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ルナ・ベータ  作者: オッコー勝森
第九話 春物 月下に渇く

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 青空の純粋さは、あるがままを楽しむ稚児の瞳のようだった。採掘場の出入り口を守る小屋の隣、地下へと潜った防人都の帰りを待ちながら、荒屋盈は、頭上に広がる絶景に心を打たれていた。社会科教師はデスクワークが多い。視界の焦点は九割がた卑近にある。ぼんやり眺められる空は、大いなる目薬の一滴となって、彼女の眼精疲労を対価なく奪い去る。ああこのまま、鳥になって羽ばたけそうだと、盈は鼻から深呼吸しようとした。


「ぶぇっくしぇえぃ!」


 まったく可愛くないくしゃみが、天近き台地の風情をすべて台無しにする。横に立つ二歳下の女を盈は睨みつけた。石黒家が雇っているらしき夏端という名前の使用人。一行の中で最もミステリアスな存在だった。不器用すぎて、その職に就けた理由が謎に包まれているという点において。


「夏端ちゃん、風邪引いたの? はい梅茶。あったかいわよ。飲みなさい」


 石黒家の送迎ドライバーを務める中年女性が、出来の悪い子供をあやすように言って、降ろした小型のリュックから銀色の水筒と紙コップを取り出す。水筒の口から注がれた艶のある赤褐色の液体から、ほのかな湯気が立ち上る。

「あなたもどうですか?」と勧められた。冬の真っ盛りにおける芯から凍るような思いとは程遠いものの、高地の風に当てられて、盈も肌寒く感じていた。「ありがとうございます」と礼を述べ、中年女性の名を呼ぼうとした途端、まだ紹介されていなかったことに気づいて口を噤む。


「熊淵ですよ。荒屋先生」

「熊淵さん。年配の方から先生付けされるほど偉い人間ではないですよ、私」


 生徒からであればともかく、その保護者からすら、たとえ「子供の」という意味だったとしても、先生と呼ばれることに強い違和感を覚える。盈は面倒な性格をしていた。「じゃあ荒屋さん」と、梅茶の入った紙コップを手渡しながら即座に切り替える熊淵に対し、盈は安堵する。コップを唇に近づけると、芳醇な梅の香りがした。味はスープと間違えそうなくらいに濃く、飲み込んだ後になって梅の甘みと茶葉の渋さが舌にすーっと広がっていく。


「あのお。都ちゃんって、すごい子ですよねぇ。完成度が高いというか。人生何周目? みたいに感じちゃいます」


 しみじみと呟かれた夏端の言葉に、盈は耳を傾ける。


「御影お嬢様、大人びててとっつきにくいなって今まで思ってたんですけど、都ちゃんにはめっちゃ懐いてて、もはや子犬じゃんっていうか。初めてお嬢様に共感しました。強い先輩って魅かれますよね。分かる」

「夏端ちゃん、ダメよ。思ったことを正直に言いすぎ。でも、車椅子をロボットの足に変える超能力見てからそれ言えるあなた、私は良いと思う」

「やったー褒められた!」


 喜色満面かつ無邪気に喜ぶ夏端を見て、こいつはずっと、愛嬌あるアホっぽさで世渡りしてきたんだろうなと盈は判断する。視線を熊淵に移した。彼女の方は、防人都の人となりではなく、その超自然的な力をより気にしているようだった。タネも仕掛けもない本物(・・)を披露されればギョッとするのも当然だ。盈は理解を示す。

 空になったコップにおかわりが注がれた。熊淵に尋ねられる。


「あの女の子のこと、石黒家に教えて良かったのですか?」


 細かくなった梅の果肉が茶の中で舞う。熊淵の質問からは、あなたなら防人都を止められたのではないかと盈を咎めるニュアンスが感じられた。勤続三十五年目のドライバーは、隠し事の共有相手としては勤め先を信用していないらしい。盈は訝しむ。石黒黒乃の翁には、妖怪のような雰囲気はあるものの、防人都に害をなし得る社会的な圧力を漂わせはしなかった。積極的に関わるべき人物ではないかもしれない。しかし、表に出せない困り事の相談相手には、むしろ適切であるとすら評価している。

 それに、と盈は思考を続ける。親しい先輩が謎の死に様を遂げた。そして、自分だからこそ死因を暴ける可能性があると悟った都を止める術など、自分は持ち合わせていない。


「都さんの秘密に関わる情報の開示は、あの子自身の裁量に委ねてますから」

「しかし彼女は、選択の責任を負える大人ではありません」

「火の粉が降りかかったら、大人の私がすべて請け負わせていただきます」


 それで汚名を被ったとしても、どうせ、自分の命は残り短いので。盈は心の中で告げたが、口語にはしなかった。言っても余計な心配を掛けるだけだろう。何より、悲劇のヒロインぶるのはダサいという矜持もあった。

 小屋の中から、カン、カン、カンと、金属を蹴る音が響く。地下の採石場から都たちが帰ってきたのだろうか。盈は小屋の扉の方を覗く。勢いよく飛び出してきたのは、石黒家の二人だった。生まれたての子鹿のようによろよろとして、呼吸は荒く不規則で、冷や汗の滲む全身を震わせている。どう見ても尋常の状態ではない。盈は、教員になるための実習で、パニックに陥った人を落ち着かせる方法について学んでいた。二人に駆け寄り、「あなたは大丈夫です、冷静になって落ち着くことが出来ます、深呼吸をしてください」と繰り返した。一拍遅れて現れた熊淵と協力して、老人と少女を壁にもたれかけさせた。都について聞きたかったが、盈は我慢する。パニックが再発するかもしれない。

 取り出したタオルで汗を拭く熊淵に対し、黒乃は弱々しく礼を言う。一方、同様の処置を施す夏端に御影は反応せず、宙の一点を見つめている。


「石、削りたい」


 突然口を開いた御影に、夏端はびくりと驚く。頭を跳ね上げ、長い黒髪をぶわりと靡かせながら、少女は叫んだ。


「インスピレーション! 半端なかった!!」


◇◇◇


 黒乃さんが作った月の紛い物(・・・・・)のミニチュア、それを核に蘇った朧煙の怪異──「月の使者」が「つきがむら」と呟いた矢先の出来事でした。

 は?? となります。クエスチョンマークに知性を追いやられ、思考がフリーズしそうになりました。

 懐中電灯とヘルメットのライトのみを光源とする洞窟が、開けた明るい場所に様変わりしたのです。明度のギャップで瞳孔が痛いのと、あと戸惑いによって閉じそうになった瞼をこじ開けます。

 テレポート、というヤツでしょうか。移動させられた感触は一切ありませんでした。眼球を転がして周囲の把握に努めます。


 なんだこれは?


 足元を眺めます。漆黒に白い(いかずち)の混じる大地は、石黒家が供給を独占する黒大理石に似ていました。されど、こんなの(・・・・)を見せつけられればあんなの(・・・・)は模造品に過ぎないと思うくらいには迫力が段違いです。

 圧巻の大地は、前後の方向にはどこまでも続く一方、左右は途中から盛り上がり、切り立った崖となっています。崖の上からは、数え切れないほどたくさんの純白が落ちておりました。それらの川の流れは、高低差からは信じられないほどゆっくりで、光沢のある滑らかな絹が連想されます。

 いいえ違う。よく目を凝らせば、川は流れていません。真っ白な絹を紡ぐ粒子の群れが、計算された振動と振幅の組み合わせによって、液体が落下しているように見せかけているだけです。

 無彩の妙技は、私に直感を導きました。すなわち、私が今いる空間は、「月の使者」が持つ「発受信体(ラジオ)」の能力によって形成されている。

 背筋の生きている部分に走る悪寒。ゾクリとします。いったいぜんたい、「月の使者」の力をどう扱えばこのような馬鹿げた魔術が可能になるのか、さっぱり分からなかったために。


「適性最高とはいえ、『月童(ドウ)』のそなたにはちと刺激が強いか?」


 男性的と女性的、双方の性質を併せ持ち、故に打ち消し合う声が、背後から聞こえました。

 戦慄します。環境転換時から数秒だけ、注意が分散したのは確かです。しかし、正面にいた彼または彼女にも、意識はしっかり割り振っていました。まさか不覚を取られるなんて。もし攻撃されていたら、またもや修復に時間のかかる傷を負わされていたに違いありません。

 どうにか後方への肘打ちで反応します。七年前より遅くて重い。身体の成長は+1。不自由な下半身を補助する車椅子改造ロボットの動作がワンテンポずれる、戦闘ブランクが長いで−2。合計−1というイメージです。

 小柄な月の使者には、半歩分の後退だけで簡単に回避されます。


「しかしまあ、荒療治も必要であろう。そなたは月を舐めておった。軽んじておったのだから」


 黙れ。彼または彼女の不愉快な指摘は、心の奥底で燻る炭火への冷や水となりました。認められない。私は月が嫌いです。盈さんを苦しめた月は嫌いです、クソジジイをクソにした月が大嫌いです。月は、ただ、夜空にぽつんと浮かぶ土くれでなければいけません。このような、地球の法則を書き換えるような出鱈目な力の運用など、あってはならないのです。

 下がる「月の使者」に追撃を仕掛けます。ヒラヒラ躱される。

 しかし、舞ってる間に、戦闘勘がどんどん戻ってきました。「発受信体(ラジオ)」を活性化させます。筋肉を細かく震動させて、柔軟性を引き上げました。衝撃相殺の波をオートで発生させ、実質的な身体強度を限界まで高めます。そうして、一歩一歩の距離、一撃一撃の威力が、指数関数的に上昇していきます。


「温まってきたな」


 不敵に笑う「月の使者」。

 咄嗟に頭を引きました。大地に走る白い雷が、一筋の光線となり、鼻頭を掠めました。先ほど私の心臓を抉った攻撃です。光線は足場と崖から、次々と迸りました。高速で逃げ回ります。一部のビームは「月の使者」に当たりますが、彼または彼女には無害なようで、意に介する様子はありません。私なんか、紙一重で避けたとしても灼けそうなぐらい熱いのに。狡すぎませんか?

 刹那、脊髄と足の補助ロボットの接続が遮断されます。慣性で放り出された私の体を、幾多もの光線が貫きました。激痛によって肉が縮み、地べたを無様に転がります。ロボットの制御権はすぐに戻ってきました。つまり、脊髄下部を刺すコネクトチューブが切れたわけではない。

 なのにどうして?


「その絡繰、随分力を馴染ませたようだ。全壊させるつもりで干渉したが、さすがに無理があったか」


 傷だらけの私を見下ろす「月の使者」が、余裕綽々に言いました。

 あまりにも呆気ない敗北。光線の雨が止みます。


「どうだ? 月の力は凄かろう?」


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