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お母さんと一緒に住んでいた部屋はとても汚くて、まず、お母さんが通らない部分をちょっと擦ると、毛や垢を含む細かい埃と発泡スチロールの欠片が皮膚に積もりました。手で持てる大きさのゴミはなるべく拾っておりましたが、ビニール袋が手に入るまでは、端の方に置いておくほかありませんでした。お母さんが外食せずに、お弁当を袋付きで買ってきた時が好機です。限界まで圧縮したゴミを詰め込んで、親切な看板から教えてもらった曜日に指定の箇所へと持参します。黒い虫さんは頻繁にトコトコやって来てました。食べました。飢えをしのげて幸せになったからです。ユニットバスやキッチンは、臭いのある汚れを髪や掌で拭き取っていました。
服は、お母さんが着なくなった上着を被っていました。恥ずかしくも下着は履いていませんでした。夏は暑く、冬は寒かったです。お母さんの机と椅子はありましたが、私のための特別な空間はありませんでした。ガラクタが雑多に並べられた棚の横、平積みにされた本の隣が私の定位置でした。お母さんのお布団は使わせてもらえなかったので、床の至る所に散乱していたお母さんの服とバッグ、あと紙袋の寄せ集めの上で寝ていました。
「まだ生きてるの? 瑠奈。どこでも自由に行けばいいのに」
平均して二日に一回帰ってくるお母さんは、「ダメ」な日には不機嫌にそう言い放ちます。フルフルと首を横に振りました。数を扱う素養のあった私は、小さくて弱い自分が、夜になれば途端に治安の悪くなる外で生きていられる確率の低さを感覚的に理解していたのです──日本がそういう場所ばかりではない事実を知ったのはかなり後のことでした。あの日のお母さんは、ダメな中でも特段の最悪を引いていたようで、判然としない理由からキイキイと私を責めて、挙句の果てに足で蹴ってきたりカッターで切ってきたりと大暴れでした。
偶には構ってくれたのですが。昼の短いお散歩に付き合ってくれました。一度だけですが、一緒に、虫さんより不味いチーズを作ったこともあります。まあそれで調子に乗って、私が自身の特性であるお喋りをお母さんに発動させると、「賢しげに!」とぶたれて全部台無しになるのですが。
狭い世界のそれらすべてが、当時の当たり前でした。
「あんた、しばらく預かってもらうことにしたわ」
七歳の誕生日を一ヶ月前に控えた頃合いでした。机で爪の手入れをしていたお母さんから突然宣告されました。不安に駆られて泣きたくなりましたが、蹴られたくなかったので我慢しました。
「才能がある? とかで、あんたに協力して欲しいんだって。堅物そうな爺さんだったし、あんたはチビでやせっぱちだから、夜職のスカウトではなさそう。もし、見込み違いで才能とやらがなかったとしても、上目遣いで肉棒舐めりゃ踏ん張れるかもだし、簡単に諦めないでね。あ、爺さんは機能死んでると思うから、他の男を狙って」
珍しく多弁で、かつ意味不明なエールの翌日、外に出たらよく見かけたデカくて強そうな塊「自動車」に乗せられました。前の席にはお爺さんではなく、お母さんより歳上そうなおじさんが座っていました。半日の旅路の末、目的地に到着します。おじさんがハンドルを止めてすぐ、すごい勢いの水が窓を叩きつけました。雨かと思いましたが、おじさんに聞いたところ、車の汚れを落とす専用のシャワーだそう。次いで、景色がゆっくり上がり始めました? いいえ、私の方が下がっておりました。ジリジリとする浅くて弱い振動が収まったのち、窮屈なシートベルトから解放されます。道中でたくさんのおにぎりをいただき、しかも食べている間以外はほとんど眠っていたので、車から降りた時には、かつてないぐらい元気になっていました。夜だったにもかかわらず。
私の側にいる人が、おじさんからお姉さんに代わりました。お母さんと同年代の人です。「お部屋を案内するね」と言われます。「何のお部屋ですか?」と問うと、彼女は面食らったような表情をしてから、少し屈んで「あなたが暮らすお部屋よ」と教えてくださいました。「お母さんの机」みたいな、私の特別なスペースがもらえるということです。とてもドキドキします。連れて行かれた先は、お母さんの部屋と比べて面積は五から六倍、天井の高さは1.5倍ある、ちっちゃな私には勿体無いぐらい良い部屋でした。室内の模様は机、時計、四本足の布団と衣服を掛けるための台だけで簡潔にまとまっており、床には埃ひとつありません。人が住む空間というのは、なんかこう、無数の要素が雑然とぶちまけられているようなイメージがあったので、固定観念が覆されてびっくりしました。
「トイレは右手前のドア。右手奥のドアを潜ると洗面台があって、その横にお風呂があるの。キッチンは付いてないよ。ご飯は私たちが用意するからね」
「お風呂とトイレが分かれているのですね。トイレ掃除をしてからお風呂に行く時、こけないよう気をつけないとです」
「ねえ、待って。それはどういう心構え?」
「トイレ掃除は重労働で、全身が汚れます。お姉さんくらい大きかったら、掌だけで済むのかもしれませんが……、汚れた私がこけたら、この綺麗なお部屋も台無しになっちゃいます」
お姉さんはトイレのドアを開け、先に丸っこい物を纏う棒を持って出て来ました。殴られるかと思って身を固くします。お姉さんは棒を振りかぶったりはせず、敵意も感じず、ホッと安心して警戒を緩めました。
「柄付きスポンジ。自分で掃除したくなったらこれを使ってね。でも、私たちスタッフが定期的にあなたたちの部屋を清掃するから、そんなに汚れないと思うんだけどね」
お姉さんとお風呂に入ります。我流の洗い方では老廃物を除去しきれていなかったらしく、より洗練された方法を伝授されました。新品の下着と「パジャマ」を被せられてから、歯磨きについても教えてもらいます。「体臭が薄くて良かったね」と言われました。ボサボサだった髪も、ハサミで整えていただきます。
「念の為、サンプルとしてもらってもいい?」
切った髪について、提出を求められました。召集された理由は人類の新たな可能性に挑戦するための実験だと行きの車で聞かされていたので、拒絶する権限はこちらにないだろうと思われ、素直に頷きました。髪の欠片をお湯で流された後、うとうととした眠気に襲われます。やんわりと手を引かれ、四本足の布団「ベッド」に寝かされました。優しい布に包み込まれます。明後日に身体検査があるものの、明日の用事はないそうです。物心ついて初めて、何の憂いもなく熟睡することが出来ました。
ぼんやりと見た夢の中では、千々に分裂した私に、たくさんの期待に満ちた視線が送られておりました。あまりに熱烈な歓迎に、心の底から嬉しくなってしまった私は、応えようと必死になって、手足をありったけに動かしました。無数の私が同じことをした結果、組み合わさった力は強大になり、空気を揺るがしました。やがて、アピール出来る領域を増やすべく、彼女たちは全方角に向かって、散り散りに走り出しました。それが仇となり、分散して弱まった力では、世界に対して干渉し得なくなりました。しかし尚、私に対する歓迎の熱は、冷めることはありませんでした。
次の朝は、午前9時頃に起きました。いつもは遅くても、体が痛くなって6時台に起きていたので、このベッドという道具は素晴らしいと賛美します。机の回転椅子に座り、クッションのふかふか加減を楽しんでいると、部屋の出入り口たる扉がコンコンと叩かれました。ゴンゴンと荒々しい音であれば萎縮したかもしれませんが、優しい音だったので怖くはなかったです。「入ってもいいかな?」と尋ねられました。くぐもっていましたが、昨日のお姉さんだとすぐに分かりました。頷きます。頷いてから、それでは相手から見えないと気づき、「もちろん構いません」と声に出します。
彼女の視線は、昨夜のものとはまるで質が変わっていました。さっきの夢で浴びたような期待に満ちた視線。ふと、いつの間にかお母さんの部屋に訪れなくなったお父さんについての断片的な記憶が蘇ってきました。今の今まで、私という命に希望を持って接してくれたのは、お父さんだけだったからです。私が車に乗せた数々の本を、お姉さんが抱えて持ってきてくれたことも手伝ったのでしょう。あれらをお母さんの部屋に置いて行ったのはお父さんでした。
お姉さんは、本を机に並べてくれました。お礼を言います。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。それと、一つ言っておかなきゃいけないことがあって。髪のサンプルを調べた結果、急遽、あなたはP-Gグループの『ベータ』に内定したの」
「はあ」
「だから、ごめんなさいねベータちゃん。今日は何もしなくていいと昨日伝えたけど、朝食がてら、まど──アルファちゃんに会ってほしいの。難しい子だから、なるべく早くに他の子と顔合わせさせてあげたくて」
お姉さんに指示されて、パジャマから着替えます。彼女の先導に従って、同じフロアの別室に赴きました。どこか居心地の悪い部屋で、あんまり長居したくないと直感的に思いましたが、しかし、促されるまま円卓を囲う椅子の一つに腰掛けます。数分待つと、お姉さんが「アルファ」を連れてきました。
チビでやせっぱちな私と比べたら桁違いに健康そうな、勝ち気な顔立ちの女の子でした。




