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忍び寄るヤミ(4)

 エリオット先生の運転する車で実習場所の海岸に到着した私たち。


 空には気持ちのいい晴天が広がっているけれど、予想通り浜辺を吹きすさぶ風はだいぶ肌寒い。ジャージの上に羽織ってきたパーカーを脱ぐどころか前を合わせて寒さから身を守っていると、浜辺に荷物を運び終えて戻ってきたエリオット先生が不思議そうに首を傾げた。


「おや? 星崎先生は水着に着替えないのですか?」


 恐れていた質問を向けられて、思わず身を硬くする。車の中で何度もシュミレーションしていたけれど、いざ本物のエリオット先生を前にして噓をつくのはすごく勇気がいる。


 どきどきと不安に跳ねる胸を必死で鎮め、私はエリオット先生の銀色の瞳から逃げるように勢いよく頭を下げた。


「……申し訳ありません! 水着をロッカーに置いてきてしまったみたいで……」


「星崎先生が忘れ物をするなんて、珍しいですね。……何か、あったのですか?」


 エリオット先生の心配そうな声。こみ上げた罪悪感で胸が苦しくなる。


 下げた頭の下からちらりと響くんを見上げると、響くんはなぜかエリオット先生を険しい表情で睨みつけていた。


「さくら先生は忘れたって言ってるんだから、それでいいだろう!?」


「……私は、星崎先生に聞いているんです」


 頭上を飛び交う二人の冷ややかな声。思わず顔を上げると、エリオット先生の細められた銀色の瞳がまっすぐ私に向けられていた。


 探るような、試すような視線が、答えを促している。


 小さな音をたてて唾を飲み込むと、私は精一杯の笑顔で答えた。


「いえ……別に。何もありません」


 安心させたくてそう言ったのに。私が答えた途端、エリオット先生の表情にふと影が差したのを見てしまった。


「……そうですか」


 失望とも違う。寂しさのような感情が見えた気がして、胸の中が大きく軋む。

 慌てて言葉を足そうとしたら、それを拒むようにエリオット先生の笑顔が向けられた。


「忘れてしまったものは仕方ありませんね。わざわざ取りに戻る時間も惜しいですし、まだ風も冷たいですから無理をして水着になることも無いでしょう」


 そう言って、エリオット先生は何事もなかったように浜辺に下りて行った。


 それから私たちは、乙女ゲームで起こりうる海イベントの実習をいくつかこなしていった。ヒロインの水着姿を前にしたときの反応や褒め方について。突然現れたナンパ男の華麗スマートな撃退法。スイカ割りや砂の城作りの作法――。


 それらが全て終わる頃には太陽も一番高い所を通り過ぎていた。

 夢中になっていたせいか、さっきまで肌寒く感じていた潮風が、むしろ心地良いくらいだ。

 完成した砂の城を見下ろして額の汗を拭っていると、いつのまにか隣に居たエリオット先生が水筒の蓋を差し出してくれた。蓋の中には透明な液体が注がれていて、手に取ると汗ばんだ指先にひんやりとした感触が心地良かった。


「ありがとうございます」


 お礼を言いながら冷たい飲み物を一息に飲み干す。

 スポーツドリンクだろうか、仄かに酸味のある甘い液体が、喉を通って胸の奥に滑り落ちていく。流れ込んだ冷気のおかげで、火照った体の内側が一気に爽やかになる。


「おいしいですね、これ。ミントが入っているのかな? 普通のスポーツドリンクよりもさっぱりしていて、飲んだ後の口当たりがすごく良い」


 思わず漏らした感想に、エリオット先生は嬉しそうに微笑んだ。


「正解です。ほんの少しミントの葉を加えて作ってみたんですよ」


「作ってみたって……これ、エリオット先生の手作りなんですか!?」


「恥ずかしながら。お口に合いませんでしたか?」


「とんでもない……!! 本当に、すっごくおいしいです!! 毎日飲みたいくらいですっ!!」


 勢い込んで言うと、エリオット先生の形の良い唇からふふっと笑い声が漏れる。


「……そうですか。それなら良かったです」


 エリオット先生お手製のドリンクは、先生の笑顔みたいに爽やかで優しい味だった。口内を満たすその幸せな香りを反芻しながら、すぐ目の前にある銀色の瞳と微笑み合う。


 ほんの束の間、ここが実習中の海岸だということを忘れかけたとき。


「ああーーーーーっ!!」


 突然足元で元気な絶叫が響いて、現実に引き戻された。


 見れば、しゃがみこんだ響くんのすぐ前でさっきまで小さいながらも荘厳な姿でそこに在った砂の城が無残に崩れ落ちている。


 たった今城をさらって行った波を見送りながら、響くんが寂しそうに呟いた。


「……あーあ。せっかくさくら先生と一緒に作ったのに……」


 肩を落とす響くんと向かい合うようにして、ただの砂山と化した城の残骸の前に私も腰を下ろす。


「大丈夫よ。砂の城は無くなっても、私の心の中には、響くんと一緒に頑張った思い出がちゃんと残っているもの」


 響くんは複雑な表情に顔を歪めて、私を見つめた。金の混じった瞳には、嬉しそうな、寂しそうな、なんともいえない感情が滲んでいる。

 その真意を知りたくて覗き込もうとしたら、不意にこぼれた笑顔がそれを阻んだ。


「……さくら先生、もう一度砂の城の作り方教えてくれない?」


 笑顔のはずなのに悲しそうで、思わず答えに躊躇する。

 すると上からエリオット先生の声がそっと耳打ちした。


「……教えてあげなさい。いつかそれを壊すことになると知りながら、それでも完璧な砂の城を築き上げる。……ヤンデレの素質を磨くのに、良い訓練だと思いませんか?」


 エリオット先生の言うことはわかる。ヤンデレキャラクターの向ける愛情はヒロインにすら容易に受け入れられないことが多い。それでも自分の信念を貫き通す不屈の精神を学ばせる良い機会だと言いたいのだろう。


 その考え方は理解できる。確かにヤンデレに必要な精神だとも思う。


 でも、こうして響くんの悲しそうな顔を前にして、すぐに頷けない自分がいる。

 いずれまた砂の城が壊れて、それを見たら響くんが悲しむことを知っているのに、それでもまた砂の城を作らせるなんて……。

 なんだか報われない思いを強いているようで、響くんが不憫に思えてならない。


 そんな私の迷いを感じ取ったのか、エリオット先生の冷気を帯びた声が耳に届く。


「何を躊躇うのです? あなたは、彼と束の間の仲良しごっこをするためにここにいるのですか?」


 その瞬間、心臓がどきりと大きく跳ねる。


 エリオット先生の鋭い言葉は、揺らいでいた私の心を的確に射抜き、靄のようにまとわり突く迷いを振り払って前を向かせてくれる。


「――いいえ。私は、ヤンデレを育てるためにここにいます」


 頭上の気配で、エリオット先生が微笑んだのがわかった。


 遠ざかっていく砂を踏む足音を背中に聞きながら、私は響くんともう一度砂の城製作に取り掛かった。今度はさっきのよりすごいお城にしようと意気込むと、響くんも笑顔で頷き返してくれた。


 髪を弄びながら吹き過ぎていく潮風に促されて、ふと背後のエリオット先生を振り返る。

 ちょうどエリオット先生もこちらを振り向いたところで、銀色の髪が風になびいてきらきらと輝いていた。


「頑張ってくださいね。思いを込めて作れば作るほど、それが波にさらわれたときの儚さが美しく輝くのですから……」



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