ヤミの覚醒(4)
そんなの、ちっとも簡単なことじゃない。
私だってこの世界のことはまだ良くわからないけれど、そう簡単にほいほい転生できるような仕組みじゃないということだけはわかる。
「俺はこの世界を離れるけど、さくら先生はここに残る。だからおかしいんだ。だから――先生も離れたら良い。俺と一緒に、俺のゲームへ行けば良い。そうしたらずっと一緒に居られるし、もう恐い目に遭うこともない」
ほら名案でしょ、とばかりに響くんは誇らしげに微笑んでみせる。あまりにも自信に満ち溢れているので、こっちの感覚がおかしい気がしてきて面食らう。
「そんなこと無理に決まってるでしょ。だ、だいたい、響くんの世界にはもうヒロインっていう相手役がいるのよ? それを無視するってことは、響くんは非攻略キャラクターになるってことなのよ!?」
「そんなの全然構わない!! 俺はさくら先生が良いんだ!! 他のヒロインになんて攻略されたくない!!」
「そんなふうに考えるのは間違ってる!! 響くんは攻略対象なんだから!! ヒロインに攻略されるのが響くんにとって一番幸せなのよ!!」
「なんでそんなこと他人が決めるんだよ!! 俺の気持ちなのに、俺自身の望みが間違ってるなんて、その方がずっとおかしいじゃないか!!」
「――なるほど。それがあなたの考えですか」
場違いなほど落ち着き払った声が聞こえてきて、私と響くんは身を硬くして声のした玄関の方を振り返った。
お互いに大声を出していたのでまったく気が付かなかった。
いつの間にか開け放たれていたドアの前に、銀色の髪を肩に垂らした長身の人物が立っていた。
「エリオット先生――!!」
エリオット先生の顔を見た途端に安堵感が体を包み、硬くなっていた全身に震えが起こる。自分でもよくわからない涙がこみ上げてきそうになって、顎に力を入れて歯を食いしばった。
つい数時間前まで指導所で顔を合わせていたというのに。もう何ヶ月も会っていなかったような懐かしい錯覚に陥って、駆け寄りたい衝動をぐっと堪える。
エリオット先生はそんな私の姿を見つけると、小さく眉を寄せた。でもそれはほんの一瞬で、すぐになだめるような優しい笑顔を向けてくれる。
それから今度は響くんに鋭い目を向けると、冷え切った声で言い放った。
「――収差性乖離障害因子――バグですね」
「………………バグ……?」
聞き慣れない部分は無視して理解できた単語だけをオウム返しする。
『しゅうさせいなんちゃら』って……確か指導官の研修期間中に聞いたことがある気がするけれど、意味がまったく思い出せない。
エリオット先生から『教えましたよ』という冷笑を向けられるけれど、笑って誤魔化すしかできない。
諦めた様子で嘆息してから、エリオット先生が説明してくれた。
「……たまに居るんですよ。攻略対象として存在しながら、その存在意義に疑問を抱く者が。発生の一因として、この世界に生じる避け得ない歪みが挙げられます。そもそも歪みの原因が――……」
エリオット先生の懐かしい講義に耳を傾けたいところだけれど、その長ったらしさ――否、細やかさと丁寧さは身を以てよく知っている。
「――待ってください! バグって――響くんは違います! ちゃんと攻略対象キャラクターとしてこの世界にやってきて――」
「――バグは、攻略対象にはなれません」
言葉尻に重ねられた声の容赦の無い響きに、思わず息を呑む。
冷静なエリオット先生の声は、恐いくらいに躊躇いが無い。
「それじゃ、響くんは非攻略対象に――」
「――いいえ」
言葉の途中で、エリオット先生は首を振った。
「非攻略対象にもなれません」
告げられた事実に愕然とする。
「じゃ、じゃあ響くんはどうなるんですか……?」
震える声で尋ねてみれば、返ってきたのは実に簡潔な答えだった。
「消します――今、ここで」
エリオット先生の言っている言葉の意味が理解できなくて眉をしかめる。
それも束の間、次の瞬間響くんの方へ向かって歩き出したエリオット先生の腕に慌てて縋り付く。
「や、やめてください!! エリオット先生!!」
「何故止めるのですか……?」
振り向いたエリオット先生の瞳は冷然として、そこには情けの影すら見えない。
心底不思議そうに首を傾げた端整な顔は、仮初の笑みさえ形作っていなかった。
初めて向けられたエリオット先生の恐ろしい表情に、思わず怯みそうになるけれど。
その背中の向こうで不安そうな顔のまま立ちつくしている教え子の姿を視界に捉え、萎みかけた勇気を無理やり奮い起こす。
「エリオット先生は間違ってます!! 響くんを消すだなんて……っ!!」
「ヒロインに攻略されることを望まない者が乙女ゲームの攻略対象になるなど、その方がよほど間違っていると思いますが?」
「そ、それは――」
取り付く島も無い。エリオット先生の迷いのない瞳は、私の中途半端な勇気を容赦なく凍りつかせてしまう。
エリオット先生は私がそれ以上何も言わないと見て取ると、今度は響くんへ視線を向けた。
「――あなたも。望まない者に攻略されるくらいなら、愛する人の居るこの世界で消えてしまった方が幸せでしょう」
「消える……この世界で……?」
呆然と言葉を繰り返す響くんの表情は、そのことを恐れているようにも嫌がっているようにも見えなかった。
むしろ、突きつけられた選択肢にどこか心安らいでさえいるように見えて、どうしようもなく不安になる。
「響くん、そんなの絶対に駄目だよ!! 消えるなんて、そうしたら響くんはどこにも居なかったことになっちゃうんだよ!?」
「それのどこが違うの? だって俺、どうせこの世界から消えるんでしょ? 全部忘れて、違う世界で別の人間みたいに生きて、好きな人も他人に勝手に決められて、他の人を想うことさえ許されないんでしょ?」
「……やはり、間違いないですね」
再確認したようにぼそりと呟いたエリオット先生。その低く張り詰めた口調に、一層不安が搔き立てられる。
エリオット先生の視線の先にある、迷うことさえ諦めたような瞳。あんなに活き活きと輝いていた金色の瞳が、今は枯葉みたいに沈んでいる。
いつも楽しそうに私をからかいながら授業を受けていた響くん。
頬杖をつきながら、行動学が全然理解できないと愚痴をこぼしていた響くん。
蛙を鼻にくっつけられたこともあったし、ふざけてキスしようとして困らされたことだってあった。
楽しいことも心配させられることも同じくらいたくさんあったけれど、響くんは一生懸命この世界での時間を過ごしていた。
いつか忘れると解っていても――だからこそ、目の前にある時間を、感情を、尊く思いながら共有してきたつもりだった。
――そのすべてが、無かったことになってしまうなんて。
響くんが良いと言っても、私はそんなの、絶対に嫌だ。
「――要するに、攻略対象としての自覚を取り戻せばいいんですよね?」
啖呵を切って、押し退けるようにしてエリオット先生の前に進み出る。
エリオット先生のことは尊敬しているし、先生が言うことはいつも正しいということはよく知っている。
だけど、教え子をバグ扱いされた上、目の前で消されるのをただ見ているだけなんて、私には到底承服できそうにない。




