完全無欠の騎士団長様は、私が夜勤の時だけなぜか怪我をするようです
「早く縫いなさいよ。相変わらず愚図ね。ほら、貸して! ったく」
深夜の処置室に、苛立った声が響く。
義妹のミレーヌが私の手からカルテを引ったくった。寝台の上には、演習で大けがをし気絶している若い騎士様。血の滲む包帯を見て、義妹は形のいい眉を思いきり寄せる。
「気持ち悪い……ちょっと、こっちに向けないでよね」
「ミレーヌ、気絶してるからってそんな言葉……それに消毒がまだ――」
「そういうのはあんたの仕事でしょ! さっさとしてよ! 私これからパーティがあるんだから!」
さらさらと、慣れた手つきでペンが走る。処置の欄はどうせ後で私が埋める。義妹が書くのは、いつだって一番下の署名欄だけだ。
――ミレーヌ・オルコット。
王都で「若き聖女」と呼ばれる名前が、今夜も私の縫った傷の上に載る。
「終わったら道具はちゃんと洗っておいてよ。汚いのは嫌いなの。掃除ぐらいしか取り柄が無い愚図なんだから」
「…………わかった」
「そうそう、今夜は騎士様達が沢山でるパーティなの。化粧の一つもできないあんたには関係ないだろうけどね……お姉ちゃん。あ、白衣ででる? ドレスも持ってないもんね」
「……」
そういって笑いながら、義妹は処置室を出ていった。
私は針を持ち直す。
「大丈夫です。私が絶対に治しますから」
オルコット治療院の夜は、いつもこうして更けていく。
私、リゼットがこの家に引き取られたのは、六歳のときだった。
母は下町の産婆で、薬師で、要するに何でも屋のお医者様だった。流行り病で母が死んだ冬、伝手をたどって私を引き取ったのが、王都で一番大きな治療院を営むオルコット院長――今の養父だ。
「恩を忘れるんじゃないよ。おまえは拾われたんだ」
その言葉に嘘はなかったと思う。ただ、拾われたのが「娘」としてではなく「働き手」としてだったと気づくまで、少し時間がかかっただけで。
私の給金は「養育費の返済」として帳簿から消える。通常ならすでに返し終わっているはずだ。
だが利息だと言われていまだにどれだけ残っているのかはわからない。
だが、幸か不幸か私には治癒師の才能はあったようだ。
だが、私の縫った傷は「ミレーヌ様の奇跡の御手」として院の看板になった。貴婦人方は天使のように微笑む義妹の絵姿に祈りを捧げ、治療院は今日も繁盛する。
義妹は、治療をしない。
できないのではない。しないのだ。血は気持ち悪いから。膿は汚いから。呻き声はうるさいから。義妹にとって患者様は「触りたくないもの」で、治療は「私にすべてやらせるもの」だった。
「あんたって本当に便利よね。地味で、丈夫で、文句を言わなくて」
先週、薬棚の軟膏を取り違えたのは義妹だった。患者様の肌が赤く腫れ、院長は待合室じゅうに響く声で私を叱った。罰として土下座して謝罪させられた。義妹は院長の陰で、扇の裏からそっと笑っていた。
そのとき母の形見の医療鞄を義妹に取られた。
「前から欲しかったのよね。小物入れにぴったり」
もちろん私は抵抗したが、院長に頬を強く叩かれて、ミスしたのだから当然だと。
世界にひとつの鞄。今は義妹の部屋で宝石などの小物入れに使われているらしい。
言い返せない。言い返しても私には味方などいないのだから。
でも唯一私の居場所がある。週に数回の夜勤だ。
夜勤の医務室だけは、私の場所だった。
うちは騎士団の指定治療院で、夜中に駆け込んでくるのはたいてい訓練帰りの騎士様たちだ。夜勤はいつも私ひとり。義妹は「夜中に働くなんて使用人のすること」と言うし、院長夫妻は貴族相手の昼の外来にしか興味がない。
だから夜の医務室は、たった一人。私だけの居場所だった。
そんな居場所にここ数年、よく来てくれる人がいる。
決まって私が夜勤の日にだけ現れる常連の騎士様がいた。
歳は20代半ば。上背があって、青い瞳で氷のような美しい目をした人。階級章のない詰襟をいつも喉元まで留めていて、名を聞いても「ただの騎士です」としか答えない。
名を明かしたくない理由があるのだろう。私はそれ以上は聞かなかったし、静かな人だったから。
だが、傷だけは静かなものではないが。
「……また、深いですね。剣の傷ですか」
「大したことない」
「大したこと、あります。あと指二本ずれていたら腱を切っていました」
「そうならないように貰ってきた」
「傷は貰ってくるものではありません!!」
軽口のわりに、この人は診察台の上で嘘みたいに大人しい。私の針が皮膚を通るあいだ、身じろぎひとつしない。麻酔は嫌だと言うのだからおかしな人だ。
最初は我慢強い人なのだと思っていた。三年も縫っていると、わかる。この人は痛みをあまり感じないのだ。だからこそ怪我をするのかもしれない。
「相変わらず丁寧な縫合だ」
「あ、ありがとうございます」
「料理なども得意なのだろう。き、君の旦那様は幸せものだな」
「ふふ、結婚などしていませんよ。お相手を募集中です」
「ほ、ほんとか!?」
「うわぁ!? 急に動かないでください!」
「す、すまない」
「ふふ……」
夜半の医務室でこの人とぽつぽつ交わす取り留めのない話が、私は――たぶん、この家に来てから一番、好きだった。
私だけを見て、私の眼を見て、この人は私を見てくれている。
湯冷ましの白湯。ランプの灯り。包帯を巻く音。
「だが……あなたの手は」
「ん?」
ある夜、縫合を終えた騎士様が、ふいに言った。
「あなたのその手は、誰が手当てするんだ」
視線の先には、私の指。あかぎれと、薬品焼けと、短く切り詰めた爪。
「……手当てが要るような手では。誰かに見られるようなものでもありませんし」
「要る。俺が毎週見てる」
「や、やめてください。汚いです」
「いや、世界一美しい手だ。化粧もせず、香水もつけず、流行の爪の手入れもしない。そのすべてが我々騎士達の治療のため。聖女とはあなたのことだ」
「そ、そんな……大層なことでは……」
「君はそういうのだろうな」
変な人、と思う。
でも寡黙で氷のような美しい目のこの人が、たまに優しく微笑むのが私は好きだった。
変な人だと思いながら、次の夜勤表に自分の名前を書き込むとき、私の指は少し軽い。
変といえば、もうひとつ。
あの騎士様が来る夜は、他の騎士様たちの様子が少しだけおかしい。
処置の順番を譲り合っていたはずの人たちが、あの人が扉をくぐった途端、そろって背筋を伸ばす。
もしかして結構偉いのかな? なんて思うが、そんな人が毎日怪我をするのはそれはそれで変だと思う。
「なあ、リゼット先生」
包帯を替えに来た若い騎士のテオ――私が縫合して何とか腕を切断せずに至った騎士様が、声をひそめて言った。
「俺ら、みんな知ってるからな。奇跡の御手ってのが、どっちの手か」
「……やめてください。それは迷惑です」
「かーったく。あんたが望むなら俺達……」
「だめです」
「ん!」
私はテオ様の前で指でその口を閉じさせた。
「私はこれでいいんです。院長にはお世話になりましたし、皆さんの治療ができればそれでいいんです」
「はぁ……嫁にしたい」
「え?」
「いや、なんでもない。さすがに相手が悪いしなぁ」
「なんですか、それ」
「いつか分かるって。いつになることやら……あの人も世界最強なのに奥手だからなぁ……」
テオ様はにっと笑って、それきり教えてくれなかった。騎士様たちは皆こうだ。何かを知っていて、何も言わない。夜の医務室は、そういう妙な沈黙と一緒に回っている。
その春、治療院が浮き足立った。
「騎士団長閣下が、いらっしゃるんですって!」
指定治療院契約の更新にあたって、騎士団長が自ら視察に来る――報せの手紙を胸に抱いて、ミレーヌはくるくると回った。
「〝完全無欠〟の騎士団長様よ。剣聖記録を三つ持っていて、侯爵様で、独身で、浮いた噂ひとつない! お顔を見た令嬢はほとんどいないの。社交界に出てこないんですもの」
「……お忙しい方なのでしょうね」
「これは運命よ。決めたわ、閣下は私が射止める。あんた邪魔しないでよ」
鏡の前で髪を結い直す義妹は、確かに匂い立つように可愛らしい。要領がよくて、可愛くて、皆に愛される。私にないものを全部持っている子。
「あんたは当日、奥に引っ込んでること。血と包帯の匂いのする人がうろついてたら、せっかくの治療院が台無しだもの」
「――ええ」
どうせ当日は夜勤明けだ。私は静かにカルテの束を抱え直した。
視察は、三日後。
その日が、あんなことになるなんて。
そして――騎士様たちの「いつか分かる」が、あんな形で分かることになるなんて。このときの私は、まだ何も知らなかった。
◆
視察の日は、朝から治療院じゅうが磨き上げられていた。
玄関には花、応接室には最高級の茶葉。ミレーヌは空色のドレスに銀の髪飾りで、完璧に「若き聖女」だった。
「あんた、本当に奥から出ないでよね。閣下の目に入ったら台無しなんだから」
「……ええ。夜勤明けだもの、寝ているわ」
「そうしてて。ああ緊張する! 髪、変じゃない?」
こういうときだけ、義妹は私に笑いかける。私は仮眠室の扉を閉めた。閣下のお成りは昼過ぎ。それまで少しでも眠っておくつもりだった。
私はふと目が覚める。なにやら慌ただしい。
廊下に出ると、階下から悲鳴と怒号が突き上げてきた。
「ドラゴンが出現した! 重傷者多数! まだまだくるぞ!」
窓の外、荷馬車が土埃を上げて乗りつける。戸板の上で騎士様たちが呻いていた。折れた腕。潰れた指。そして、太腿から夥しく血を流している――テオ様だ。
私は階段を駆け下りた。
待合室は血の匂いと悲鳴で満ちていた。倒れた花瓶。下げられていく最高級の茶器。院長が真っ青な顔で怒鳴っている。
「ミレーヌ! 何をしている! 聖女の出番だろう!」
「む、無理よお父様……だって、血が……汚い……いや、私できない。リゼットが……」
「騎士団の方々が見ている! やりなさい!」
私が駆けつけたとき、義妹は薬品棚の前で、手当たり次第に瓶を掴んでいるところだった。
「き、気付けの薬よ! 早く楽にしてあげないと……そう、倍! 倍入れて!」
「駄目っ――!」
叫んだときには、助手が注射し終えていた。
あれは強心剤だ。血を失った身体に倍量なんて、心臓が保つはずがない。
数拍おいて、テオ様が戸板の上で跳ねた。
「退いて!」
私は義妹を押しのけた。ドレスが汚れると悲鳴が上がったが、知らない。拮抗薬。気道の確保。太腿は縛って、圧して、縫って――手が勝手に動く。母の教えたとおりに。三年間の夜勤が教えてくれたとおりに。
「ち、ちが……私」
どこかで、灰色の目が私を見ていた気がした。搬送された騎士様たちの列の端、自分の腕を自分で押さえている、見慣れた人。目が合ったのは一瞬で、私はすぐ手元に戻った。患者様の前でよそ見をする看護師が、いるものか。
弱心剤を、感覚で打つ。きちんと用法を守っている時間などない。そんなことしている間にテオ様が死んでしまう。
周りでは院長や、妹が何やら言っているが全て無視だ。今できる私の精一杯でこの人を救う。
そして、テオ様の脈が、ゆっくりと戻ってくる。
胸が静かに上下し始め、安定した。
安堵も束の間、患者はまだまだいる。
「か、勝手なことを! あなたは出ていって!」
「うるさい。黙って」
「――!?」
私はただ一言だけそういって、他の騎士様達の治療を進めた。
幸い、誰も死ななかった。気づけば夕暮れ過ぎ。私はやっと安堵した。
その静寂を、涙声が破った。
「……ひどい。ひどいわ!!」
義妹だった。震える指が、私を差していた。
「ひどいわ、お姉様……! 薬品棚をすり替えたのね? 私を、陥れるために……!」
「はぁ?」
外向きの声だった。家では「あんた」としか呼ばない子の、「お姉様」。
「何を――」
「薬品棚の管理はお前だろう! わ、私の娘が。聖女であるこの子がそんなミスを犯すわけがない!!」
院長の声が被さった。赤黒く膨れた顔。振り上げられた手。
頬が鳴った。打たれたのだと、一拍遅れてわかった。
「拾ってやった恩を、仇で返しよって!! この、疫病神が」
「な、なんで……」
すると院長が頭を下げる。
「大変申し訳ありません、騎士様方。こちらの不手際で」
そうして私は引きずられるように処置室の外に連れていかれた。
「出ていけ。……いや、ただで出すものか。騎士団の方をこんな目に遭わせて、ただで済むと思うなよ。この犯罪者が」
「ち、ちが……私」
「最低ね。あなた。心まで卑しいなんて」
「私そんなことしてません!」
「黙りなさい!!」
院長は、また私を殴った。私は許せなかった。私に対する横暴はまだ許せた。
だが、騎士様達を殺しかけるようなことを私は絶対にしない。その態度が気に入らなかったのだろう。
私は告発された。
罪状は――騎士殺害未遂として。
裁判は、異例の速さで開かれた。
すでに誰が裁かれるのかが決まっている裁判。権力者である院長の息のかかった者だけで行われる意味の無い裁判。
「薬品棚の管理はリゼットです。瓶の配置が、前日から変わっておりました」
「日頃から、聖女様を妬んでおいででした」
「私、見ました。夜勤中にリゼットが瓶を置き換える姿を」
証言台では義妹の息のかかった治癒師たちがうその証言をする。義妹のミレーヌは黒いレースのドレスで、ハンカチを目元に当てていた。
「お姉様は昔から、私のものを欲しがる人でした。今度のことも、きっと……私が閣下に見初められるのが許せなくて。申し訳ありません。すべて私が悪いのです。お姉さまを許してあげて!!」
よくできた涙だった。裁判官の男も、うんうんと頷いている。
「ち、違います!! 私は!」
「発言は許可されていません」
ぴしゃりと言い放たれて、私は何も言えなくなった。
昼休廷のとき、書記官が独房まで来て、声をひそめた。
「罪を認めなさい。認めれば禁固は三年で済むよう、院長殿が取り計らうと」
ああ、と思った。認めれば、院は「魔が差した養女」の話で幕を引ける。認めなければ、私は「性根の腐った毒婦」になる。どちらでも、義妹の聖女は無傷だ。
目を閉じると、まぶたの裏に手があった。母の手だ。冬のあかぎれ、薬品焼け、短い爪。私と同じ手。診る患者に貴賤はないよと笑った、あの手。
「――お断りします」
「後悔するよ」
「私は、間違えていません」
間違えていないのだ。ただの一度も。薬も、処置も、治癒も。
だからそれだけは、誰に何を言われても、ゆずれなかった。
治癒だけは、母から受け継いだ私の誇りだから。
判決の日、法廷は満員だった。
「被告人リゼットを、医療従事の権利剥奪、および――禁固十年に処す」
「十年……」
私は殺人者として、十年を檻の中で過ごす。酷い環境だ。私なんか牢屋の中で死ぬだろう。
「あはは! 馬鹿すぎる!! おっと失礼」
押し殺すように笑いを我慢する義妹。
木槌の音が、遠くで鳴った。
傍聴席の最前列で、義妹がハンカチの陰からこちらを見た。口元だけが、笑っていた。
ただ今は、禁固十年よりも、私が騎士団の人を殺そうとした事実を、公然と認められたことが悔しかった。
衛兵が私の腕を取る。
そのときだった。
法廷の扉が、開いた。
土埃まみれの外套。喉元まで留めた、階級章のない詰襟。
――夜勤の、騎士様。
「なんで……あなたが、ここに」
騎士様は答えなかった。まっすぐ証言台へ歩きながら、懐から何かを取り出す。銀の、双剣と獅子の紋章。それを見慣れた詰襟の喉元に、自分の手で留めた。
法廷が、どよめいた。
「……レーヴェ卿……」
裁判長の声が掠れる。
「腸が煮えくりかえりそうだ。ドラゴンを討伐し、やっと帰ってきたと思えばこの状況。守れなかった自分にも、そしてお前達全員にも、怒りが抑えきれない」
その怒気に、私も法廷も気おされる。
「王国騎士団長、ヴォルフガング・レーヴェ。発言を求める」
「騎士団長?」
低い、大きくもない声。なのに法廷の空気がまるごと、その一言に掴まれた。
「きょ、許可致します」
「テオ!! ここに!!」
「はっ!!」
すると後ろから松葉杖と共にテオ様が現れる。
「投薬を誤った者と、それを止め、お前を助けた者の名前を言え」
「はっ! 投薬を謝った者は、そこにいらっしゃるミレーヌ様です。そして私を……私たちをいつも救ってくれたのは、あなたです。リゼットさん」
法廷がざわついた。
義妹の顔から、音を立てて血の気が引いていく。夜勤の常連……いつも寡黙なあの騎士様は、王国最強……いや、世界最強とすら呼ばれる騎士団長様だった。
閣下は一度だけ、私を見た。
「……すまなかった。隠していたわけではないんだ。ただ……一騎士として、君との時間が私にとってとても大切だったのだ」
「い、いえ……」
それから裁判長へ向き直る。
「新たな証人を申請する。――入れ」
扉から、騎士様たちが入ってきた。ひとり、またひとり。土埃の残る軍装のまま、証言台の脇に列を作っていく。
「第三小隊、証言します。この三年、自分の裂傷を縫ったのはリゼット様であります」
「第七小隊、同じく。夜間搬送のたび、世話になりました」
「自分の指を繋いだのも」
「弟の熱を、夜通し看ていただいたのも」
声が、積み上がっていく。
最後に、もう一度テオ様が発現する。
「気絶してるときには、本性あらわしますもんね。ミレーヌさん、俺見ちゃったんですよ。あんたがいつもカルテの名前だけ自分のサインをするところ」
「ち、ちが! そんなことしていません! カルテは全部私が書いたわ! 全部私の名前よ! 私が治療してきた証拠じゃない!」
外向きの声が、剥がれていた。「ですの」も「ますわ」も、どこかへ消えていた。
閣下が、静かに一冊の綴りを掲げた。
「王宮医務局の権限で、貴院の診療記録は昨日付で押収した。――ではミレーヌ・オルコット殿。貴女が書いたと言うのなら」
差し出されたのは、ところどころ紙で伏せられたカルテだった。
「処置の記載部分を伏せてある。署名は確かに貴女の名だ。……この患者にどんな処置をしたのか、ご自分の言葉で説明していただこう。書いた本人なら、言えるはずだ」
義妹はカルテを受け取った。
受け取って、開いて――固まった。
一秒。二秒。十秒。
法廷は静かだった。あまりに静かで、義妹の喉が鳴る音まで聞こえた。
「……せ、正しく消毒を、して」
「正しく? 薬の名は?」
「え、えーっと……名前まで正確には」
「まずは消毒ではありませんね。内出血に消毒してどうするんですか?」
どよめきが、波になった。
義妹は口を開けて、閉じて、また開けて――何も出てこなかった。三年間、署名の下に埋まっていた沈黙が、法廷じゅうに晒されていた。
「では、リゼットさん」
カルテを渡された。私はすべてを読み上げた。
カルテを一瞥するとここ一週間のものだった。ならカルテすら不要だった。
私はすべての治療した騎士様の名前と症状と処置をすらすらと述べる。
法廷はやはりざわめいた。
「完璧です。いかがでしたか、裁判長。あなたは何を信じますか」
閣下の声は、最後まで平らだった。
「本件の診療記録は、処置者と署名者が一致しない虚偽記録の疑いが強い。騎士団への治療費請求も、この記録に基づく。王宮医務局に正式な照査を要請する!!」
「そ、それは!!」
騎士団長の声に、院長が慌てふためく。
当たり前だ。グレーなことを沢山していることは知っている。この国最高の医療機関である王宮医務局に調査されれば間違いなくすべて暴かれるだろう。
木槌が、連打された。
「――本法廷は先の判決を破棄する! 審理を再開する!」
その日の夕方、私は法廷の裏口で解き放された。
罪状は消えた。職と家は、もとから無い。抱えているのは上着一枚、それだけだった。
石段の下に、閣下が立っていた。
土埃の外套のまま。詰襟の喉元で、銀の階級章が鈍く光っている。
「オルコット・リゼット」
「……リゼットで結構です。もう」
「そうか」
閣下は頷いて、一通の書状を差し出した。
騎士団の印が入った、任命書だった。
「騎士団は団付きの医務官を探している。俺は、君を推挙したい」
「私は、さっきまで囚人でしたが」
「無実の、だ」
「……どうして、そこまでしてくださるんですか」
聞いてから、少しだけ後悔した。夜勤の騎士様は、灰色の目でまばたきをひとつして、いつもの調子で言った。
「君の治療がなくては、みんなが困る」
みんなが。
そう。みんなが、だ。それ以上の意味なんて、あるはずもない。
私は任命書を受け取った。紙は少し、温かかった。
◆
王国騎士団は、総勢五百。
城壁の西に団舎と練兵場を構え、その一角に小さな医務室がある。それが、私の新しい職場だった。
初日から、驚いた。
「リゼット先生! 待ってました!」
包帯の巻き方を教えてくれと若いのが列を作る。薬品棚は私が使いやすいよう、誰かが夜のうちに組み替えてくれている。夜勤表に自分の名前を書けば、その名前のまま朝を迎えられる。
処置をして、カルテを書いて、署名をする。
――リゼット。
たったそれだけのことが、こんなに静かで、こんなに嬉しい。
「そういえば先生、化粧しないんすねって言った新兵が、昨日先輩方にしばかれてました」
「しばいては駄目です」
「だって先生のそれ、俺らのためでしょう。傷に触る手だから爪を切って、血の抜けた奴がえずくから香水をつけない。……俺ら、そういうの全部知ってて世話になってるんで」
騎士団の医務室では、私の「地味」は、誰への言い訳も必要としなかった。
オルコット家の人々が門前に現れたのは、ひと月ほど経った頃だ。
監査は進んでいた。指定契約は打ち切られた。しかも不正な会計による横領によって実刑判決を受けそうだと。
門の外で、院長夫妻は揃って頭を下げた。
「ゆ、許しておくれ。リゼット。家族じゃないか」
「契約のこと、閣下にお口添えを……この通りだ」
夫人が、見覚えのある革鞄を胸に抱えていた。母の、形見の鞄。
「これも返そうと思って、持ってきたのよ。ね? だから、お願い! このままだと私、殺人犯なの!! い、いや! 絶対にいや!!」
すがるように私に抱き着く。
「ね? お願いよ、ちょっと誤解があっただけじゃない。ねぇお姉さま」
義妹の目が、ちらちらと私の背後の団舎を窺っている。
私は、鞄だけを受け取った。革の持ち手の、母の補修痕を指でなぞる。――ちゃんと、ある。
「これだけ、いただきます」
「リゼット!!」
「私の署名は、もうこの院のものではありませんので」
頭を下げ返して、踵を返す。背中で何か言いかけた院長の声を、低い声が遮った。
「今後一切、彼女に近づくことを禁ずる」
いつの間にか、門柱の陰に閣下が立っていた。
「ここで去るか、私に切られるか。選べ」
そういって、帰っていったオルコット家の人々がそれからどうなったのか、詳しくは知らない。
数年後、噂だけ聞いたのだが、院はつぶれ、物乞いに堕ちたらしい。
そして妹は髪を丸刈りにされて…………まだ牢屋の中にいるらしい。
ところで。
新しい職場には、ひとつだけ妙なことがある。
団長閣下が、よく怪我をするのだ。
完全無欠、剣聖記録三つの人が、である。それも決まって軽傷で、決まって夜で――あとで気づいたのだけれど、決まって、私の夜勤の日だった。
「新兵の打ち込みを素手で受けたと聞きましたが」
「ああ」
「先週は演習で崖から」
「部下を庇った」
「その前は模擬戦で頬を」
「……油断した」
「閣下が、油断? ドラゴンですら道を開けるのに?」
「私も未熟ということだな」
「怪我と油断が、私の夜勤の日にだけ重なるのも?」
「…………偶然だな」
嘘の下手な人だ、と思う。思うだけで、その先を考えると、なんだか胸の奥がそわそわして、やめてしまうのだけれど。
その夜も、閣下は運ばれてきた。演習帰りに肩を裂いたという。診察台に座らせて、私は湯を沸かしに廊下へ出た。
角の向こうから、押し殺した笑い声が聞こえたのは、そのときだ。
「団長、また無茶な仕事したんですか」
テオ様の声だった。すっかり歩けるようになったようで、いつもの軽口混じったあの調子のいい声だ。
「し、仕方あるまい。そ、それにこの程度の軽傷……大したことはない」
「ならリゼットさんに見てもらう必要もないっすね。帰ります?」
「……い、いや……一応見てもらいたい」
「団長、一応言っときますがぎりセクハラですよ」
「――!?」
「リゼットさんに治療されたいがためだったら、結構やばめです」
「や、やばいか」
「やばいです」
笑い声が、遠ざかっていく。
私は、沸いてもいない湯を持ったまま、しばらく廊下に立っていた。
処置室に戻ると、閣下は診察台の上で、いつものように背筋を伸ばして待っていた。
肩の傷。裂傷。深くはない。深くは、ないが。
「……また、ですね」
「すまない……その……本当に」
なんだか叱られた子犬みたいだ。
「まったく……いつもいつも、こんな怪我ばっかりして」
糸を結ぶ。鋏を置く。
しゅんとなって可愛い世界最強。ほんの少し意地悪したくもなる。
「もしかして私に会いたくて、怪我してるんじゃないでしょうね?」
返事が、なかった。
いつもなら「馬鹿を言え」のひとつも返ってくるのに、何も。
不思議に思って、顔を上げた。
――閣下の顔が、真っ赤だった。
完全無欠の騎士団長様が。剣聖記録三つの人が。無口でクールで、法廷ひとつを声だけで黙らせた人が。耳の先まで真っ赤にしている。
「次からはわざとした怪我は治療しません! そんな理由でこられても迷惑です!」
「そ、そんな!?」
絶望した表情の団長。
だから、私は優しく微笑んだ。
「だから次は、ちゃんとあなたの想いを伝えてください。そしたら私は……」
この人の好意に、私だってさすがに気づいている。
変だとは思うが、さすがにここまでされれば気づいているが、会うために怪我をされてはたまったものではないから。
だから話したい。会いたい。というのなら食事にでも誘ってほしいと言うつもりだったのだが……。
「…………け、結婚してほしい!」
やっぱりこの人、ちょっと変かもしれない。
でも、私はふふっと笑った。
世界最強なのに、真っ赤な顔で私の言葉を震えながら待つこの人がとても愛おしい。
「はい、喜んで」
いかがでしたでしょうか。
初心者ですが、こういった短編を書いてみたいと思い筆を執りました。
面白かった! と思っていただければ、よければ評価とブクマを頂けると幸いです。
また次作を出してます。よければ読んでくれると嬉しいです!
婚約破棄された傷物令嬢を溺愛する編集者は、実は隣国の王子でした。
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