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ヤミの覚醒(3)

「水着――恐かったよね。さくら先生、あのとき震えてたもん。でも、ここにいればもう安心だよ。俺の知らないところで先生が恐い思いをすることなんかないから」


 ふわりと向けられる、綿菓子みたいに甘くて優しい笑顔。こんな状況じゃなかったら、なんて癒し系なんだろうとときめいてしまったに違いない。


「響くん、こんなことは止めよう? 響くんが私のことを心配してくれる気持ちは嬉しいけど、私はこんな風に響くんに守ってもらわなくても大丈夫だから」


「大丈夫じゃないよ。俺が居ない所で、さくら先生はたくさん恐い目に遭ってきたでしょ? これから先、もしも俺が居なくなったらって思うと、俺、心配でたまらないんだ」


「響くんの目から見たら頼りないかもしれないけど、私もう、いい年した大人だよ? 自分の身は自分で守るし、それにどうしても助けが必要なときにはエリオット先生だって傍に――」


 そう言いかけた途端、さっきまであんなに穏やかだった響くんの表情が刃物のような鋭いものに豹変する。


「だからさくら先生は何もわかってないって言うんだよ……っ!!」


 投げつけられた怒声に、思わず怯んで肩が跳ねる。それを見て響くんははっとした様子で声のトーンを和らげた。


「――とにかく。ここが一番安全なんだよ。外にはあいつがいて、いつ先生を毒牙にかけるかわからないんだから。俺がゲームの世界に行ったら、あいつが先生のことを滅茶苦茶にしてしまう。薄汚い手で先生の肌に触れ、卑怯な手を使って先生の心に無理やり踏み入ってくるんだ。そんなこと絶対に許さない。そんなこと――絶対にさせない」


 こんな不穏な表情で不吉な予告を聞かされれば、嫌でも不安が湧きあがってくる。


「『あいつ』って、一体誰のことを言っているの……?」


「……全部ぶちまけてやりたいけど。俺、さくら先生が悲しむ顔なんて見たくない。真実を知って先生が傷付くなら、俺はそんなことしたくない――」


 響くんは答えを拒否するみたいに俯いてしまった。口の中でもごもごと何か言っているようだけれど、私の居るところまでは声が届かなくて、内容は聞き取れない。


 ――もしかして今がチャンスじゃない!?


 私は俯く響くんの目を盗んで、手錠が繋がれているベッドの脚を背中に隠す。こうすれば、響くんの立っている場所からは死角になるはずだ。

 自由になる左手を背後にまわして、ベッドの脚を持ち上げる。予想よりずっと重たかったけれど、ほんの少しだったら何とか浮かせることが出来た。生まれたベッド脚と床の隙間から、音をたてないように手錠を引き抜く。


 響くんとは反対にあるベランダにそっと視線を向ける。黒いカーテンが掛けられていて外は見えないけれど、確かこの部屋は二階にあったはずだ。飛び降りたら骨折くらいはしてしまうかもしれないけれど、その程度の怪我なら、あとで階段から落ちたとか何とか言い訳すれば通じないこともない。


 響くんに気付かれないようにと緊張していたせいで、全力疾走したときみたいに心臓がばくばくと鳴って騒がしい。

 騒ぐ心臓を落ち着かせようと静かに息を吸いこんでから、勢いよく立ち上がるとベランダを隔てる窓に向かって転げるように駆け出した。


 響くんが「あっ」と小さく声を漏らしたのが聞こえたけれど、響くんから私までの距離より、私から窓までの距離の方が断然短い。


 そう考えていたのに、予想よりもずっと速いスピードで追ってきた響くんの大きな手が、私の背中に伸びる。


 捕まるより早く、窓に手を掛けて横にスライドしようとしたら、がたんという硬い音がして無情な感触がそれを阻んだ。


(開かない――鍵が掛かってる!?)


 よく考えてみれば、私を監禁しようとしていたんだから鍵くらいかけていて当然だ。

 自分の浅はかさを後悔している余裕もなく、鍵を開けようと焦りで震える手を伸ばす。


 私は窓を開けることに夢中で気が付かなかった。さっきまですぐ後ろに迫っていた響くんの姿が、いつのまにか離れていたことに。


「――さくら先生」


 小さく呼ぶ声が聞こえたと思ったら、次の瞬間、けたたましい音をたててガラスケースが砕かれた。


 激しく飛び散る透明な破片の上に、赤い鮮血がぽたりと落ちる。


「さくら先生、行かないで……」


 泣きそうな声でそう言った響くんの右肘から先が、割れたガラスケースを突き抜けて真っ赤に染まっている。


「ひ――響くん――!!!!」


 悲鳴みたいな声を上げて響くんのもとに駆け寄ろうとすると、鋭い声が返ってきた。


「駄目!! 危ないから先生は来ないで!!」


 その言葉に立ち止まり、床に目を落とす。響くんの足元を、飛び散ったガラスの欠片が埋め尽くしている。


 一旦玄関に行き、靴を履いて室内に戻る。

 床が汚れてしまうけれど、今はそんなこと気にしている場合じゃない。


 部屋に入った瞬間、鼻をつく血液の匂い。

 靴の下でガラスの割れる小さな音を聞きながら、響くんに歩み寄る。

 指の関節の辺りから流れ出している血液が滴り落ち、儚い音をたてながら床に赤い染みを増やしていく。


「すぐに止血しないと……」


 こういうときはまずどうするのが正解だったかと、パニック状態の頭で必死に指導官向けに行われた応急処置の実習内容を思い出す。


 とりあえず患部は心臓より高い位置に上げて……と、見るからに痛々しい響くんの腕に触れれば、うろたえている私とは対照的に、響くんの顔にはほっと安堵の色が滲んだ。


「良かった……さくら先生、戻ってきてくれた。先生は優しいから、絶対俺のこと見捨てたりしないって信じてたよ……」


 蕩けるような笑顔を向けてくれるけれど、今の私にはそれに見惚れる余裕も恐怖を抱く余裕もない。


 こうなってはもう逃げるどころじゃない。

 私が脱出を諦めたと悟ったのか、響くんは応急処置をする私の手元を嬉しそうに眺めている。


 素直に表される喜びに、つい毒気を抜かれてしまう。

 相変わらず室内の空気は張り詰めているのに、のんびり屋上でお弁当を広げているみたいなのどかな空気が響くんから滲み出ているのだ。


 幸い出血のわりに傷は深くなかった。傷口を洗い、きつめに包帯を巻いてしっかりと止血する。


 とはいえ、ちゃんと医師に見せた方が良い。この状況でどうやって病院に連れて行こうかと思案しながら包帯の端をきゅっと結ぶと、響くんの口から小さな呻き声が漏れた。


「ごめんね、痛かった!?」


 慌てて謝ると、響くんはゆるゆると首を振った。


「全然。こんな痛み、俺が先生に与えた恐怖に比べたら優しいくらいだよ」


 どこか寂しそうな笑顔で響くんは笑った。望み通りに私を引き留めたはずなのに。響くんの表情から寂しさは消えていないのだ。


「――響くん」


 私は改めて姿勢を正すと、響くんの瞳を正面から見つめた。


「響くんは、私に痛い思いはさせたくないって言ったけど……。響くんが傷付いても、私は痛いよ」


「さくら先生……」


「響くんが苦しいなら私も苦しいし、響くんが寂しいと思うなら私だって寂しい」


 響くんの瞳をまっすぐに見つめる。

 響くんの心の中にある孤独という闇が見えた気がして、その闇をここに居る今だけは払ってあげたくて、何とかしてこの思いが伝わらないかと思ったのに。


 響くんはふいと斜め下に顔を背けてしまう。


「そんなの……そんなの噓だよ。さくら先生は、俺が居なくなっても、きっとエリオット先生と笑ってる。俺にそうしてくれたみたいに、新しく現れた生徒に優しく笑いかけてあげてるんだ……。この世界に居ない俺のことなんて、無かったことみたいに忘れてさ」


「そんなこと――」


 否定しようとした言葉が、今この空間ではなんだかものすごく虚しく響く気がして、声になる前に喉の奥で消えていく。


『忘れるのは響くんで、忘れられるのは私たちの方だよ』


『響くんが居なくなっても、私たちはずっと響くんのことを覚えているよ』


 次々に言葉が浮かんでくるけれど、どれも本当に伝えたいことを上手く伝えられない気がして、声に出すのを躊躇う。

 目の前にある響くんの孤独と不安の前では、安易な否定も慰めも逆効果にしかならない気がして、恐くて言葉を紡げない。


 情けなく固まってしまった私を見て、何を思ったのか、響くんはふっと笑んだ。


「本当はね、指導所の船でも盗んでさくら先生と二人で海の向こうまで逃げちゃおうかとも考えたんだ。二人だけで、他に誰も居ない所まで行けば、さくら先生も俺のこと必要としてくれるんじゃないかなって。でもすぐにそんなことしても無駄なんだって思って――やめた。だってこの世界にいる限り、逃げ場なんてどこにもないから……」


 遠いどこかを見つめるように虚空に向けられていた瞳が、ふと私に降りてくる。


「さくら先生ってさ、『転生者』なんでしょ? 他の指導官に聞いたんだ。指導官の中には、そういう人も居るって」


 響くんの言葉に心の中で首を傾げる。

 私が転生者かどうかなんてこと、知っているのはごく一部だ。私だって他の指導官が転生者かどうかなんて知らない。


 この世界に居る人のすべてがおそらく生前私が居た世界では考えられない理屈で存在している。誰がどこから来たのか、なぜ来たのかなんていちいち知ろうと思った事もなければ、そのことに疑問を抱いたことだってなかった。


「――でね。俺、考えたんだ。どうしたらさくら先生と一緒に居られるのか。この世界でどこへ逃げても意味がないって言うのなら――この世界を離れれば良いんだ」


「離れるって――」


「簡単だよ。もう一度転生すれば良い」


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