忍び寄るヤミ(5)
響は砂の壁面に吹きかけていた霧吹きの手を止めると、すぐ目の前にあるさくらの顔を見つめた。
容赦なく照りつける日差しのせいか、それとも夢中になっているためだろうか。砂粒の付着した頬は仄かに紅く、時折下向けた長い睫が汗を拒んで硬く閉じられる。目の前に自分が居ることも忘れて無心にシャベルを動かすさくらの姿は、大人気ないほど一生懸命で、だからこそ響の目には魅力的に映った。
いずれこの世界を去ることが決まっている自分にとって、ここでの生活は無意味なものになるはずだった。
――そう思っていたのに。
毎日顔を合わせるこの指導官は、どんな些細なことにでも常に一生懸命で、やがていなくなることが決まっている自分に対しても、決しておざなりに接したりしない。さくらを見ていると、ここで過ごす日々を無意味だと考えていたことが、もしかしたら間違いなのかもしれないという気がしてくる。
――今ここで過ごしている時間にも、ここにいる自分にも、ちゃんと意味があるのだと信じてみたくなる。
響は首にかけていた自分のタオルを伸ばし、そっとさくらの額を拭った。
わずかに瞠目したさくらは、すぐに破顔して礼を言う。
「ありがとう」
そうして再びしかめっ面に戻ると、せわしなくシャベルを動かし始める。
たったそれだけのふれあいなのに、響の胸を甘やかな幸福感が満たす。この喜びをずっと抱いたままでいたい。虚しい願いだとしても、願わずにはいられない。
さくらの様子を愛おしげに見つめていた響だったが、ふと、彼女の背後で動く怪しげな姿を視界に捉えて不快そうに眉を寄せた。
「……さくら先生」
「んー?」
顔を上げずに返事をするさくらに、響もまた、視線をさくらの背後に据えたまま言葉を返した。
「俺、ちょっと水分補給に行ってきます」
「うん、いってらっしゃーい」
暢気な声を出すさくらの横を通り抜けて、響は視線の先で不審に動く男の元へ向かった。
砂を蹴って進む足は、背を向けてしゃがんでいる男に近付き、はっきりとその行動を捉えた瞬間、小走りに変わっていた。
「……何、してるんだよ……」
恐る恐る声をかけると、その男――エリオットはゆっくりと背後に立つ響を振り返った。
その手には、ピンク色の水筒が握られている。
そのことを再確認した響は、こみ上げる不快感を必死に抑えながらエリオットを睨みつけた。
「……それ、さくら先生の水筒だろう?」
エリオットは響の質問には答えずに、悪びれた風も無く微笑んだ。
「ああ、響くん。砂の城は完成しましたか?」
間の抜けた答えと緩みきった表情に、響の苛立った神経が逆撫でされる。
「そんなことどうだっていい! 俺は、あんたが今、何をしていたのか聞いているんだ……!」
エリオットは声を荒げる響に驚いた顔もせずに、まるで今初めて気が付いたとばかりに、とぼけた様子で手の中にあるピンク色の水筒を見下ろした。
「何とは……ああ、これですか? 私はただ、星崎先生の水筒に飲み物を補充してさしあげようと――……」
言いかけて、立ち上がったエリオットの服の袖から、ぽとりと何かが砂の上に落ちる。エリオットはすばやい動作でそれを拾い上げると、何事もなかったようにポケットにしまいこんだ。
しかし、エリオットが慌てて隠したそれを響は見逃さなかった。
「それ……薬か……?」
一瞬だったし、半分砂に埋もれていたのではっきりと見えたわけではない。だが掌に納まるほどの小さな瓶の中には、怪しげな白い錠剤が入っていたのだ。
指摘されて、エリオットはわざとらしいくらい穏やかに微笑んで見せた。
「ああ、これは何でもありません。ただの鎮痛剤ですよ。気圧のせいか、昨夜から頭痛がひどくて……」
エリオットの芝居がかったため息を、響の冷めた声が遮る。
「俺がそれを信じると思うのか?」
エリオットは自分に向けられる響の猜疑に満ちた視線を受けて愉快そうに口角を上げると、真正面から対峙した。
「……困りましたね。あなたが信じようと信じまいと、これはただの鎮痛剤です。そんなに疑うのでしたら――」
ポケットの中から小瓶を取り出し、ぐいと響の眼前に突きつける。
「――試しに、飲んでみますか?」
顔は相変わらず微笑を湛えているが、凍えるような銀色の瞳は全く笑っていない。
エリオットの底の無い沈んだ色の眼差しに薄ら寒いものを感じて、響は忌々しげに舌打ちした。それを見て、エリオットは悠然と笑みをこぼす。
「安心なさい。正真正銘これは毒などではありませんから」
にっこりと微笑むエリオットの整った顔。その完璧すぎる笑顔の不気味さに、響は密かに身震いした。
(俺は薬だと言ったんだ……。毒なんて一言も言ってない……)
アマガエルのときもそうだった。身近な生き物が毒を持っているなんて普通では知り得ない知識だ。
ただの博識と片付けるにはあまりにも不穏な予感がして、響はエリオットの手からさくらの水筒をひったくると、猛禽類のような目つきで鋭くエリオットを睨みつけた。
「とにかく、これは返してもらう」
エリオットは肩を竦めると、響の後ろで一人砂の城制作に没頭しているさくらに視線を移した。
「それにしても、残念でしたね。せっかくの海水浴実習だというのに、誰一人水着を着ていないなんて」
「別に……水着なんて着なくても、実習は出来ただろう」
「それはそうですが。……まあ確かに、黒のビキニなんて扇情的な水着は、星崎先生には似合わなかったかもしれませんね」
冗談めかしたエリオットの言葉を聞いた途端、響の肩がぴくりと跳ねる。
「黒のビキニって……なんであの水着がビキニだって知ってるんだよ……?」
指導官の水着は黒をベースにしたデザインこそ共通しているが、形は様々だ。女性用はワンピースタイプもあれば競泳用やマリンスーツタイプまでありバリエーション豊かだ。決して全員が統一してビキニなわけではない。
響は事前にそれを確認していた。だからこそ、万が一さくらの水着がビキニだった場合に備えて、あの夜、更衣室に忍び込んだのだ。
「あの細切れの状態じゃ、ビキニかどうかなんてわからないはずだ。なのに、何であんたはビキニだって知っているんだ?」
響の抱いていた不穏な予感が、いよいよ明瞭になってくる。
しかしエリオットは、わざとらしいほど穏やかな微笑を顔に浮べたまま、意味がわからないと言いたげに首を傾げた。
「細切れ? 何のことです? 水着なら、星崎先生がロッカーに忘れたとさっき言っていたではありませんか」
白々しくとぼけるエリオットの態度に、響は確信する――さくらの水着を切り裂いた犯人が誰なのかを。
「あの水着、やっぱりあんたの仕業だったんだな……」
驚きと軽蔑の入り混じった視線を向けられたエリオットは、言い訳するどころか開き直った様子で薄く笑むと、挑むように響を見つめ返した。
「万が一本当に私が犯人だったとして、それがなんだというのですか?」
罪悪感の欠片も見せないエリオットの態度に、響の頭の中で何かがぶつりと切れた音がした。
「お前――っ! 今すぐさくら先生の前から消えろ!!」
「私が彼女の傍を離れようと離れまいと、あなたには関係の無いことでしょう。だってあなたこそ――いずれこの世界から居なくなるのですから」
「……!!」
悔しそうに歯噛みする響を見て、エリオットはまるで愉快な余興でも眺めているかのように楽しげに目を細めた。
「真実でしょう? それがこの世界の理です。今は執着と怨嗟に囚われたその心も、いずれはすべて忘れ去る。ここでの記憶が消えれば、荒んだ心もいずれ穏やかに凪いでいく……」
エリオットの目に、心配そうにこちらを見つめているさくらの姿が映った。先程の響の大声が聞こえたのだろう。シャベルを握り締めたまま立ち上がり、今にもこちらに駆け寄ってきそうだ。
エリオットはさくらに向かって悠然と笑みを投げた。そこに「大丈夫だから」という意味を込める。
エリオットを信じることに決めたのか、頷きを返すとさくらはそれ以上進むのをやめた。それでもなおこちらを見つめる不安そうな顔を遠く見ながら、エリオットは響に向かって言葉を続けた。
「あなたがここでやるべきことは、つまらない恋情に惑うことではありません。やがて帰る自分の世界で上手く立ち回るための術を学ぶことです。――それ以外など意味が無い。ましてやこの世界の人間に囚われるなど愚の骨頂。逆もまた然りです。この世界の人間が、自分の世界に帰る攻略対象に心奪われることなどありえない」
容赦なく浴びせられる辛辣な言葉に、響は身を硬くしてじっと耐えるしか出来なかった。
自分の感情を一方的に否定されて叫び出したいほど悔しかったが、エリオットの言うことはいちいち正論で、自分の稚拙な願望など差し挟む余地も無かった。
「あなたはもう少し、世の無慈悲を学んだ方が良い。どんなものであれ、望めば叶うほど世界は優しくできていないのですよ。あなたの世界でも、それは同じことです」
急に声音に優しさが滲んで、響は伏せていた視線を上げた。
見上げたエリオットの瞳には、吹き抜けた風に儚く散る砂塵が映っていた。
「どれほど精巧に造り上げようとも、砂の城は所詮砂。いずれ滅びる刹那的な運命を背負っているからこそ美しいのです。あなたの持つ属性――ヤンデレも同様です。一途に築き上げた感情が、報われないからこそ美しい。憐れだからこそヒロインの救済欲を掻き立てるのです」
「俺が憐れだって言いたいのか……?」
「違うのですか? だってあなたは――この世界で決して手に入らないものを欲している。泡沫のごとく消えてしまう感情に、貴重な時間を費やしている」
エリオットは響の黄褐色の瞳が悲哀と屈辱に揺れているのを見た。
彼のこの世界への不信が、確かにそこに在るのを見た。
「……だからね、響くん」
エリオットは鳥肌が立つほどの猫撫で声で、響にそっと耳打ちした。
「彼女のことは、私に任せてください。私がちゃんと、最後まで可愛がってさしあげますから――……」




