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ヤミの覚醒(1)

 海イベントの実習を終えると、響くんはそれまでの不真面目な態度が噓だったように、真剣に勉強に取り組むようになった。


 もちろん、以前と変わらず他愛もない冗談を交わすことはあったけれど、私をからかって授業を妨害したり、実習に教科書を置いてくるなんてことはまったくしなくなった。


 その甲斐あって、二度の定期試験は優秀な成績でパス。あとは、三日後に実施される、この世界で指導を受けている攻略対象キャラクターたちにとっての卒業試験――すなわち、乙女ゲーム攻略対象適応能力審査試験に合格すれば、晴れてヤンデレの属性習得を認められて自分の世界ゲームへ帰ることになるのだ。


 ちなみに、この卒業試験に不合格だった場合、攻略対象から非攻略対象キャラクターに格下げになるらしい。


 生前乙女ゲーマーだったとき、立ち絵まである明らかにイケメンなサブキャラのルートが開かないのはどんなバグかと思っていたら……。まさかその裏に、こんな真実があったなんて。


 私のような非攻略キャラクターを脳内で攻略するしかない憐れな乙女ゲーマーを一人でも減らしたい――。なによりも、響くんをそんな不遇な目に遭わせるわけにはいかない。


 そう強く決意した私は、卒業試験までの時間を、許す限り響くんとの試験対策に充てた。


 卒業試験は筆記だけでなく、面接と実技試験も行われる。

 定期試験の成績から考えて、乙女ゲーム的一般教養がメインの出題になる筆記試験はまず問題ないだろう。


 問題は、面接と実技試験だ。

 響くんはヤンデレ属性なので、面接官からの質問に対する受け答えがいかに病んでいるかを審査されることになる。実技試験は、ゲームで起こりえるイベントを想定したシュミレーションを行い、ヤンデレとしてどのように対処するか、実践的な知識と能力が試されるのだ。


 あの海岸でエリオット先生と話して以来、なんだか様子がおかしかった響くん。思いつめたような表情が気にかかっていたけれど、翌日にはいつもの明るい表情に戻っていた。


 もしかして、エリオット先生に何かアドバイスを受けて、心の靄が晴れたのかもしれない。

 エリオット先生の指摘は、ともすれば辛辣で容赦無く聞こえるけれど、その裏には相手への深い思いやりがある。

 教え子に的確なアドバイスを授けて向かうべき方向を示し導いてあげる。そんなエリオット先生の指導官としての手腕に改めて感心しながら、私は放課後の教室で響くんと向かい合って立っていた。


 窓の外では、沈みかけた太陽から滲む黄色と青空の残照が、夕方の空を優しいグラデーションに染めている。


「……さくら先生」


 夕暮れのせいか少し愁いを帯びた響くんの表情が、彼の整った顔を一層魅力的に見せている。


「響くん――」


 眼前にある金色の瞳を見上げながら、私は大仰にため息を吐いて見せた。


「――残念ながら、不正解よ」


「ええ~! これも駄目なの!?」


 大きく仰け反った後、うんざり顔でうなだれる響くん。可哀想だけれど、今日の私には彼を甘やかすつもりなんて毛頭無い。


「駄目に決まっているでしょう? 響くんはヤンデレ属性なんだから。バレンタインの日にヒロインがこっそりチョコレートを持っているのを見つけて、『わーい、ありがとう♪』なんて言いながら自ら進んでもらいに行くヤンデレなんて! 何それ! あり得ないから!!」


「……だって相手は俺のルートのヒロインなんでしょ? だったらそのチョコって間違いなく俺のだよね?」


「そうなんだけど! 確かに響くんのルートに入っていたらヒロインが持っているのは響くんのチョコに決まってるんだけど! ヤンデレが普通に喜んじゃったら駄目なの! 萌えないの!! そこはもっとこう、『それ、誰にあげるの……?』って目の下にクマを浮かべて不穏な空気でーー……」


「クマなんてそんな簡単に浮かんでこないよー」


「ヤンデレは浮かんでくるのっ!!」


 ――いけないいけない。理想のヤンデレについて語り出すとつい取り乱してしまうのは私の悪い癖だ。

 慌てて咳払いすると、指導官の顔を取り繕う。


「と、とにかく。響くんは素直すぎるのよ。そこが響くんの良い所でもあるんだけど、ヤンデレとしてはもう少し歪んだ反応を見せないと、実技試験ではマイナス評価よ」


「……えー。歪んだ反応って、そんな説明じゃよくわかんないよー」


 不服そうに頬を膨らます響くん。そんな可愛い仕草さえ、ここにきてやっぱりヤンデレとしての黒さが欠落していると思い知らされる。


 例えば、響くんの前に送り出したレイモンドだったらこうだ。


 彼の場合。彼の世界ゲームにバレンタインというイベントは存在しないので、別の事象に置き換えて質問した。


 レイモンドの世界ゲームでは、春は世界が生まれ変わるおめでたい季節という概念がある。そのため、春の到来を祝う再生祭というイベントが催される。

 その前日に、こそこそと一人厨房で何かを作っているヒロインを見つけたヒーロー(レイモンド)


「レイモンド。私をヒロインだと思って、このシチュエーションでどう対応するか再現してみせて」


 レイモンドはわずかも迷うことなく頷くと、私をそっと後ろ向かせた。


「先生は、後ろを向いていてください。料理に集中していて、私がヒロイン(あなた)を見つけたことに気がつかない」


「わ、わかったわ……」


 言うとおりにレイモンドに背中を向ける。教卓を調理台に見立てて、私も料理に没頭するヒロインの演技に専念する。


 背中にレイモンドの気配を感じるけれど、彼が口を開く素振りは無い。


 ――と思った次の瞬間。


 急に延びてきた白い手が、教卓――調理台を見つめていた私の視界を覆う。瞼に触れる掌は、ひんやりと冷たい。


「――それ、誰に作ってるの……?」


「レ、レイモン――……」


「見たところ、一人分ではなさそうだ。もしかして……あの男の分なのかな……?」


 演技だとわかっていても、目の前の闇と耳元に落ちる低い息遣いが言いようのない不安を煽り、異常な動悸を引き起こす。


 うっかり今が試験対策中だったことを忘れかけていた私は、無理やり脳を覚醒させる。


「違うのよレイモンド。これはあなたの分で――……」


「――噓だ」


「へ……?」


「僕がその野菜が苦手だって事、知っているくせに。それ、あの男の好物だよね? 僕がそれを知らないとでも思った……?」


 顔に触れるレイモンドの指が、囁く声が、細かに震え出す。


「他の男に奉仕する上、この僕に嘘までつくなんて……っ! 許さない!! そんなこと絶対に許さないっ!! 君は僕のものだ……僕にだけ奉仕していれば良いんだ……っ!!」


 急に怒気を孕んだ声をぶつけられ、戸惑いを隠せない。どうしよう、思っていたよりレイモンドがガチだ。


 それなのに。


 怒りを向けられているというのに、次は何を言われるんだろうという心地の良いハラハラが胸の底から押し上がってくる。


 喜怒哀楽が不安定なのも良い。

 個人的には、黒化しているときに一人称が『僕』に変わっている点もすごく評価したいところだ。自分にしか見せない素の顔という感じがしてすごく良い。


 ヤンデレ好きの血が騒ぐ。「いいぞもっとやれ」と心の中で叫びながら、私はじっと耐えた。


 そんな私の内心を知ってか知らずか。レイモンドは、今度はわずかに笑みを帯びた口調で言葉を続けた。


「ねえ、僕がこのままこの手を離さなかったら、君は料理なんて出来ないよね。ほら、早くその包丁を放さないと……怪我しちゃうよ」


 視界を覆っていたレイモンドの右手が離れて、包丁を握る仕草の私の手の上にそっと重ねられる。

 冷たい指はそのまま手首を柔らかく掴むと、見えない包丁を私の目の高さまで持ち上げた。


「でも、それも良いかな。だって君に怪我をさせたら……責任を取ることを理由に、僕が一生君の面倒を見てあげられるもの……」


 至近距離から覗き込んできたレイモンドの紫水晶の瞳が、恍惚と輝いている。怪しく歪んだ微笑が、この上なく美しくて息を呑む。


架空の切っ先が、目元に迫る。


「……今、君の目が見えなくなったら、最後に君の瞳が映したものは僕になるんだよね」


 私がゴクリと喉を鳴らすのを見守ってから、レイモンドは子供のように無邪気な満面の笑みを浮べた。


「――それってすごく、幸せだな」


 もちろん、この後シュミレーションを強制終了させたことは言うまでもない。ヤンデレとしては模範解答だけれど、これじゃバッドエンドまっしぐらだ。


 レイモンドの回答例をおおまかに伝えると、響くんは納得いかないという顔で首を傾げた。


「俺だったら、好きな人に痛い思いさせるなんて理解できない。それに、ヒロインが違うって言ってるのにしつこく疑い過ぎじゃない?」


「ヤンデレは疑り深い生き物なのよ! 自分に自信が無いから、ヒロイン相手にもなかなか安心できないの!」


 確かにレイモンドの場合は少々やりすぎかもしれない。

 対して響くんの回答は直情的で、いかにも素直な彼らしい。でも、ヤンデレキャラクターとしてはそれでは駄目だ。残念ながら、彼の行動にはヤンデレとしての魅力が欠片も感じられない。


「……やっぱり、実践が弱いわね……」


 思わずため息をこぼす。声も容姿も、いまや乙女ゲームの知識も作法も完璧なのに。ヤンデレとしての立ち居振る舞いだけが――彼に一番重要なその要素だけが圧倒的に足りていない。


 このままじゃ、いくら頑張ってもルートが開かないサブキャラクター堕ち確定だ。


 頭に沸いた不吉な想像を、荒々しく首を振って頭の中から追い出す。諦めるのはまだ早い。というか、諦めるなんて絶対にしたくない。


 一人で百面相している私を見て、響くんは肩をすくめて苦笑した。


「俺、これでも自分なりに解釈して、頑張ってるつもりなんだけどな」


「響くんが頑張ってないって言ってるわけじゃないのよ。素直なのは響くんの美点だもの。そこはそのままでいて欲しいって思ってるんだけど――……」


 言いかけたそのときだった。響くんは急に胸を押さえたかと思うと、そのまま冷たい床に崩れ落ちた。


「う……っ」


「ちょ、どうしたの響くん!?」


「胸が……苦し……っ」


「響くん!? 大丈夫!? 響くん――!!」


 取り乱す私をなだめるようと、響くんが苦しげにしかめた顔を上げる。


「大丈夫……時々起こる発作だから……薬飲めば、すぐにおさまる……」


 発作……? 


 そんなこと聞いてない。設定資料に、彼に持病があるなんて書いてあっただろうか。そんな重要な要素を見落とすなんてありえないと思うんだけど……。


「ぐ……」


 疑問が浮かんだのも束の間、響くんがさっきよりも一層蒼白な顔で呻き声を漏らす。


「俺の、部屋に……机の上に、いつも飲んでいる薬が置いてあるから……取って、きて……」


 こんなに具合が悪そうなのに、疑っている場合じゃない。

 発作については後でエリオット先生に確認するとして、今はまず、苦しむ響くんを助けることが先決だ。


「わかったわ! すぐに戻ってくるから!!」


 安心させたくて、力強く頷いて見せる。

 私は響くんから部屋の鍵を受け取ると、男子寮に向かって勢いよく駆け出した。



   * * * * *



 響くんの部屋は、男子寮の二階、東奥にあった。


 途中保健医を呼びに行こうかとも考えたけれど、保健室は寮とは反対側の別棟にある。薬を取りに行くには遠回りになってしまうと考えて、私はまっすぐ響くんの部屋に向かった。


 一秒でも早く、響くんに薬を届けなくては。

 気が急いて、部屋の鍵を差し込む手が震える。何度か乱暴に鍵を回してやっとドアを開けると、行儀悪く靴を脱ぎ捨てて玄関に上がった。


 響くんの部屋に満ちる、かすかな柔軟剤の香り。女性の部屋特有の甘い芳香とは違う。決して臭いわけじゃないのに不思議と無機質な香りに、ここが男の子の部屋だということを認識させられる。


(薬は……机の上って言ってたわよね……)


 1Kの簡素な室内に目を向ける。

 日が傾きかけているせいで、薄暗い。電気をつけようと玄関の奥に足を踏み入れたとき、たった今閉じたはずの玄関のドアが外側から開かれた。


 まったく予期していなかった事態に思わずびくりと体が跳ね上がる。

 恐る恐る振り返った私は、姿を現した人物を見て驚愕に目を見開いた。


「響くん!? 動いて大丈夫なの!?」


 薄暗い玄関では、響くんの表情は見えない。

 さっきはあんなに真っ青だったのに、もう立ち上がって歩いたりして大丈夫なんだろうか。


 響くんに駆け寄ってその顔を確かめようとすると、視界に飛び込んできた唇が笑みの形に曲がった。


「大丈夫だよ。発作なんて……噓だから」


「う、そ……?」


 ガチャリと響く金属音。それが、響くんが後ろ手に鍵をかけた音だと気が付くのに数秒かかった。


「俺って、多分ギャップ萌えを求められているキャラクターだと思うんだよね。中身空っぽの明るくて楽しい人と見せかけて、その実腹の中は真っ黒……っていうさ。女の人って好きでしょ、そういうの。安心させといて突き落とすっていうのかな」


 薄闇から伸びてくる響くんの手。腕を掴まれてそっと引き寄せられる。


 そのまま顔を寄せると、響くんは鼻先が触れそうなほどの至近距離で私を見下ろした。見上げた金色の瞳の奥で、小さな炎のような光が怪しく揺らめいている。


「……先生も、ドキドキした?」


「え……?」


「俺の意外性に、惹かれちゃった?」


 尋ねておきながら、響くんは私の答えなんて待っていない。もうこれ以上埋める距離なんて無いのに、ぐいっと顔を近づけてくる。


 仰け反って、思わず後ずさる。わずかな隙間が空くことも許さないとばかりに、私が後退した分だけ、響くんも進み出る。


「さくら先生、俺だけのものになってよ……。先生には俺が必要だってーー俺にも先生が必要だって、そう言ってくれたのはさくら先生でしょう? 先生が俺を愛してくれたら、ここにいる俺にもちゃんと意味があるって思える気がするんだ……」


 こめかみを、冷めた血液が下っていく。

 目の前に居る響くんが、まったく知らない人のような錯覚に陥ってどうしようもなく不安になる。


「響くん……どうしちゃったの? あ、そ、そうか! 私にちゃんとヤンデレもやれば出来るんだって見せたかったのよね? だったらもう十分わかったから――……」


 黙ってというように、唇にそっと指が押し当てられる。


「……エリオット先生がここに居たら、きっとこう言うよね――」


 押し当てた指が、細かな唇の皺まで撫でるようにゆっくりと赤い皮膚の上を這う。


「――『だからあなたは、うかつだというんですよ』ってさ――」


 にっこりと微笑む響くん。


 その笑顔は、黒い影に覆われて怪しく歪んでいた。

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