疑心暗鬼
昔々、一組の男女が出逢った。
「ねえ、あなたは、なに?」
「俺は、君を知りたいものだよ。君はなんだい?」
「私が何か、教えてくれる?」
「ああ。それは俺の役目だ。君はとても美しいものなんだよ。俺が誰か君はわかるかい?」
「ええ。あなたはきっと私をさびしく、ええ、きっと。独りにさせないものよね?」
「そうだ。君を、探していたよ」
何かがはぜる音がした。
意識が戻ったシロは、自分が見知らぬ部屋のベッドの上で横にされていることに、しばらく戸惑った。自分に育った家ではないことは確かである。
ーー俺、たにに落ちたはずなのに。
記憶が曖昧であったが、自分が崖から身投げした事は覚えている。落ちた浮遊感の後の記憶は思い出せない。
ベッドと簡素な机と椅子があるだけの部屋は、机の上にある光る結晶のようなもので輪郭がうっすら浮かんでいる。空気は少し冷たい。
ーー誰もいないのか?
物音が一切しないことに不安を覚えたシロは、部屋を出ようといつもより重いからだを引きずり布団を剥いだ。
その時不意に、首にあった奴隷の首輪がなくなっていることに気がついた。思わず首に手をやれば自分の首肌に触れられた。
ーー眠っておれ。
アーテルの声である。一瞬、体が強張った。
ーーいまはまだ、起きぬで良い。
頭の中で響いたことばは、今まで聞いてきた中でも比較的優しげな声音だった。
穏やかな声音にシロは気だるい体を抱え、今しばらくベッドの中にいることを選んだ。
「目が覚めたようじゃ」
瞼を重たげにあげたアーテルは、薄暗い部屋の中で小さく呟いた。
「ようやっとか。人の子、シロコはやはりか弱いの」
アニージャのいつものかすれた嘲りの笑いは、もはや癖でありいつ誰にたいしても変わらない。アーテルの頭の上で、人の子であるシロの脆弱さをこき下ろした。
「呼びに行きやしょうか?」
暖炉の上で青い炎を揺らしたカックは、アーテルの方へ浮遊しながら申し出た。
「よい、まだ寝かせておけ。体の魂力が吸われてまだ間もない」
「あやつの力、人並み程はあるようでな。シロコ故、僅かしかないことも予想しておったが。主にあれを器にする器量があるか、見物よな」
意地の悪い言い方のアニージャにアーテルは無言無感情で返した。が、暖炉の火は先程より勢いが強い。
「あまーい甘い主の性格よ。道半ばであれを人里に返すなどと、蒙昧な真似はしてくれるでないぞ」
薪の入っていない暖炉の火がはぜた。
「もう、間違えはおかさぬ」
ぎり、と奥歯の摩れる音が響いた。
「起きろ起きろ起きろ! シロ起きろ!」
大音量の喚声と暑さにシロは飛び起きた。
「……カック様」
目の前にカックがいた。昨日見たとき違い、むき出しの青い炎のカックに近寄られ、汗を通り越して火傷しそうなほど暑かった。
眩しい炎と、容赦ない熱にシロは目を細め、体を引いた。
「やっと起きたか。この寝坊助野郎! お天道様はもうとっくの昔に顔をお出しになられたぜ。さっさと着替えろ!」
カックは、やや過剰に目覚ましの役目を終え部屋を浮遊しながら出ていった。寝坊助と言われたが、部屋には窓がなく今のがいつなのかはわからない。
おもむろにベッドから出たシロは、真新しい寝間着がいつの間にか着せられていることに気付いた。
ーー奴隷なのに。
アーテルに対する反抗心は少なからずある。しかし、売られる前より上等な扱いに困惑と警戒が胸のなかに芽生えた。
それに対してアーテルは善い人とというわずかな希望もわずかながらある。
どちらなのかは今だわからない。
ーーこれに着替ればいいのか?
机の上には畳まれておかれた、黒地の長い衿なしのシャツと薄い藁色のズボン、ベルトと革のサンダルがある。横に水の入った桶と手拭いがあるが、恐らく洗面用具だろう。シロは戸惑いながら寝間着を脱いだ。
「やっと起きたか。寝坊助はさっさと席につくがよかろ」
物音がする部屋を一番に開けたシロは、聞こえてきたしわがれ声に身構えた。
「ふむ。やれやれ、聞こえなんだかの。席についてさっさ飯を片付けるのだ」
暖炉の前の、居心地の良さそうな長椅子の上に座していたアニージャは、それだけ言うと難しげな本に目線を戻した。
はじめての出会いがお世辞にも良いとは言えず警戒の眼差しを向けるが、アニージャは全く意に介さない。
「シロ!アニージャ様に失礼なことすんじゃねえ!こっちだ」
台所の間にある布がかかった膳に呼ばれたシロは、上におかれたろうそくにいた青い炎に聞いた。
「カック様、これ、食べていいのか?」
シロが指す先には食事が用意されている。
テーブルに上にある籠いっぱいの果実を練った蒸し饅頭とまだ暖かそうな野菜を茹でたもの、それと湯気がたったスープが1人分。
「親方様はお優しい方だからな! てめえのために仕方なく! 用意されていたのだ。ありがたく食えよ!」
さっさと食えとカック言われたシロは、膳の前につき匙をとった。が、すぐにはてをつけず、しばし食事を見つめた。鼻腔をくすぐる饅頭の甘い香り、熱々の具だくさんミルクスープ、色のよい緑や桃色の野菜。こんな贅沢な食卓を見たのは何ヶ月ぶりだろう。蒸し饅頭だって何回も食べたわけではない。躊躇いながらスープを一口啜った後 、空きっ腹に詰め込むようにしてシロは無我夢中で喰らった。
育ち盛りにも関わらず、満足の行く食事をしたのはこれが初めてだった。
「今日はそれ食ったら、この家の事と外の掃除するからな。ちび助だからって、甘やかしたりしねえから、しっかりきびきび動け!」
口に饅頭をつめながらシロは何度も頷いた。
食事を終えたシロは、カックにつれられ予想外に多い部屋を掃除して回っていた。この屋敷は窓が基本的に少なく、薄暗い。窓掃除が少なくてすんだが、埃っぽかった。使われていない書物だけ詰まった部屋も多くあり、今までその部屋の整理整頓をしていたのだ。カックいわく、この屋敷の住人は片付けることが苦手らしい。
「カック様」
泡にまみれながら浴室の掃除をしていたシロは、不意に見た鏡の中の自分を見つめた。
「あん?なんだ?」
浴室の窓辺を陣取っているカックはなにごとかと浮き上がった。
「首に黒いのが」
そう言ってシロは泡がついたてで鏡に写った自分の首をこすった。見覚えのない首飾りにも見える黒い模様が入れ墨のように首に浮き上がっている。泡まみれになってなお、首を一周する複雑な線が入り交じったそれは、消えなかった。
「そりゃ、そう、あれだ! 首輪みたいなもんだ。あんなでっかい鎖カチャカチャ言わせてたらやかましいだろうが! 変なことしなきゃなんにもねえからほっとけ!」
奴隷の首輪の代わり。ほっとけと言われたものの冷たく重いあの首輪の事を思いだし、シロはまた無意識に首を撫でた。
「てめ、自分の首洗ってンじゃねえよ。首とられたくなかったら風呂みがけ!お使いがまだのこってんだよ!」
「お使い?」
バスタブをまた磨き始めながらシロは聞き返した。
「主にてめえの食料だよ。この屋敷で食事するやつはヒヨコのてめえだけだから、飯炊きも自分でやれるようになるんだな!」
「御前はたべないのか?」
「はあ?親方様にはひ、いや!よけいなことくっちゃべってんな! さっさと終わらせろ!」
アーテル様は少食なんだろうか。それともどこかで食べているのか。カック様とアニージャ様は必要ないのは理解できるけど ……。
疑問を抱えたシロではあったが、これ以上、カックがなにか答えてくれるような態度には見えず、言葉を飲み込んだ。