をついた。痛いなんて言ってられない、早く自殺しなくては。希死念慮にとらわれた私は椅子を起こして再び自殺を試みたが、そこで繁さんに捕まった。


「離してっ!いや!離してよっ!」


 必死に振りほどこうとするが、男性の力に敵うはずもなく、すぐに椅子から降ろされる。


「嫌だ!ほっといてよ!死なせてよ!」

「お前…あれだけ言ってまだわからないのか!」


 私はそれからも力尽きるまで抵抗を続けた。





 ドラマはそこで徐々にフェードアウトしていき、コマーシャルに切り替わった。もう、このドラマを見るのは何回目だろう。フィクションものだと最後にことわりを入れているものの、そうは思えないのだ。どうしても、五年前に亡くなったあたしの夫を重ね合わせて見てしまう。

あたしの夫は警察官で、五年前のその日は銃をもって立て込んだ男を取り押さえる突撃班だった。ニュースや新聞だと、先頭で突撃していったあたしの夫が撃たれて死んだ。とだけ書いてあり、あたしもそこについては何の疑問も持たなかった。ただ残念だった。ショックだった。どうしてあたしの夫が?やり場のない怒りばかりが積みあがっていた。しかし、夫の葬儀の日に事件の日に同じ班にいた夫の部下である佐原さんからこんな話を聞いた。

 あの日、本当は自分が先頭に立って突撃する指示が出ていた。だけど、直前にあたしの夫から直々に先頭を変わるように命令されたらしい。上司の命令は基本的には絶対であるが、一度だけ佐原さんは反対したという。だけど、あたしの夫は静かに首を横に振り、それ以上は何も言わずただひたすらドアの前で突撃命令を待っていたらしい。そして、例の事件が起こった。あたしはどうして佐原さんに先頭を譲るように命令したのかが、いまいちピンと来なかった。それが警察という組織の中においては名誉なことなのだろうか?と佐原さんに聞いてみるが、どうもそうではないようだ。佐原さんは物凄くきまり悪そうにこう続けた。その日の朝、まだ事件が起こっていない頃。佐原さんはあたしの夫が出勤すると一目散に駆け寄って、昨日の夜、妻が妊娠していたということを告げた。夫はそのことをとても喜んでいたという。少し話した後、佐原さんは夫にこう聞いたという。


「先輩は子供つくらないんですか?」


 夫は苦そうな顔をして、でも笑いながらこう答えた。


「その夢は去年、諦めたよ。」


 そう、あたしは若くして卵巣がんにかかりそのほとんどを手術によって摘出され、子供の産めない身体になっていた。結婚する前にあたしが、子供は何人欲しい?と聞くと夫は、三人以上。と答えた。その時は大変になるぞ。と思ったが、結局一人も産むことはなかった。

 その事実を佐原さんは夫の葬儀が終わってから一週間後、あたしの家のベッドの上で知ることになる。こんなことするつもりはなかった。あたしは永遠の存在となった夫の愛でこれから生きていくべきなのだと、頭ではわかっていた。しかし、あたしの理性はそんな掴みどころのない空気のような愛ではなく、しっかりと形ある固形の愛を求めた。求められる愛に飢えていた。まだ二十代で愛情の意味なんて分かってないあたしはとにかく愛されることで平常を保っていた。佐原さんは頻繁にあたしの家に来るようになった。避妊をしなくても子供が生まれないあたしの身体は物凄く都合がいいのだろう。それでも求められているだけあたしは幸せ者だと思えた。ほどなくして佐原さんの妻が子供を産んだ。佐原さんの妻は看護師で最初のうちは産休がもらえていたらしいが、子供が幼稚園に行き始めると、途端に産休が貰えなくなったらしい。二人とも仕事が忙しく、両方が24時間勤務になることも多々あるようだ。


「だから、僕の息子の面倒を見てほしい。要は、うちの家政婦をしてほしい。」


 佐原さんがそんなことを言ったのは、それもあたしの家のベッドの上だ。


「子供ができない君にこんなことを頼むのは非常識だという事はバカな私でもわかる。だけど、私の息子は先輩がいたから私に会えた偏った愛情で育つことなくここまでこれた。両親ともに仕事が忙しくて、家政婦を雇うことはもう決めているんだ。それなら私は君に育ててほしい。君に、私の息子を、君の旦那さんで、私の先輩みたいな、強くて、優しくて、かっこいい男に、育ててほしい。」


 うまく丸め込まれているとも感じたが、求められる愛情の甘美さを一度知ってしまうと断ち切ることが出来なくなってしまう。そうしてあたしはは佐原家の家政婦をすることになりなった。昼間はこうして録画しておいたドラマを見ながら家の家事をする。夕方になると買い物に出かけて帰りに幼稚園で佐原さんの息子を拾って帰る。晩ごはんを二人で食べて、佐原さんか妻が帰ってくれば私も元の家へ帰宅。帰ってこない日はそのまま泊まる。そんな日々を毎日飽きずに繰り返している。毎日飽きずに繰り返すことが出来るのは年々佐原さんと妻の間が冷めていってるからだ。佐原さんはじきに離婚してあたしと一緒になるともう決めているらしく、息子も本当のお母さんよりあたしの方に断然なついている。親権問題がどうなるかはわからないが、子供なんてどうでもよかった。あたしにとっては佐原さんと妻の関係が終わってしまえばそれでいい。


二人の仲はあたしにとって、さめるほどにおいしい。とってもおいしい。


あなた、ごめんなさいね。あなたが死と引き換えに守り通した二人の夫婦と子供の仲を引き裂くような真似をして。あなたが生きていたら、今のあたしを許してくれるかしら?許すわけないわよね。我ながら思うわ、薄情な女だって。卑怯な女だって。でも、あなたが先に死んだからこうなったのよ。少しはあなたにも責任はあるわ。だから、私が死んだらせめてお迎えには来てね。一人で三途の川は渡れないわ。お願いね。


 ヒョロッポーヒョロッポーッ…


 壁にかかってある時計から木彫りの鳩が一時間ぶりに出てきて元気に鳴いている。まるで一時間鳴けなかったストレスを発散するかのように。そろそろ買い物に行こうか。今日は何を作ろう…。そうね、ドラマでシチュー見たから、シチューが食べたくなったな。よし、あたしもシチューを作ろう。おもむろに立ち上がり、力いっぱい背伸びした。壁にかけてあるポシェットを手に取り、玄関へ向かう。最近買った流行りの穴だらけスリッパをさっと履く。


「いってきまぁ~すっ。」


 誰もいないはずの家の中を振り返り、玄関を出る。しっかりと鍵をかけて、スリッパをシタシタ鳴らして買い物に出かける。この時あたしはまだ気づいていない。さっきまで見ていたドラマの主人公のように、エコバックを忘れていることに…


                                  

 了


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