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昼間、差し込む日に暖められて浮かぶ陸の空気を追いかけるべく、海の空気が風となると、中学受験の理科で習いました。開いたドアから風が流れ込んできたのも、同じ理屈で説明出来るかもしれませんし、そうじゃないかもしれませんが、少なくとも、少女二人が語り合った(車椅子の方が一方的に喧しかった)部屋は、廊下よりも温度が高くなっていたのは間違いないでしょう。
盈さんが帰ってきた。時刻は五時を超えています。あっという間の三時間弱でした。なぜか疲労困憊の様子のデルタに、ふとイタズラ心が湧いて、額にえいやと、デコピンをかまします。
ヴァッチコーン!
「ただいまです、都さん。今、至近距離で雷が落ちたような音がしましたが」
「お帰りなさい盈さん。雷とは穏やかではありませんね。外はこんなに晴れていて、黄金色の夕方なのに」
「おや、そこでピクピク痙攣しながら伸びているのは、魂風さん?」
「もう、デルタったら。ノリが良いのは嬉しいですが、反応が大げさ過ぎますよ。チョコンと小突いただけなんですから。ほら、早く起きて」
「チョコンではなかったですよ。都さん。ヴァッチコーン! でした」
「……はっ! ここはどこ? 私は誰?」
「記憶喪失のテンプレートをなぞってらっしゃる」
「学業の方は昨日からスッカラカンでしたよ」
「ベータ? ベータ! ベータが、生きてるっ!」
「ここ二日の記憶は飛んでそう。軽い健忘でしょうか」
安静にしておくようにと、盈さんに付き添われて去るデルタ。大丈夫でしょうか。心配です。ひょっとすると、学業の方がスッカラカンなのも含めて、月の紛い物のせいだけでなく、実験の後遺症かもしれません。だとすれば、クソジジイが地獄で償うべき罪科も、また一つ積み重なっちまったってことですか?
メシウマ。百均の粗挽き胡椒もスモーキーに、食後の安いドリップコーヒーすらフルーティに感じるでしょう。
盈さんが再び戻ってきました。そして、堅苦しくはなく、さりとて部屋着には似合わない服から脱し、ラフな格好に着替えます。彼女のもたれかかった回転椅子のキャスターが、藍色のカーペットへとわずかに沈みました。カーキ色の半ズボンから伸びる足はだらけ切っていて、私の理想的淑女像からは程遠く、注意すべきかと悩みます。しかし、本日の彼女は間違いなく精神を消費し尽くしていて、こうなるのも仕方がないかと、溜息を吐いて諦めました。
「都さんが元気になって、とりあえず良かった」
盈さんは言いました。
「あの吉谷という刑事さんから、何か聞けましたか?」
「はい。先輩は、私にお祭りを託されたようで。朧煙文化祭のすべてを呑み込む勢いで頑張りたいと、一念発起したのです」
「良いですけれども、後始末をする私の身にもなってください。ブレーキとアクセルの区別はつけてくださいね」
「アクセルはともかく、ブレーキなら自信がありますよ。車椅子のおかげです。ブレーキを駆使しなければ、最高速度は保てない」
「至言ですね。教室で同じことを言ってみてください。窓から放り投げます」
「私より、盈さんの元気ですよ。生徒が一人亡くなった。濡れぼそった鴉の羽のような悲嘆と、非日常から日常へと回帰させようとする労働業務の圧力との狭間で、潰されてしまわないかとヒヤヒヤします」
「表現力は大人顔負けですね。世界史の成績も、芸術的感性もカスなのに」
「言葉を選んで社会科教師」
歯に衣着せぬどころか、剥き出しの犬歯で噛みついてくるような物言い。半身不全の身でなければ、すべての恩を忘れて殴りかかっていたところです。世界史の成績が悪いのは、時と場所の次元において縦横無尽に広がる情報の海の中、ただでさえアップアップなのに、あなたが重箱の隅をつつく問題を出すからですし、芸術的感性に至っては、ニヒリズムとフェティズムが渦を巻き、中心点で対消滅してビッグバンを引き起こしております。
「隙あらば足を生やそうとする芸風はやめてください。世界観ゲジゲジか」
「耽美でしょうが。健康で肉付きの良い足がたくさん生えていた方が。……これから食堂に行きますけれど、盈さんはどうします?」
「外食してきます。そういう気分なので。プリンも買ってきますよ」
「わあ。ありがとうございます♪」
野々島さんのほか、呉林さん、相田さん、上西さんといった仲の良い寮生たちと合流し、下味の生姜が利いた竜田揚げをライスとともに平らげました。彼女たちに手伝ってもらって、共用風呂で汗を流します。
上階に向かう友人たちを見送ってから、自室の扉を開けると、机の上にプリンが載っているのを確認しました。生クリームを纏うちょっと贅沢なやつ。備え付けのユニットバスからシャワーの音が聞こえます。
プリンマジで美味しい。
パチリと切られるドライヤーの電源。服を着る盈さんに、先ほど伝え忘れていたことを申告します。
「明後日の土曜日、デルタを連れて、住宅地の美容院に行ってきます。髪があまりにもボサボサだったので。盈さんのトリートメント技術を信用していないわけではないですが、まずはプロにと」
「了解です。楽しんできてくださいね」
時刻は午後八時半前。眠くならないうちに宿題をやっておかなければと、英語の教科書と課題プリントを取り出します。単元は、形式主語のit。意味通りでは主語が長くなる文について、お飾りのitを敢えて主語に据え、本質的主体を後に持っていくことで体裁を整える技法です。頭でっかちになるのを避け、代わりに下半身を力強くする。中々、私好みのやり方と言えるでしょう。
机と向き合って、三十分ばかり経った頃。
「生徒の勉強を邪魔するのは、いち教師として心苦しいのですが。就寝前に、都さんとお話ししておきたい事柄があります」
「? なんでしょう」
腕を止め、彼女の方に振り向きます。私が内容の理解に苦悩していることが明らかな時以外で、盈さんが勉強中に喋りかけてくるのは、かなり珍しい。私を拾って元の仕事をやめて、大学時代に取った免許を掲げて教員になってからずっと、彼女は「教師であること」を常に心がけています。
真面目な人だから。
「魂風美澄さんの人となりについて。今までは、生存は絶望的と伺っていて踏み込めなかったのですが、聞かせていただけませんか? この、忌まわしき人体実験を手がけた曽祖父の、曾孫に」
彼女の心を蝕む罪悪感は、教師としての信念を曲げるのに十分な理由のようです。身内が起こした事件だからと、加害者側として責任を取ろうとする彼女であれば、当然、実験体の一人であるデルタのことも気に掛けるでしょう。
あなたが負うべき罪ではない。私は何度も言いました。しかし、連座制であった頃の記憶が遺伝子に刻まれているのか、頑として譲らないのです。
「第一に挙げるべきは、臆病という性質でしょうね」
とはいえ、クラス担任への転校生に関する情報提供は、出来るのであればやるが吉でしょう。生徒の性格を把握し、誰にどのくらい注意を向けるかを考え、教室の環境を整備する。先生が果たすべき役割の一つです。頭が上がりません。ちょっとやそっとの補助くらい、きちんと熟してみせましょう。
「『ルナ・チルドレン』の九人では一番の引っ込み思案。自分から意見を述べることは基本ありません。性格が昔のままで、かつ私もいなければ、クラスで孤立していたでしょう。まあ、今は若干、太々しくなったようには感じますが。少しの異音や嗅ぎ慣れぬ匂いに驚く、ハリネズミを彷彿とさせる子でした。新しい調査の実施が通達される度に、不安そうな表情を晒していたものです。高圧的なクソジジイがミーティングに出現したらば、可哀想なくらい縮こまって、アルファか私が頻りに頷きかけてやらなければ、発狂していたのではないかと思う具合でしたね。しかし、シータなど後輩の発言が要領を得なかった時、咄嗟に代弁してあげる優しさもあって、だから皆、あの子のことが大好きでした。そこは強調しておきたいところです」
「なるほど。『防人都・2』みたいな子ではなさそうで安心しました」
「どういう意味じゃコラ」
「しかし、環境変化に対する耐性は、あまり強くはなさそうです。さりげなく見守ってあげるべきなのかな。表情の乏しい子ですから、不調のサインを見逃してしまいそうなのが、恐ろしい」
タブレット端末を取り、メモを走らせる盈さん。どうも、プロフィールリスト作成用のローカルアプリを使って、各生徒の特徴や素行を常日頃から記録しているようです。ご趣味、人間観察だったりするんでしょうか。
端末を操作しながら、彼女本来の口調で呟きました。
「ジジイのせいで親元から引き離された後、塞ぎ込んじゃったりしなかったのかな? 異常な環境がもたらす精神的抑圧によって歪められた結果の出力が、神経質な性格だった可能性もあるよね。優しさは溜め込みやすさ。植え付けられた経験が、今なお彼女の心をすり減らし続けているとしたら……、腹を切るしかない」
「物騒ですね。サムライじゃないのですから、曽祖父の罪で切腹しようとしないでくださいな! なァに、心配はいりません」
後ろ向きになる我が恩人の肩をバシバシと叩き、励まします。あなたが懺悔しても仕方がないと、いくら理屈立てて説明しても、彼女の深層意識に絡みつく錆びた鎖は解けそうもなく。ならば、荒屋盈が曽祖父、荒屋朔一郎が手がけた忌まわしき人体実験ごときで、ベータもデルタも不幸になったりはしないと、確固たる現実を見せるしかありません。
心は燃えていました。松柄さんが遺した檄文によって。可憐にして若輩としか言いようがない高校一年生女子と、二十にも満たない部員の手で、怪異研究展示・お化け屋敷・妖怪ファンタジー同人誌・ホラー系喫茶、四つのお祭り企画を遂行しなければいけないことを考えると、それはまだ、簡単なものであるかのように思われました。
「この私が倍にして取り返しましょう! 悪辣なクソジジイのせいで、失われた青春があったとしても!」




