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響拓斗くん(2)

 ぴとっ。


 冷たくて柔らかい何かが、突然鼻の頭に飛びついてきた。

 一瞬何が起こったのかわからなくて、三秒間ほど静止する。

すると鼻先でぬるりとした緑色の何かが動き、小さな水かきのついた手が眼前に広げられた。


「キャーーーー!!!!」


 絶叫とともに鼻先の『何か』を払いのける。明らかに、ツチノコではない『何か』だ。


「キャーーーー!! キャーーーーー!! キャーーーーーーーーーー!!!!!!」


 自分でもわけがわからないくらいの恐怖にひたすら絶叫を繰り返す。


 その絶叫を遮ってくる、響くんの大爆笑。


「あはははははははっ!! せ、先生っ!! まさか、ほんとに、し、信じるなんてっ!!」


 涙を流してお腹を抱えている響くんの悪戯に、私の方こそ涙がこぼれそうなんですけど……。


 すると、それまで黙って私たちを見守っていたエリオット先生がゆっくりと席を立った。

 床にかがんで私が払いのけたものを手に乗せると、右に左にと向きを変えて観察する。


「……アマガエルですか」


 それだけ呟くと、そっと窓から外に放してやる。それからポケットから白いハンカチを取り出して教室の隅にある水道で濡らすと、そっと私の鼻先に当てた。


「拭きなさい。アマガエルは、皮膚を覆う粘液に毒を含んでいることがあるんですよ」


 爽やかな笑顔で恐すぎることを教えられて、息を呑む。でも私以上に慌てたのは響くんだった。


「そんな!! 俺――そんなこと、全然知らなくて……っ」


「悪戯も良いですが、人を傷つける類のものは感心しませんね。意図せず相手を傷つける恐れもあるのですから、次からは周到に準備してからになさい。あなたも、よく手を洗った方が良いですよ」


 落ち着き払った声でそう言われ、響くんは水道には行かずに私の方へ向き直った。


「さくら先生、大丈夫!? ごめんなさい、俺、俺……まさか毒があったなんて本当に知らなくて――」


 可哀想なくらい狼狽している響くんに、謀られたことも忘れてつい同情してしまう。


「大丈夫よ。すぐに拭いたし、痛くもかゆくも無いから。響くんも、すぐに手を洗いなさい」


 優しく促すと、幾分落ち着いたのか、響くんはこくりと頷いて大人しく水道へ向かう。

 私は鼻先に当てた白いハンカチをおずおずと胸に抱いた。


「あの、エリオット先生、ありがとうございました。これ、洗ってお返ししますね」


 エリオット先生はにっこりと微笑んで承諾してくれる。

 ――でも、その微笑みには、冷たい色が混じっていた。


「星崎先生も、生徒の悪戯に容易に引っかかっているようでは、指導者としての威厳が損なわれますよ」


 響くんに聞こえないくらいの小声で叱責され、体を冷たい衝撃が走る。


「も、申し訳ありません……!」


 小声で謝ると、エリオット先生は「謝る必要はありませんよ」と返してくれた。でもその声には、やっぱりどこか冷えた響きが滲んでいて悲しくなる。


 呆れられてしまった――そのことが心に痛すぎて、ふいに涙が目端に滲んできてしまう。


 生徒もいるのに、こんな所で泣くわけにはいかない。

 ぐっと唇を噛んで堪えるものの、すぐに戻ってきた響くんに見つかってしまった。


「先生……! ごめんなさい……女の子だもん、嫌だったよね……。本当に――本当にごめんなさいっ!!」


 勢いよく頭を下げる響くんこそ泣きそうで、その姿を見ていたら私の涙など引っ込んでしまった。


「大丈夫だって言ったでしょう? ちょっとびっくりしただけだから、もう気にしないで。アマガエルに毒があるってことも学べたし、かえって勉強になったくらい」


 笑顔を見せても、響くんの顔に笑顔は戻らない。


「でも……」


 あんなに天真爛漫な響くんをこんな風に落ち込ませてしまうなんて、それこそ私の方が気落ちしてしまう。


どうしたら響くんに笑顔が戻るだろうか。彼の魅力は子供のような無邪気さとお日様のように明るい笑顔だ。そんな響くんから笑顔を奪ってしまうなんて、彼の指導官失格だ。

 響くんが喜びそうな事は何だろう……。わずかに思案して、私は「そうだ!」と声を上げた。


「ね、それなら今から一緒にツチノコを探しましょう!」


 我ながら良い案だと思ったのに、なぜか響くんは複雑そうに眉を寄せた。提案が嫌というよりも、意味がわからないという顔だ。


「先生……まさか、本当にツチノコがいるって信じてるの……?」


「え? だって、この世界には本当にいるかもしれないでしょう?」


 至極真面目に答えたのに、響くんと、なぜか隣に居たエリオット先生まで勢いよく吹き出した。


「え? ええ?」


 なぜ二人に笑われているのだろうか。


 困惑して助けを求めるようにエリオット先生に目を向けると、先生の銀色の瞳と目が合う。

 優しげに細められた瞳には、もう冷たい色は滲んでいなかった。


「……そうですね、もしかしたらどこかにいるのかもしれませんよ。なにせ誰もその存在を見たことがない、というだけのことですから。いないと決まったわけではありません」


 そう言って、堪えていた息を吐き出すように笑い声を漏らすと、エリオット先生は「まあ、頑張ってくださいね」と軽く手を振りながら教室の外に出て行った。


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