第95話 勇者の条件
最後の瞬間。
伊城木月は、呪詛の断末魔を発した。
伊城木直樹に蹂躙された身体。凌辱の記憶。
こんなものを抱えたまま死なねばならないのか。
嫌だ。
絶対に受け入れるものか。
世界が私を不幸にするのなら、世界すべてが不幸になれ。
のろわれてあれ。
のろわれてあれ。
のろわれてあれ。
輝くものも、
穢れたものも、
ひとつ残さず滅びるがいい。
彼女の絶叫は呼び水となった。
本来なら十数年後に起こるはずの事象――《泡》の襲来。
いま、滅びが始まろうとしていた。
* *
俺は大きく息を吸い込んだ。
「ヨシト、何をするつもりだ」
ミーアが俺の両肩を掴む。
「細かいことは分からんが、また、一人で行くつもりだろう」
「……女のカンって、怖いな」
《泡》はまだこちらの次元に侵入できていない。
“次元のはざま”というべき場所に留まっている。
今すぐ迎撃に向かえば、被害は最小限に抑えられるだろう。
問題は、そこに到達できるのは超高位の神格のみということ。
綾乃と融合したミーアでも、アルカパでも無理だろう。
せいぜい、俺だけだ。
他のみんなは置き去りにするしかない。
「困難を、俺ひとりに押し付けない。……ミーアがそう言ってくれて、嬉しかったよ」
胸がじんわりと温かい。
自分が孤独ではないと、心の底から信じられる。
「でも、やっぱり、これは俺にしかできないことだから」
確かに、《泡》をこちらの次元で待ち受ける、という選択肢はある。
その場合はミーアたちも一緒に戦えるだろう。
けれど、おそらく、被害が出てしまう。
俺たちの誰かが命を落とすどころじゃなく、数十億人が発狂するとか、そういうレベルの話だ。
身内だけが無事ならそれでいい、とか。
見ず知らずの誰かなんて知ったことじゃない、とか。
どうにも俺は、そういう考え方ができないらしい。
子供のころに好きだったテレビ番組。
90年代あたりの、ヒーローらしいヒーロー。
彼らの姿がずっとこの目に焼き付いているから、己もそうありたいと思うから――
「ちょっと世界を救ってくる。前にちょっと勇者を齧ってたこともあるし、ま、楽勝だよ」
せめてもの強がりを口にして、深呼吸。
「ヨシト! どうしておまえは――」
ひとりで行ってしまうのか。
無茶をするのか。
ミーアが言おうとしたのは、そのあたりだろう。
残念なことに最後まで聞き取ることはできなかった。
浮遊感。
時間と空間を歪めて、次元の“外”へと抜け出す。
そのあいだの感覚は、なんとも言葉にしがたいものだった。
トランポリンで跳ねながらジュースのミキサーにかけられている、といったところか。
やがて辿り着いたのは、白色の空間だった。
他には何もない。
俺と《泡》だけが浮かんでいる。
「大きいな……」
《泡》の全容は、人間としての視界じゃとらえきれない。
神格としての認識力が必要だった。
その直径は、およそ、銀河十数個分に相当する。
表面は紅色だ。
「 」
音のない咆哮が次元を揺らす。
どうやら俺に対して強い敵意を抱いているらしい。
月の敵討ちのつもりか、それとも、かつて終神に敗れたリベンジか。
いずれにせよ、平和的な解決はありえない。
「《権能:【時間】》――」
初手から全力で行く。
攻めて攻めて、反撃の暇すら与えずに滅ぼしてみせる。
「――《仮想終焉》・《時空崩解》」
* *
「ヨシト……」
ありとあらゆるものが蜃気楼に包まれていた。
鉄の焦げるような匂いが立ち込め、ふとした瞬間、重力が揺らぐ。
芳人と《泡》の激突。
戦いそのものは次元の“外”でなされているが、その余波はミーアのところまで届いていた。
「このまま、ただ、待っていろというのか?」
ギリ、と歯噛みする。
忸怩たる思いだった。
またも芳人だけを戦わせている――
そんな自分が、たまらなく、嫌だった。
「ミアミア、少し、いいですか」
そこに声を掛けてきたのは、玲於奈である。
「ちょっと今から芳くんの手助けに行こうと思うのですが、ご一緒にいかがですか?」
「……できるのか?」
「さあ? でもまあ、やればできるんじゃないですかね。私もミアミアも、一応、神様の力を持ってるわけですし」
「それはさすがに適当すぎやしなか」
「いやいや、芳くんだっていつも言っているでしょう。魔法はノリとテンションだ、って。幸い、神様としての先輩もここにいますし、ちょっとご意見を伺おうじゃありませんか」
玲於奈は少し離れたところに視線を向けた。
そこにはアルカパの姿があった。
鴉城朝輝の亡骸を抱いて、茫然と空を見上げている――
* *
戦況は思わしくなかった。
「芳人、どうして僕のことを見てくれないんだい?」
「そのくせ、いつも僕の視界をチラついて」
「ひとつになろう、君を愛してるんだ」
「近寄るな、お前なんかに出会わなければよかった」
《泡》の表面がブクブクと揺らぎ、そこから無数の人影が飛び出してくる。
伊城木直樹。
1人じゃない。
視界を埋め尽くすほどの、伊城木直樹。
その総数は、億の単位を越えている。
さらには、
「お慕いしています、従兄様」
「どうしてわたくしのことを救ってくれなかったのですか」
「毎日毎晩、義兄に貪られて、本当に苦しかったのに」
「それで“正義のヒーロー”などと名乗らないでください」
「でも、愛しています」
「従兄様に愛してもらえるような自分に生まれ変わりたいのです」
「きれいな身体と記憶で、抱いてほしいのです」
伊城木月、伊城木月、伊城木月――。
同じ顔がいくつもいくつも、並んでいる。
いずれも尋常ではない力を有していた。
なによりも多勢に無勢。
俺1人では捌ききれない。
今はまだなんとか互角の戦いに持ち込めているが、このままだと押し切られるのは明白だった。
* *
芳人のところに行く方法はないか。
未亜と玲於奈にそう尋ねられ、アルカパは、
「ないわけじゃ、ないよ」
目元の涙を拭うと、いつになく真摯な様子で問い掛けた。
「けど、すごく難しいよ。
失敗する可能性も高いし、仮に上手くいっても、二度と普通の暮らしには戻れないかもしれない。
それでも、いい?
覚悟はある?」




