ヤミの覚醒(2)
「……さくら先生さぁ。女の子が一人で男の部屋に入るなんてすっごく危ないんだよ?」
響くんは他人事みたいにそう言いながら私の両手首を掴むと、簡単に一握りにしてしまう。その掌の大きさに、改めて彼が私よりずっと身体が大きくて力もある異性なのだと自覚する。
それでいて、手首を掴む響くんの指が、身体を引き寄せる逞しい腕が、できるだけ痛くしないようにと気遣っているみたいに優しくて、なんだかこっちが申し訳ないような気持ちになってくる。
そのまま玄関脇にある台所を抜け、間続きになっている部屋の中に連れて行かれる。
モノトーンで統一されたベッドと机。他には数冊の本と雑貨の並んだカラーボックスが一つあるだけの簡素な部屋。
閉められたままのカーテンと、乱雑にめくれたベッド上の布団が、あわただしく部屋を出たであろう今朝の響くんの姿を連想させて微笑ましい。
――なんて、暢気に生徒の部屋を観察している場合じゃないんだった。
どういうつもりかと問い詰めようとしたところで、机の上に置かれた不思議な物が目に留まる。
透明なガラスケースの中に大事そうにしまわれていたのは、アニメキャラクターのフィギュアでも、有名野球選手のサインボールでもない。
「割り箸……?」
――それも、割った後の片一本だけ。
「なんでこんなもの――……」
「ああ、それ?」
私の視線に気が付いた響くんが、おかしそうに笑う。
「やだなあ、さくら先生。忘れちゃったの? 自分が食べた林檎飴なのに」
……。
……。
……。
思わず数秒間思考停止してしまった。
我に返った私は、それは一体どういう意味なのかと尋ねようと思ったのに、口から出て来たのは潰れたカエルの鳴き声みたいな一音だけだった。
「え……?」
「一緒にお祭りに行ったときに食べたでしょ」
確かに食べた。林檎飴は食べたけども。
何でそんなものがここにあるのかとか、どうして響くんが今持っているのかとか、聞きたいことはたくさんあるのに。
――なぜだろう。恐くて聞けない。
居たたまれなくなって逸らした視線の先に、新たなガラスケースを見つける。
「タオル……?」
どこかで見た気がするそのタオルには、よく見れば砂粒みたいなものが付着している。
「大丈夫、洗ってないから」
爽やかな笑顔でそう言う響くんに、一体何が大丈夫なのかと尋ねたい衝動に駆られる。
なんかもう、色々と大丈夫じゃない気がする。
だってこのタオルって、多分海イベントのときに私の汗を拭ってくれたやつ……だよね?
「俺、いつかこの世界のこと、全部忘れちゃうんだよね……?」
唐突に響くんが沈んだ声を漏らす。
「う、うん。この世界で目覚めたときに聞かされたと思うけれど、それがこの世界での掟だからね……」
だからといって、決して辛くないわけではない。忘れることを不安に思わないはずはない。
それでもはぐらかすことは出来ない事実を、僅かに胸を痛めながら肯定する。
「そう、だよね……」
響くんもきっとそのことで苦しんでいる――そう思って見上げた顔は、さっきの沈んだ声が幻聴だったかと思うくらい明るさを取り戻していた。
「でも俺、忘れたくないんだ。だからこうして先生との思い出は全部取っておこうと思って。大事な思い出を残しておきたいって思うのは、普通のことでしょ?」
「雨だから傘差してるんだよ」位の気軽さで、至極当然のように言ってのける。
大切な思い出を残しておきたいと考えること自体は普通のことだ。修学旅行に行った先のパンフレットとか、友達からもらった手紙とか、確かに私も捨てられずにしまってあったりする。
だけど、食べ終わった割り箸や汗を拭いたタオルを保管しておくのは普通なのかな……?
響くんがいつもと変わらない爽やかな笑顔でそう言うので、なんだかもうよくわからなくなってくる。
「普通じゃないのは――あいつの方だよ」
ぼそりとこぼした響くんの瞳を見上げてハッとする。
いつも見ていた明るい金色の奥にある、黒く燃える炎のような深い闇。炎みたいに熱く激しく揺らめいているのに、それでいて凍えるほど冷たく残忍な感情を秘めている。
響くんはとっても素直な良い子で、だけど素直すぎて、明るすぎて、ヤンデレの要素が足りていないとばかり思っていたのに。
確かに私は、響くんに立派なヤンデレに育って欲しいと願っていた。天真爛漫な響くんのどこかに黒い要素があればそこを伸ばせるのになんてことも考えていた。
だから響くんの中に、こうしてちゃんとヤンデレの要素があったことが嬉しいし、安堵さえしている。
だけど――。
私はこうなるまで、彼の心の中にある闇を見抜いてあげられなかった。自分の目に見える部分でしか響くんを理解しようとしていなかった。
自分の力不足を棚に上げて、響くんに対して『足りない』『欠落している』なんて、偉そうに思ってしまっていた。
私の方がずっと指導官として多くのものが足りていないし、欠落していたくせに、そのことに気が付きもしないで。
「……響くん、油断させておいて突き落とすって――女の子はこういうの好きでしょって言ったよね」
「え……?」
「突き落とされるのは好きじゃないけど……。ギャップ萌えはまあ、わかるかな。響くんの場合、確かにその素直さと表裏一体のヤンデレが魅力なのかもしれないね」
「さくら……先生?」
気が付けば、カーテンの隙間から差し込んでいた夕明かりはすっかり消えてしまっていた。
日が落ちて暗くなった室内はしんと静まり返り、濃くなった夜の気配が、響くんと私の影までその闇に溶かしてしまっているみたいだ。これならきっと、誰かが外を通っても中に人が居るなんて気がつかないだろう。
響くんはベッド脇に置かれたクッションの上に私を座らせると、取り出した何かを私の手首に押し付けた。
温かな響くんの手が離れて、代わりに冷たい金属が私の右手首を拘束する。
「……ごめんね。手、痛い?」
闇の中から、気遣わしげな声が向けられる。そんなに心配そうな声を出すくらいなら、はじめからこんなもの使わなければいいのに。
そう考えてから、思い至る。
響くんはヤンデレ属性だ。私の右手首とパイプベッドの足を繋ぐアルミ製の輪っかは、インテリキャラクターがどこからともなく取り出す洋書と同じくらいヤンデレルートではお決まりのアイテムだ。
「――響くん、この手錠どうしたの?」
「少し前に実習で使ったやつだよ。さくら先生が、俺に使い方を教えてくれたやつ」
確かに、少し前の授業で私は響くんに手錠の扱い方を指導した。
手錠だけじゃない。ヤンデレたるもの、手錠や縄といった拘束系アイテムの扱いにまごついていているようでは、いざというときに属性としての本分を果たせない。自分の世界でそれらのアイテムが必要になったときに困らないよう、一般人では知りえない手錠の入手方法と使い方、拘束に最適な縄の選び方から簡単に解けない縛り方など、事細かに指導するのだ。
響くんは大人しく、授業を茶化すこともせずに真剣に説明を聞いていた。
おまけにあの日は、授業で使った備品の片づけまで手伝ってくれた。手錠だって、ちゃんと備品倉庫に返しておくと言っていたはずなのに。
責めるような私の沈黙に考えを察したのか、響くんは大して悪びれたふうもなく謝罪した。
「――嘘ついてごめんね。でも、先生が悪いんだよ。俺だけじゃなく、誰に対してもそんな風に警戒心が薄いから――」
かちりと小さな音がしたと思ったら、直後に天井の照明が目を刺す光を放つ。
不意に訪れた眩しさに眇めた瞼を開けば、すぐ目の前に響くんの顔があった。
「――だから俺、心配になっちゃうんだ」
髪と同じ薄い色素の睫がわずかに震え、その下にある大きな瞳が不安そうに揺れている。
「ひびきく――……」
言葉をかけようとしたら、逃げるみたいにして響くんの体がすっと離れた。
「警戒心が薄いのは、ここの指導所の事務員もだよ。手錠を返すためだって言ったら、あっさり備品倉庫の鍵を貸してくれてさ。俺、そこで色々と面白いものを見つけたんだ」
響くんは背後に置かれた机の引き出しを漁る。
「拘束に良さそうな縄やスタンガン、大型獣用の檻まであったな。これ全部揃えれば、簡単に好きな人を自分の傍に置いておけるじゃん! って、俺、正直ちょっと感動しちゃった」
そう言って振り向いて見せた顔は、冗談を言ってはにかんだときの子供みたいな無邪気な笑顔だ。
「でも俺、いくら傍に居てほしいからって、好きな人に痛い思いをさせるのはやっぱり嫌だな。だから、俺が借りてきたのは手錠と――これだけ」
――金槌?
と言っても、響くんの手の中にあるそれは、日曜大工に使うものより二回り程大きくて頑丈そうだ。
響くんは軽々とそれを持ったまま玄関前まで移動した。
寮の部屋は狭いし、玄関からベランダまで間続きになっているので、私が座っている場所からも玄関のドアはよく見える。
「これで――こうするんだよ」
お日様みたいに柔らかな笑顔のまま、響くんは勢いよく金槌を振り上げると、躊躇い無く玄関のドアノブを叩き壊した。
響くんののどかな笑顔のおかげで感覚がおかしくなってくるけれど、室内に幾度も響き渡る金属のけたたましい破壊音と、私の足元まで飛び散ってきた破片が、その衝撃の激しさを伝えてくる。
やがて無残に叩き壊されたステンレス製のノブが、ゴトリと玄関タイルの上に転がった。
「これでもう、さくら先生はこの部屋から出られないね」
きっと、めちゃくちゃに壊れてしまったのはドアノブだけじゃない。
そのことを目の当たりにした気がして、冷たい悪寒が身体を襲った。




