第47-1話 失恋で女は強くなる、だがそれが正しい強さとは限らない。
神薙玲於奈の細いうなじを、水滴が伝う。
「くっ……」
眼前には、圧倒的な存在感を漂わせる強敵の姿。
彼我の戦力差は絶望的だ。
玲於奈がAA。
相手はD、いいやE、もしかするとFかもしれない。
アニメやゲームに慣れ親しんだ人間なら、AAのほうが強く感じられるだろう。
しかし世の中にはAが底辺という“ものさし”も存在する。
そう。
胸のカップである。
「ナマで見ると迫力が違いますね……ゴクリ」
「玲於奈ちゃん。視線がなんだか怖いよ……?」
芳人が鴉城家の屋敷に向かってすぐのこと。
ようやく目を覚ました静玖を連れ、玲於奈は旅館の露天風呂に入っていた。
他に入浴者の姿はない。
うららかな春の日差しの中、穏やかに時間が流れる。
「気のせいですよ静ぽん。失恋で寂しくなってる今なら濃厚なれおしず展開に持っていけるんじゃないかなーとか、れおしずの最初と最後の文字だけ抜き出したらもはや百合どころじゃねーやとか、そんな妄想に胸を膨らませていただけですから。……ああ、今のは捨て身のジョークです」
自分と静玖の、主に上半身を見比べる玲於奈。
「せっかくの温泉ですし、熱膨張でもしてくれないでしょうか。『熱膨張って知ってるか?』『残念だったな、ゼロに何を掛けてもゼロなんだよ』。どうですこの小粋な一人芝居。笑ってください。笑えよ」
「玲於奈ちゃんはもう少し自分を大切にしたほうがいいんじゃない、かな……」
「RE:ゼロから始まらない無乳生活。ちなみにこの『RE』はホープレスのレです」
「それなら『LE』だよ」
「……ふぅ」
玲於奈は「やれやれ」といった雰囲気で息を吐いた。
「ツッコミができる程度の元気は残っているみたいですね、安心しました。……ちなみにホープレスのレがLEなのは知っています。ええ知っていますとも」
と言いつつも静玖から視線を外しているあたり、本気で勘違いしていたのかもしれない。
「そんなことより女子会しましょう、女子会。話題はもちろん昨日の件で。ちなみに公園での告白シーンは把握してますから隠しても無駄です。とりあえず今の心境なんか語っちゃってください」
「心境って……今はまだ、なんだかふわふわしてる感じ、かな……」
「なるほど、まだ現実を受け止めきれないと」
「ううん、ちゃんと理解してるよ。芳人さまはわたしを不幸にしないために断ってくれたんだよね。……嬉しいなぁ」
はぁ、と熱のこもった吐息を漏らす静玖。
一方で玲於奈はというと、
「…………は?」
予想外の反応に戸惑っていた。――なんですかこれ。失恋でしょんぼりしてるかと思いきや、どうしてこんな幸せそうな表情を浮かべてやがるんですかこの乳おばけ。変どころの騒ぎじゃありません、大変というかむしろ地獄変ですよ。
「だって好きな人が自分を気遣ってわざわざ泥を被ってくれたんだよ? 女の子としてこんなに幸せなことはないよね」
「落ち着いてください、静ぽん。振られて好感度が爆上がりとか意味不明すぎます」
「『AmantesAmentes.』だよ、玲於奈ちゃん」
「ラテン語の格言とはなかなかの教養ですね……と褒めてあげたいところですが、どうせまたアニメやゲームのパクりでしょう。その引用能力だけは認めておくとして、静ぽん、あなたはもっと常識寄りのキャラだったはずです。上っ面だけの中二病、一般人の前では委縮してしまう内弁慶。あの半端者っぷりはどこに行ったんですか」
「玲於奈ちゃん、わたしのことそんな風に思ってたんだ……」
苦笑しつつ、湯船を掬って顔を洗う静玖。
「でもまあ、お互い全肯定なトモダチ関係なんて気持ち悪いもんね。うん、いいと思うよ」
「たった一晩で別人のように静ぽんが余裕を見せ始めた件について。
どういうことですか。どうなってるんですか。芳くんと一緒に大人の階段を登っちゃったんですか」
「違うよ、気持ちの整理がついただけ。確かにわたしって中途半端だったよね。芳人さまの前でMっぽく振る舞ってたのだって、気を惹くための演技が半分、キャラ付けが半分だったし」
でもね。
静玖は、やけに陶然とした笑みを浮かべて続ける。
「昨日のデートで分かったの。そういう理由付けはぜんぶ照れ隠しで、わたし、芳人さまに滅茶苦茶にされたいんだなあ、って」
……。
玲於奈は己の観察力について深く反省していた。――静ぽんはどうにも常識だの世間体だのに囚われていて、そこから解放されれば面白いことになる。ええ、私はずっとそう思っていました。思っていましたよ。けれど見立てが甘々でした。まさかここまで豹変するだなんて、甘々と稲妻がアマゾンとイナズマンになるくらいの変わりようじゃないですか。どっちも目に優しくない色合いのヒーローですね。ちなみに静玖の胸部は私の心に優しくないです。
「ねえ玲於奈ちゃん、芳人さまってすごく不器用だよね?」
「まあ、それは否定しません」
容赦のないフリをしながら、最後の一線では他人を見捨てきれない。
困難に直面すると、我が身を切るような解決策を真っ先に選んでしまう。
強大な力を持つゆえに分かりにくくなっているが、それが伊城木芳人の本質――と玲於奈は思っている。
「そういうところ、すごく可愛いな、って思うの」
「…………静玖は母性に溢れていますね」
とても気を遣った表現で感想を口にする玲於奈。
その唇は何か言いたげにもごもごと蠢いている。
「わたしはね、芳人さまの捌け口になってあげたいの。辛いとか悲しいとか苛々するとか悶々するとか、そういう感情を全部受け止めてあげたいの。年の差があるから恋人にはなれないけど、年の差があるからお姉ちゃんとかお母さんみたいな存在にはなれるかな、って」
「……まあ、そうかもしれません」
玲於奈はしばし考える。――さすがにこれは手遅れです、手の施しようがありません。ノータッチでフィニッシュされてしまいました。神殺しの神薙を退けるなんて、人間の可能性は無限大ですね。負の方向ですが。――もうこうなったら仕方ありません、気持ちを切り替えます。そもそも誰かのフォローなんて私には合わない仕事だったんです。――このまま静ぽんをけしかけて地獄絵図を楽しむとしましょう。好き放題やらかせばいずれ落ち着くかもしれませんし。あ、別に落ち着かなくてもいいです。私が楽しいので。
つまりは「エンジョイ&エキサイティング!」である。
「ともあれ静ぽんの気持ちは分かりました。ええ、分かりました。ならばこの神薙玲於奈、あなたの親友として尽力しましょう」
「ありがとう、でも玲於奈ちゃんも芳人さまのことが好きなんだよね?」
「世の中にはいろいろな『好き』があります。私のそれは、静ぽんとは質がまったく異なるので安心してください。……まあ、その話は今度にしましょう。お腹も空きましたし、そろそろ出ませんか?」
「ふーん」
「なんですか、静ぽん」
「ううん、玲於奈ちゃんってわりと自分のことは語りたがらないよね。実はけっこう恥ずかしがり屋なのかなー、って」
2人は露天風呂から戻ると、着替えて旅館の外に出た。
時刻は午前12時を回っており、外で昼食を摂ろう、という話になったのだ。
玲於奈の服装は、ゆったりめのカーゴパンツにデニムの薄いジャケット
内側にはTシャツを着ているのだが、
「玲於奈ちゃん、それ、すごい絵柄だね……」
「どうです、センスに溢れているでしょう」
プリントされているのは、猫。
勇ましく仁王立ちし、両手から稲妻を放つ。
そのインパクトは絶大であり、街行く人々の注目を集めていた。
「みんな私の胸ばかり見て失礼ですね。スタイルがいいとこういう時に困ります。そう思いませんか、静ぽん」
「れ、玲於奈ちゃんの言う通りと思うよ……」
「なぜ目を逸らすのですか。まあ現実から目を逸らしているのは私ですね、虚しくなってきました」
自分からネタを振っておいて、自分で落ち込む玲於奈。
「それにしても静ぽん、今日はずいぶんと大人しめの格好じゃないですか。まるで普通のミストルティンですよ」
「えっ?」
静玖は首を傾げて考え込む。
その出で立ちは白いレースのワンピースに、赤いリボンのサンダル。
玲於奈がボーイッシュな恰好をしていることもあってか、遠目にはカップルのように見えなくない。
「それってもしかしてミドルティーンのこと?」
「失礼、言い間違えました。ところでミストルティンといえばヤドリギのことですが、私は初代ポケモ○でフシギダネを選びました。最初の街ですぐに逃がしています。恵んでもらったポケモンで天下を取っても虚しいだけですし。……おっと、静ぽん、電話が震えてますよ」
「あ、ほんとだ」
静玖は手持ちのボストンバッグを開け、中からスマートフォンを取り出した。
画面には『鳩羽兵衛』と表示されている。
フリーランスの退魔師で、静玖にとっては知らない相手ではない。
「もしもし、相鳥です。なにかありましたか?」
「――おまえさん、いま何処だ?」
電話越しの声だが、兵衛はどこか切羽詰まったような雰囲気だった。
「芳人のヤツは近くにいるか? いないんなら気をつけろ。神薙んとこの真姫奈ってのがろくでなしを集めて何かおっぱじめようとしてやがる。どうやらおまえ……を拉致……くそっ、電…妨害の……――」
音声は途中からひどく乱れ、途中からまったく聞こえなくなった。
事態が急変したのは、その直後である。




