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ルナ・ベータ  作者: オッコー勝森
第八話 空っぽの 月

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 少女アルファが現れた途端、部屋の空気が変わりました。彼女はこちらを鋭く見据えてから、正中線を地面に対して垂直に保ったまま、厳格に定められた道筋があると錯覚させる歩行で円卓に向かってきて、細かく引いた椅子の上に深く腰掛けました。そして、力強い瞳がもう一度私を捉えます。

 ああ、美しい。アルファの所作を見て、育ってきた世界がまるで違うと私は感じました。私と彼女との間には、人としての格に大きな隔たりがある。この人は会得している。薄暗い部屋の端っこにて私を人にしてくれた本の文章の、見えない行間に有った美しさを。

 不思議になります。なぜ私が、こんな立派な女の子と同じ卓に座っているのか。日向と日陰。勝者と敗者。顔がカアっと熱くなり、恥ずかしさに縮こまりました。この時なのでしょう、自分のというか、自分を紡いできた諸々の様々な惨めさを、私が初めて実感したのは。

 複数の大人たちが忙しなく動いて、円卓の上にお皿を置いていきます。ガラスのコップも水も、とても透き通っている。硬くなってなさそうなパンは初めて見ました。ふわりとした香りが鼻腔をくすぐり、ゴクリと喉を鳴らします。パンの横には、銀色の包みがありました。チーズでしょうか。何ピース入りかのそれをお母さんが買ってきた時、一ピースだけ偶にくれました。

 ハッとして、朝食に吸い寄せられていた意識をアルファに戻します。差し出されたパンのことも、準備をしてくれている人々のことも、彼女は意に介していませんでした。その程度、特別なことではないのでしょう。彼女はただ、正面の私にのみ集中しておりました。

 更なる劣等感が募ります。


「おめでとう、ベータ」


 配膳の音が止むが否や、祝福の言葉が投げかけられました。


「あなたは、世界を組み敷く支配者の一人に選ばれたの。私と一緒に」


 言葉には自信が満ち溢れている。意味が分かりませんでした。私があなたと一緒ですって? そんなわけがない。あなたと違って、私は祝福されていない。

 支配者に選ばれたの方には、あまりに現実味が薄くて、正負の符号が定まった反応は出来ませんでした。しかし、だからこそ問います。


「私たちに眠る新たな可能性とは、この世界を変えることが出来るものなのでしょうか? アルファ、さま」

「様付けなんてしなくていいわ、ベータちゃん。あなたたちは同列なのよ」


 後ろからそう仰ったのは、昨晩私の世話をしてくれ、かつ、私をこの部屋に連れて来たお姉さんでした。アルファはムッと眉根を曇らせます。向こうは「さま」を付けて欲しかったようです。お姉さんから「アルファちゃん」と窘められて、少女は肩を竦めました。二人には、年月を経た繋がりがありそうです。


「ひいお爺様が言ったのよ」


 アルファが得意満面に答え始めます。


「はるか昔、一万年以上前。地球のチャチなルールに縛られた雑魚たちは皆、膝を曲げて傅いていたの。月に見初められた上位者、『月の使者』たちにね」

「月の使者、ですか?」

「ええ、そうよ。チャチなルールを捻じ曲げるスーパーパワーの持ち主、人間の進化形! 私たちはその『月の使者』の卵なの! すごくない? このプロジェクト『月嫡再臨』で訓練して、新しい『月の使者』になって人類社会の最上に蘇る(・・)。目的を見失って泥沼の底に沈みつつある雑魚どもは、颯爽と現れた私たちを旗印として崇め奉り、『月の使者』をトップに据えた体系を構築・維持するための歯車に自らなるの! そうして世界は救済される。近いうち、彼らは思い知る。人類が誰のために文明を準備してきたのかを!」


 つまり、私たちに眠る新たな可能性は世界を変え得るものであり、異質な力の保有者である私たちを人々は信奉すべきだとアルファは主張しました。質問の回答を受けたところで、相変わらずスケールが大きすぎて、荒唐無稽とすら思います。しかしアルファは、語った予測を信じ切っておりました。それを誇大妄想としない根拠が、「月の使者」の力にあるのかもしれません。

 頑張ろう、と決意を新たにしました。アルファの言う人々の中には、当然お母さんも含まれているはずです。私にも適性があるらしい特別な力で世界を救えば、お母さんもきっと、私を全面的に褒めてくれるでしょう。

 追加で一つ、不審に感じた点を尋ねます。


「あの。どうして『月の使者』たちは、スーパーパワーを持っていたのに、世界からいなくなってしまわれたのですか? 私たちが新しい『月の使者』として『蘇る』とは、すなわち、大昔に一度滅んでしまっているということですよね?」

「いい質問ね。12000年前に月の魔力がいきなり消えて、その変化に耐えられなくて肉体を失っちゃったらしい。でも、月の魔力はもう戻ってて、だから私たちは『月の使者』になれる」

「え? ではまた、()力とやらの消失が発生したら」

「安心して。起きると分かってれば対処出来るってひいお爺様も言ってたし。それより、パン食べないの? 冷えて不味くなるわよ」

「そうなのですか? 柔らかいパンにも、美味しい不味いがあるのですね」


 アルファが銀の包みを開けました。真似します。入っていたのは白い塊で、やはりチーズのようでした。そのまま齧ろうとすると、慌てた様子のお姉さんに止められます。これは「バター」と言い、鋭くないナイフでちょっとずつ切って、パンに付けていただくものとのこと。アルファはポカンとした顔で、事態の推移を見守っていました。

 空になったパンのお皿が下げられ、焼いた魚のプレートに取って代わられました。食欲をそそる暴力的な匂いに理性の歯止めが利かなくなった私は、魚を手づかみで食べようとします。「ふくっ」とアルファが鼻を鳴らしました。もう堪えられないとばかりに、高らかに笑い始めます。彼女の声が部屋中に響きました。

 あっ、この食べ方は間違ってるんだ。私は魚から手を離し、俯きます。

 視界がぼやけました。


「まど──アルファちゃん。品がないわよ」

「だって、お喋りはすごくちゃんと出来るのに。バランスが取れてないんだもん」

「もう……、ベータちゃん。お作法については、ゆっくり教えてあげるから。今は私が食べさせてあげる。とりあえず手を拭いて」


 コクリと頷くほかありませんでした。

 朝食をどうにか無事に済ませて、昨夜から私の部屋になった場所へと帰る道中、お姉さんは「まあ良かった」と安堵の溜息を吐きました。


「あの子、ベータちゃんのこと気に入ったみたい」


◇◇◇


 夥しい出血が、石黒家の秘密基地を赤く汚します。


「きゃああああっ!!???」


 甲高い悲鳴が、縦方向の出入り口がある以外はほぼ密閉空間の採石場に響きます。とてもうるさいです。併せて、ドサリというノイズが騒めきました。驚愕と恐怖によって押し倒された御影さんが尻餅を突いたのでしょう。推量の形で語る理由は、首を使って振り向いて彼女の状態を確認するのは極めて困難だったからです。心臓を焼かれて転倒してしまった私には。

 少し遅れて、黒乃さんがいた方向から、岩盤を靴の踵で擦り、次いで背中を壁にぶつける鈍い音が鳴ります。「なっ、なっ……」と言葉にならない声で喉を震わせている。人を殺傷せしめる明確な攻撃を目の当たりにして、ひどく混乱なさっているようです。この唐突な暴挙は、彼らが仕組んだことではない。黒乃さんは、夢のお告げとやらに盲目的に従って、言われた通りに月の紛い物(・・・・・)のミニチュアを作っただけ。言った奴、つまり、台地に潜む化け物が犯人。

 そいつが今、ミニチュアを媒介にして、現世に顕現しようとしている。

 まずい、まずい、まずい!

 直感がレッド・アラートを発します。こんな品位に欠ける器を欲しがり、そして、長年に亘って滅びることなく大地に根を張り続けられる知性体なぞ、心当たりは一つしかない。

 化け物の正体は、多分──っ!

 やばいとしか言いようがない、絶対に世に出してはいけない! 黒乃さんでも御影さんでもどちらでも構わないからと、一縷の望みを懸けてミニチュアの破壊を命じようとしました。とはいえ、心臓が貫かれたなら、当然ながら左の肺もやられているわけで、口から出てきたのは、鉄の味がする血反吐だけでした。

 クソがっ! 右胸の「発受信体(ラジオ)」を叱責します。さっさと傷を修復しろ、この役立たずが!

 誰のヘルメットライトも、ミニチュアを照らしてはおりませんでした。黒乃さんが掘削場の隅に設置した、二つのゴツい懐中電灯だけが、薄気味悪い月の像に光を当てて、粗くはあれど磨かれた足場の岩盤に、二本の細長い影を作り出していました。

 影が濃度を犠牲にしながら、削られた跡が残る壁へと急発進し、瞬く間に天井まで上り詰めます。その現象は、ミニチュアが重力に逆らい、地面を離れて飛翔した証でした。私の胸から流れた血液が後を追うかのように浮上します。大きな楕円形の影が、ぼんやりとした暗い川を吸い込んでいく。

 三十秒かけてやっと、腕で上体を支えられるぐらいにまで回復しました。喉に溜まった血を咳で撒き散らしたのち、背中の筋肉で首を反らして、空中に揺蕩う不遜な石ころを睨みつけました。怒りで脳が沸騰しそうです。

 心中で罵倒します。お前たちはもう、はるか昔に終わった存在だろうが。今更出てくるな、この儚くも美しい俗世に。土着の法則に縛られた普通の人たちが織りなす愛らしい社会の均衡を、お前たちは踏み躙るだろう。松柄さんがいなくなっても、盈さんや野々島さんたちがいる、私にとってかけがえのない居場所も。デルタやガンマ、他の「ルナ・チルドレン」たちと久しぶりに会って、憂いなく遊べる場所も。

 実を言うと、松柄さんが遺した暗号を湯ノ原が解いた時から、嫌な予感はあったのです。でも気づかないフリをした。だって、彼女の死が、私の数奇な運命の第二ラウンドを告げる鐘の音だとしたら、防人都は、不幸な瑠奈(ベータ)に引き戻されてしまう。

 嫌悪たっぷりに呟きました。クソジジイが願った超常にして、この世で最も不要な老害たちの呼び名を。


「『月の使者』……」


 黒い球のミニチュアが、徐々に複雑な形を纏っていきます。無数の筋が緻密に編み込まれ、心臓となりました。ドクンと拍を刻みます。肺と気管支、胃と腸、肝臓膵臓腎臓、脳。肉が付く。(にくづき)。「月の使者」は、私の血だけでなく、周囲の大理石も吸収しておりました。それらは黒い骨となります。

 やがて「人」が完成しました。十歳くらいの子供の姿でした。容貌は中性的で、裸でしたが性別を象徴する器官はなく、男か女か分かりません。素足で床に降り立った彼または彼女は、ゆっくりと瞼を開き、這いつくばる私を見下ろしました。視線に混じる色は愉快、好奇と興奮。

 口が開きます。


「待たせたな。軛の星よ。太陽暦なら12000年ぶりか?」


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