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技術革新が進んだ現代、人類は、立体データと材料さえ用意すれば3Dプリンターで石細工を製作出来るようになった。架空のキャラクターや故人の石像、文化財のレプリカなど、作成の対象は幅広い。しかし、2026年現在、最先端のAIテクノロジーを以ってしても、3Dモデルの作り込みが甘い部分について、設計意図に則した補正を行うのは極めて困難であり、入力するデザインデータには高い完成度が要求される。現場の職人たちにとって、発展の恩恵を享受するのは難しい。仕事道具の進歩と言えばせいぜい電動化止まりだ。機械工具の導入すらしていない場所もある。
石黒家当主にして御影の祖父、黒乃の領域もそうだ。彼の作業風景は昔ながらのそれであった。太さや形が異なる多種多様なのみやハンマー、砥石を使い分けて、石の新しい形を決めていく。当たり前だが石は固い。素人よりはずっと低燃費で済むものの、石の整形は重労働だ。手の皮にヒビが入り、萎びた筋肉は引き攣り、骨はビリビリと痺れ、関節の可動域は疲労と共に小さくなる。にもかかわらず、微視的な緻密さと巨視的な見栄えを間断なく意識しながら、常に相手の機嫌をも伺って、迷いのない慣れた手つきで野暮ったい部分を削り取る。さながら、軽妙なトークで好みと反応を探りつつ、客が本当に望んでいる髪型を実現する超一流のヘアリストのようだった。熟練の意地と根性が、老境の黒乃を作り手の前線に押し留めている。
黒大理石の無骨な塊はやがて、雲海を荒れ狂う龍王の姿に転じる。黒乃は道具を持ち替えた。瞳、角、牙、髭、足、宝玉、爪、鱗、雲の飛沫などの細部に取り掛かる。刻まれ擦り切れた石の粉末が作品の窪みに溜まっていく。大元の色味に反してそれらは白かった。結晶の狭間で起きる光の乱反射が、多様な波長を重ね合わせて生まれる色。雪の白さと理屈は同じだ。赤、青、緑それぞれの光がベン図を成し、すべてに共通の部分だけ白くなることを示す図または写真は、まともな義務教育を受けたなら、手に取った理科の教科書のどれかで見た経験があるだろう。
黒乃はホースを手に持って、石像に清らかな水をかけた。床のわずかな傾斜に従い排水溝へと流れゆく。押し運ばれる極細の粒たちこそが、石と人間が命の垣根を越えて対話する唯一の所以だった。
雷雲を突き刺す黒龍が現れる。光を反射する濡れた体は豪雨に立ち向かう様を一時的に演出している。素材・技巧・迫力、どれをとっても申し分ない。並の言葉では表現出来ない。石はこうなりたかったんだと誰もが息を呑む、素晴らしい芸術作品だった。ただ一人、作者を除いては。
彼は苦悩する。優秀なだけだ。心をときめかせる異質さがない。
「君は満足なのか? それで……」
黒乃は、石だったモノに問いかけた。大理石の龍は何も返さなかった。
己は本当に、石の望みに応えられたのか? 不安に苛まれながら、根城にしている朧煙資料館へとバイクで戻る。裏口から入り、史料の研究と整理に使われるオフィスの扉を開ける。時刻は午後5時、ちょうどスタッフたちが帰り支度をしているところだった。儀礼的な挨拶を交わす。
埃っぽさはなく、数多ある本やバインダー、紙の収納ボックスは綺麗に整頓されている。にもかかわらず、天井が低いせいで雑然とした印象を受ける部屋の中、黒乃のスペースは一段と密度が濃かった。山ほどの史料を乗せた縞黒檀の棚、その一番下を引き、年季の入った貼箱を取り出す。箱に入っているのは、石黒家初代が遺した、自伝も兼ねる日記のうつしだ。オリジナルは、複製が作られ始めた百三十年前の時点で劣化が酷く、その完成と同時に焚き上げられてしまったと記録されている。
日記はくずし字で書かれている。漢字はない、誤字は多い、文体はエキセントリックと言うほかない。百姓の四男だった初代が識字能力を身につけたのは、大名から朧煙の地を任されてしばらく経った壮年期以降のことだったらしい。しかし、言語的な記述が難しくなりやすい哲学的洞察はなく、「御家流」と呼ばれるくずし字の書体さえ学べば、解読にそれほどの労はない。
綴られた文字の中で、初代は幾度も嘆いていた。石が呟いた言葉を、余すことなく理解してあげられない無能を。同じ悩みだ。初代への共感に、黒乃は今日も救われる。孤独でなくなることによって出来なくなった表現もあるかもしれないが、孤独だったとしても、石の声を満足に聞けるようになるとは思えない。
日記を読み進めていくと、初代にはもう一つ、難聴に苦しめられた事項があったと分かる。最高品質の黒大理石を手に入れるため、台地の頂上に穴を開けた時に出会った魔物が、度々夢に現れて、彼に何事かを願う。不気味ではあるが、ソレがいなければ家の繁栄はなかった。願いがあるなら叶えてやりたい。しかし、魔物が弱っているからだろう、彼の意識に伝わるまでに、言霊の過半が揮発してしまう。
ふと顔を上げると、ブラインドカーテンの隙間から見える外は暗くなっていた。スマホを点ける。「4月21日 火曜日 20:17」の下に、最新の受信メッセージと通知件数が表示された。ほとんどは息子からだった。職人の才能に恵まれなかったと、石黒家を地域の有力一家たらしめる雑事を積極的に引き受ける可哀想な男だ。この間、商店街で爆発事件が起きた時に開いた石黒一派の臨時会合でも、石の反応について皆と共有する黒乃に胡乱げな視線を送っていた。スマホの黒丸ボタンに人差し指の腹を押し当て、通知の中身を確認する。石黒家私有地において行われた様々な委託業者の本日の業務と明日以降の活動予定、行事準備の進捗、石細工の注文。黒乃はデスクトップパソコンの電源を入れて、私有地の掃除を受け持ってくれた業者にお礼のメールを送った。次いで、石細工の取引を統括するアプリを開く。先ほどの注文は、すでに甥が受諾したようだった。
資料館にはベッド・風呂・トイレ・簡易キッチン付きの休憩室があるが、事実上は黒乃の私室と化している。パックご飯をレンジで温め、その上に納豆をかけた。フリーズドライタイプの即席味噌汁にお湯を注ぐ。食後は糖質オフの野菜ジュースを飲む。シャワーだけで浴室を出た。昔、ウォッチメーカーと合作した黒大理石の時計の針は、午後9時半を示している。連日の彫刻作業で老人黒乃の体はいたく疲弊していた。
早々に就寝する。
──……エルカ。
瞼の裏よりもさらに奥で、どんよりとした影が蠢いていた。こちらを見据えながら、男か女か区別のつかない声音で問いかけてくる。奇怪でおどろおどろしくはあれど、不思議と恐怖はなかった。既視感がある。ソレは昔から、己の隣にいた。小さい頃は頻繁に夢に現れた。尤も、起きた瞬間に忘れてしまっていたが。
周りを見渡すと、黒乃は黒大理石の谷に立っていた。四方八方、白煙の奔流が、数えるのも馬鹿らしいくらい無数に伸びている。斜面を伝い降り、集う河川の中央に黒乃はいた。彼は納得する。屋敷の庭は、この景色を象ったものらしい。流れの白色は、例えば、豪雪がもたらす一面の銀世界より遥かに眩しかった。このまま光に飲み込まれて消えてしまいそうだと感じる。
──聞こえるか。
再び尋ねられた。黒乃は満足げに頷く。
──聞こえておりますとも。台地の怪異様。
──重畳。では、これを見よ。
煙に投影されたのは、車椅子に乗った少女。石が強い反応を示したことから興味を引かれ、孫の御影と共に接触を図った人物、防人都だった。彼女が懇意にしていたという朧煙校の生徒、松柄風水の死の真相を探るべく、事件現場となった台地頂上を今週の土曜に案内する予定だ。
写し出された彼女の背後には、謎の球体が浮かんでいる。模様からして月のようだった。人の顔と同じく目、鼻、口を備えた月が爽やかに笑っている。
──その月は虚ななり損ないにて、我が器としたい。
──石黒はあなたに報いるべきだ。私に何をお望みですか。
──我が一時外に降り立つための器、「仮宿」を用意せよ。
──最も質の良い黒大理石を用意しましょう。形は?
──形は、その月の見様見真似で構わぬ。
影は楽しそうに続けた。
──佳き哉。でるたには感謝せねば。前の娘には断られたからな。




