表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ルナ・ベータ  作者: オッコー勝森
第一話 月隠す無情の雲
5/14

5


 盈さんの勧めで、校舎と女子寮が同じ敷地内に併設された珍しい公立中高一貫校「朧煙」に入学したばかりの時分。新しい環境に舞い上がる一方で、四年生から途中転入した小学校に最後まで馴染めなかった私は、ここでもそうなるかもしれないと、暗い未来予測に憂いを覚えておりました。

 新人教師として「朧煙」に赴任した盈さんが、業務から解放されるのは午後五時。彼女と合流するまでの間、「一人でいても平気な場所」を探すのが、あの頃の放課後でのルーティンでした。まあ、防衛反応ですね。元気に動き回れた昔の思い出に浸ることさえ出来れば、孤独にも耐えられる。グラウンドを健やかに走る少年少女を眺め、彼らの感覚を想像するのに最適なポイントを割り出すため、車椅子の車輪をグルグル回しました。

 グラウンドに降りる道には、高校棟横の階段とスロープのほか、体育館裏から伸びるなだらかな坂があります。二回目の体育でそこに当たりをつけた私は、帰りのチャイムが鳴った後に早速向かいました。途中、園芸部の畑には野菜の苗が植えてあって、当時の自分の姿と重ね合わせた記憶があります。

 坂の先に木陰を作る、背の高いハルニレの下にいたのが、中学三年生の松柄先輩(さん)でした。

 彼女の視線が何を追っているのか、私にはすぐ分かりました。


「いいですよね。足」

「……同志か」


 馬が合うとはこのことでしょう。すぐに意気投合しました。彼女から誘われるまま文芸部に入部し、当時は違うクラスだった野々島さんと仲良くなって、危惧していた孤立状態を早々に回避出来たのです。アルファやデルタたち八人の仲間と離ればなれになって三年、久しぶりに溶け込めた人の輪は、安らかで、温かいと感じました。

 足が繋いだ邂逅以来、松柄さんはずっと、私のことを気にかけてくださいました。親しげに「ミヤコ」と呼んで、学校から最寄駅までの買い食いスポットを教えてくれたり、勉強を見てくれたり、文化祭に向けた困難な準備でオロオロするばかりだった私に熱く指針を示してくださったり、漫画を融通してくれたり、共に夜遅くまでオカルト文献を調べたり、寮のテレビで駅伝を見たり、時には現地まで行って選手の力強い足を品評したり──まだまだエピソードはありますが、枚挙に暇がないので、一旦ここまでにしておきましょう。

 とにかく、私の楽しい学校ライフに、あの人の存在は不可欠でした。先達の頼もしい背中も、楽しむべき青春も、すべて、松柄さんから学んだのです。


 彼女と過ごした記憶が、氷のように固まって、ひび割れました。

 死んだ?

 松柄さんが?

 腕が強張り、思わず、車椅子の肘掛けを壊してしまいそうになります。


「嘘、ですよね?」


 いつの間にかカラカラになった喉から、ようやく私は、言葉を絞り出すことに成功しました。


「嘘なんですよね? 巻筒さん。ドッキリってヤツですか? うわあ、趣味が悪いですね。ひょっとして、文化祭の練習ですか? いやあ、ホラー物としてはすごくいい線行っていると思いますよ。しかし、あんまりびっくりさせ過ぎるのは、お客さまからのクレームが怖い──」

「マジだから」


 一割の苛立ちと、七割の悲壮感と、二割の同情が籠った返事でした。

 巻筒さんの声は低く、しかし圧はあまりにも高く、詭弁で覆すのは不可能だと悟りました。黙るしかありません。口の中がひたすら苦い。それは、喉の裏を染め上げる、真っ黒な煤の味。闇が臓器に侵攻して、制圧寸前まで暴れ回る様を幻視し、全身が機能不全に追いやられたかのように錯覚します。


「死体を見つけたのは私。正確には、私と福本、堀蔵、櫛長」


 入室時、様子がおかしかった三人の名前。


「昨日の夕方だった。一昨日から学校に来なくて、あいつの母親から帰宅してないって聞いて。嫌な予感がして探しに行った。福本たちに声かけて」

「どうして私には声をかけてくださらなかったのですか?」

「林向こうの丘が怪しかったからね。動ける奴らを集めた」


 納得します。学校敷地の横に広がる雑木林は所々ぬかるんでいて、事前準備なしに車椅子の私を連れて行けば、確実に足手纏いになります。

 林を抜けた先には開けた丘があり、空気の読めない雲がいなければ星が綺麗に見えるため、女子寮コミュニティでは「展望台」というお洒落な呼称が付けられています。


「北斗七星でも見たがっていたのですか? 松柄さんは」

「季節外れのお月見をしたがってた。正確には、『月にお願いしなくちゃ』と言ってたの。二日前、副部長(わたし)部長(あいつ)がこの部屋に来た時に」


 月にお願い。ロマンチストの彼女らしい。

 月はオカルト界隈では定番の神秘です。周期的に満ち欠けを繰り返し、潮の満ち引きに影響し、時に日を食らい、時に地球に食らわれ赤く染まるその天体は、科学と距離を置く人々にとって、不可思議かつ不安定な存在に見えるようです。人知に楯突く、超常の業を披露しかねない背徳的なパワーにあやかり、自身の選択を月の具合に委ねる人間は珍しくありません。古来から伝わる神話にも、月読命、セレーネ・ポイべ・アルテミス、マーニ、嫦娥など、月にまつわる神が頻繁に登場します。有名な竹取物語では、不老不死の仙人が住まう都のある天界として月が描かれておりました。タロットの大アルカナ、月のカードは、未来の不確実性を占おうとします。月とオカルトの関係は、切ったところで切れそうになく、癒着していると言っても過言ではないでしょう。文芸部、実質「オカ研」のリーダーを任せられるくらいにはその道に造詣の深い松柄さんも、月に夢見る物好きの一人でした。

 ここのスタンスだけは、私と彼女で決定的に違います。月なんて、地球に侍るデカい土の塊に過ぎないですし、そうでなければいけないのです。


「あの時あいつが残していったのが、サッキーの持ってる二枚の紙」


 視線を膝下に落とします。ホワイトボードに貼り付けてあった不審な紙は、松柄さんの置き土産だったようです。猥雑な線の塊が描かれたものが一枚、様々な文字が大量に書き込まれたものが一枚。両方とも、パソコンで仕上げられた資料の印刷物でした。怪しさ満点ですが、放り出して捨ててしまおうという思いは今後発生しないでしょう。


「ご遺体は、どのようなご様子でしたか?」

「丘の上で寝転がってた。傷とかはどこにもなかったように思う。糸が切れた人形のように倒れて、冷たくなっていた」

「……そうですか」


 しばらくの間、誰も口を開こうとしませんでした。

 私が生んだ沈黙でした。この身が立ち上らせる、鉛のように重苦しい雰囲気が、問題処理の権利を皆から奪っています。今日はこのままお開きにして、突然の訃報を咀嚼するための時間が部員に与えられるべきなのに、私がそれを邪魔してしまっている。

 ──どうしてあなたたちは、そんなに落ち着いていられるの? 巻筒さんたち先輩は、私よりもずっと付き合いが長いはずでしょ? なんで私みたいなのが他に一人もいないの? もっと、溢れる感情のまま、壊れるぐらい悲しめる空気を作ってよ!

 本音を堪えます。時間が許すまで、松柄さんとの思い出が詰まったこの特別教室にいたかったのですが、出て行かなければいけないのは明らかに私でした。奥歯を噛み締めて、車椅子を翻し、扉の方に向かいます。


「一人にさせてください」


 静かな廊下を滑り出すと、デルタだけが追ってきました。

 睨みつけました。ささくれ立った心に任せて。

 デルタはびくりと体を震わせて、立ち止まります。私は、逃げるように校舎を去りました。どうかしています。彼女は何も悪くないのに。間違っても、我儘で無関係の部活に連れてこられて、いきなり他人の死を聞かされた転校生にする仕打ちではありません。

 ごめんなさい、ごめんなさいと、心の中で何度も謝ります。かと言って、どう対応するのが正解だったのかは、さっぱり分かりません。

 世界は残酷です。せっかくデルタと再会したのに。松柄さんを奪うなんて。

 辿り着いた先は、松柄さんと出会ったハルニレの木。

 スポーツに励む少年少女たちをじっと眺めます。どのぐらいそうしていたのでしょうか。気がつくと、陽の光はすっかり平らになってきて、辺りは暗くなり始めていました。そろそろ寮に戻るべきです。しかし、胸に大きく開いた穴が理性の指令を妨害して、腕に力が入りません。


「防人さん。荒屋先生、呼ぼうか?」


 心配した様子で声をかけてきたのは、クラスメイトの湯ノ原でした。朝、圧をかけてデルタと席を交換させた男子です。インターハイで良いところまで行くと期待されるやり投げの選手で、先ほどまでジャベリックボールを使った投擲フォームの確認をしていました。足の肉付きは本学校で最も美しいのですが、私の印象をさりげなく尋ねた時、面と向かってゴリラ呼ばわりした失礼な奴であり、こいつにだけは敬称を付ける気になりません。

 中一の時、力加減に誤りが生じて鉄棒を曲げてしまい、慌てて修復した場面の一部始終を見られたのが痛いです。オカルト界隈でまことしやかに語られていた、怪しく胡乱な記憶操作の術をいっぱい試してきましたが、効果を発揮したことは一度もありませんでした。

 過去の騒動に思いを馳せると、少しだけ気持ちが楽になります。もちろん、それだけで苦痛は消えません。ぶっきらぼうに返します。


「いい。盈さんに迷惑ですから」

「抱え込まれる方が迷惑だろ。助けてもらえよ。というか、荒屋先生は防人さんの保護者で、助ける義務がある」

「まずは湯ノ原が騎士道精神を発揮して、私を助けようとするべきじゃあないですか。この甲斐性なし」

「裏門の方に、物々しいオーラを出してる警察がいた。もし、防人さんの絶望に彼らの登場が関わってるとすれば、悔しいけど、俺の出る幕じゃないよ」

「……文芸部の部長が、亡くなりました」


 湯ノ原を見ていると、耐えられなくなって、呟きました。


「松柄さんが……」

「えっ……? 松柄さんって、あの先輩だろ。よくこの場所に来てた人じゃないか。俺、何回か喋ったことあるよ。面白い人でさ。ジャベボールの形が爆弾を彷彿させるからって、俺のことボマーって呼んで。……嘘、だよな?」


 しばし呆然としたのち、湯ノ原の両目から、大量の水が流れ出しました。あの人たちと違って、彼はそうしてくれたのです。釣られて目頭が熱くなります。

 盈さんが迎えに来るまで、二人でずっと、ワンワン泣いていました。人がいなくなったグラウンドの、隅っこで。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ