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ルナ・ベータ  作者: オッコー勝森
第七話 宵の月 螺旋を巻き

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 月曜日に午後休を取った荒屋盈は、年の近い娘、あるいは年の離れた妹のような同居人に校内で言伝を置き、一人で東京に赴いた。彼女が駅に降り立ったのは、奇しくも、招待状の返事を確かめに来たイータとほぼ同じタイミングだった。目的地も近い場所にあり、山手線の東京駅から有楽町駅まで、彼らは同じ電車の同じ車両に乗っていた。尤も、陣取った位置が離れていたせいで、互いに認識し合うことはなかったが。

 盈には実妹である(まどか)、つまりアルファの面影があった。盈は魂風(デルタ)に気づかなかった反省から朔一郎に誘拐された子供の写真を確認していて、その中には幼いイータのものもあった。両者ともに、相手の顔を見れば大なり小なり反応を示したはずだ。もしも、彼らの出会いがここで実現していたとしたら、後の展開はガラリと変わったに違いない。

 曲線の多いおしゃれな駅前広場を抜け、慣れ親しんだ道を歩くこと五分、盈は、朧煙基準では立派でも丸の内周辺では地味な部類のビルに入る。あえて階段を使って四階まで登り(先々週の土曜日に同居人から指摘された通り、二の腕から太ももにかけての贅肉が気になっている)、逢蒙クリニックの自動ドアを潜った。朔一郎の元を出奔した直後からずっと世話になってきた医院で、東京から遠い朧煙に住むようになった現在でも、ひと月に一回は定期検診を受けに行く。不便であってもかかりつけを変えるつもりはない。彼女が抱える特殊な事情について知っている医療従事者はここのスタッフだけであり、そしてそれは、あまり大っぴらにすべきものではないからだ。

 待ち時間はなく、速やかに診察室へと通される。五十代ぐらいの快活そうな中年女性が、ニコニコしながら盈を待ち構えていた。


「はぁい盈さん。今月もお世話様」

「世話してもらってるのは私の方だから、室崎先生。早速お願いね」


 定番の挨拶を交わしながら、盈は上着を脱いだ。胸の固定具をずらし、右の乳房を露わにする。鎖骨の下には直径十センチぐらいの黒い玉があり、照明の白い光を怪しく反射していた。癒着部分の肉は、若干の炎症を起こして赤く腫れている。柔らかな母性と深い知性に彩られた室崎の瞳が化膿の有無を眺めて探る。

 盈はこの時間の度に、頻繁に掻いてしまって症状を悪くしがちだった昔のことを思い出す。当時の検診は室崎からの小言のオンパレードだった。家族でもない癖にと反感を抱いていたものだが、七年前、防人都の保護者になってから、盈は患部を不必要に掻かなくなった。

 室崎は満足そうに頷く。特製の調合薬を四本の指にべったり付けて、黒い玉の周りに塗り込んだ。処方薬より強めのもので、肌にピリピリと波を感じる。しかし効果は素晴らしく、その刺激は、慢性的な痒みと一緒にすぐ消えていく。


「普段は土曜日なのに、平日にしちゃってごめんなさいねぇ」

「偶になら。新幹線も空いてて快適だったし。毎回だと有給足りないけど」

「正規の教師でしょ? 二十日は取れるんじゃないの?」

「検診に半分以上取られるのはね。まあ、親に会いに行ってると考えたら個人的には納得出来るけどさ。でも私、纏まった休みが取れるなら、なるべく都さんに色々見せてあげたいの。あの子はそれを、心の黄金に変えられる人だから」

「愛してるわねぇ。CT撮るわよ。こっちに来なさい」


 検査着に着替えた盈は、最低限の弾力しかない固い台に寝転がって、物々しい丸型のゲートをゆっくりと潜る。十分後、元の衣服に着替え直した彼女は、診察室に舞い戻る。前回行ったCT検査の結果を聞くために。

 軽く尋ねた。


「いつもと同じ?」

「うん、いつもと同じ。あいも変わらず、臓器不全はじわじわ進行してる。四十手前で寝たきりになって、そこから五年も経たずに死ぬわ」


 聞き慣れた予測シナリオだった。曽祖父にかけられた呪いのせいで、盈の残り時間は、同年代の他の子たちよりもずっと少なかった。あって当たり前の恐怖と得体の知れない焦燥感が彼女の心に燻っていたのは、七年前までの話だ。

 今は違う。容態が急変してスケジュールが早まらない事実だけで幸せを感じられた。残酷な未来をケラケラと笑い飛ばせる。盈の年齢は二十七。防人都の立派な独り立ちには、十年もあれば長すぎるくらいだ。あの子の背中を見送った後、安心して死ねる。


「大人になったわ、盈さん。私は胸が張り裂けそうなのに」


 月光なき夜の湖底の闇に似た悲嘆だった。盈は目を瞠る。室崎が絞り出した言葉は、初めて耳にする告白だったからだ。疲れているのだろうかと訝しむ。


「ごめん。助けてあげられなくて。私が代わってあげられたらいいのに」

「助けてもらって助かってるし。もし私より先に死んだら、先生を叱るから」

「生意気。目を閉じた瞼の裏じゃあ、まだ可愛い子供のくせに……」


 クリニックを後にする。

 見計らっていたかのようなタイミングでスマホが震えた。ポケットから取り出すと、一通のメールが届いている。差出人のアドレスは、彼女のよく知るエリート捜査官のものだった。いや、と頭の中で訂正する。紆余曲折あって、現在は警部の職階についているはず。急いで画面をタップすると、一行目で東京に来ていることを指摘され、次の行で「会えないか?」と続く。

 盈は真顔になった。服、それと下着を新調する時間はないだろう。外行き用の格好はしてきたから、及第点ではあると信じたい。クリニックがあるビル一階の女子トイレに駆け込み、洗面台で化粧をバッチリ整えた。

 外に出ると、空はだいぶ暗くなっている。指定された和食処はビルから目と鼻の先にある。早歩きで向かった。地下へ伸びる少々角度のキツい階段を降り、重厚感のある扉を引く。のっぺりとした菊や牡丹の絵に囲まれた一般席は、仕事を終えた会社員たちで賑わっていた。「鵜飼の連れです」と、内心で照れながら受付に申告する。奥の個室席に案内された。

 襖が開けられる。盈を呼び出した張本人がいた。眉が太く目つきも鋭い精悍な顔が、平均的な女性二人分の広い肩に支えられている。好みの分かれる出立ちだが、盈は、世界で一番かっこいい男は彼だと信じて疑わなかった。鵜飼重吾は、荒屋家から追放された当時十六歳の彼女の、普通の基準では戯言としか思えないような証言に、唯一真正面から向き合った男である。彼は子供の連続行方不明事件を捜査する刑事で、荒屋に連なる者をマークしていたという事情があった。そうであっても、一番欲しい助けを一番必要な時に与えてくれた鵜飼は、盈にとって間違いなく最高のヒーローだった。室崎を紹介してくれたのも彼だ。

 心臓が高鳴る。直接会うのは一年半振り。大好きの熱で腹の奥底が沸騰しそうになる。好きと直接的に伝えたことはない。鵜飼には幸せになって欲しいが、早死にする荒屋盈ではそれは達成出来ない。彼にはもっと相応しい相手がいるだろう。身を引く決意は固く組み上がっていた。それはそれとして、好きな男の前では美しくありたいし、機会があればワンナイトを逃すつもりもなかった。

 極限まで丸めた声音で挨拶を仕掛ける。


「こんばんわです、鵜飼さん。今夜は、お誘いいただきありがとうございます。楽しくやりましょう。とりあえず、お酒が何あるか聞きましょうか? あと良ければ、まる鍋とか一緒に──っ!?」


 上機嫌に喋り始めた盈の眉間が、唐突かつ露骨に歪む。その理由は、火を見るより明らかだ。鵜飼の正面に、知らない成人女性が座っている。誰だてめえと、喉元まで出かけた乱暴な誰何を押しとどめ、丁寧な口調で尋ねかけた。


「失礼、そちらの方は? 私は荒屋盈と申します」

「こいつは金岡だ」


 鵜飼が回答する。彼の渋い声音を聴くと、練り潰したマグマで真紅の宝石を拵える幻想に囚われて、ひどく不思議な恍惚感を覚える。ちなみに、鵜飼の声についてそう言語化してみせたのは十歳の防人都であり、盈はその表現力に激しく嫉妬した。

 彼は続ける。


「金岡はな。射撃の腕は完璧だが、それ以外のすべてがポンコツな奴だ」

「どうも。ご紹介に与りました、シューティングマイスターの金岡です。東のリ◯・ホー◯アイ中尉と呼んでいただいても構いません」


 金岡という女性刑事は、ドヤ顔でそう言った。


「ほら。残念な奴だろう?」


 コメントを避けるという形で盈は同意する。


「顔合わせのためのディナーでしたか」

「新入りが先輩に挨拶するのは普通のことだろう? こいつは文字通りの鉄砲玉だ。俺は射撃が上手い方じゃないからな」

「笑えます。上手い方じゃないどころではないでしょう。流れ弾で民間人を殺すレベルです」

「黙れ。その時は意地でもお前に当てる」


 二人のやり取りを横目に、盈はおしぼりで手を拭いた。最古参の協力者として、捜査の新メンバーを紹介するために呼ばれただけらしい。期待しちゃって馬鹿みたい。ここからどうやって、東のホーク◯イさんをハブりつつ、鵜飼をベロベロに酔わせてホテルに連れ込むかの手腕が試される。

 隣の女性に視線を転じる。鉄砲玉とは物騒だ。すなわち、銃が必要な状況に陥ると鵜飼は予見している。

 男の筋張った指が二本上げられた。


「顔合わせとは別に、盈に伝えたいことが二つあってな。一つ目。朧煙に、香月瑠奈の実母が現れた。娘に会おうとして」

「実母……、えっ?」


 盈の浮ついた心が急速冷凍される。香月瑠奈は、防人都がベータになる以前の名前、すなわち本名である。彼女の実母は、ブランド品と引き換えに喜んで娘を売り渡した最低の毒親だ。今更になって、娘に何を求めに来たのか。

 拳が震える。直接対面したら、反射的に殴ってしまうに違いない。


「ドジ踏んですぐ捕まったがな。先日、俺が直々に東京へ引っ張り戻した。ヤバい女だったよ。当座は凌げたが、香月瑠奈が朧煙にいると、誘拐されたガキどものクソ親コミュニティに流した奴は不明のままだ」


 鵜飼の口調には、静かな怒りが込められている。責任の放棄を嫌う男だ。金品と実子を交換する親の存在に、反吐が出る心地なのだろう。

 盈は尋ねる。


「二つ目は?」

「クソガキどもが動き始めた。盈も一人は知ってるよな」


 鵜飼は六枚の写真を取り出し、被写体の人物について、「月嫡再臨」プロジェクトでの識別名と現在の偽名を順繰りに並べ立てた。


「デルタ、魂風美澄。イプシロン、雪芭蕉(ゆきばしょう)(よう)。ゼータ、京極(きょうごく)(たくみ)。イータ、鉤束(かぎつか)幻弥(げんや)。シータ、日下部(くさかべ)明音(あかね)。イオタ、二乃前(にのまえ)(あい)。どうやって身元を誤魔化したかは知らんが、こいつら全員ほぼ同じタイミングで、全国バラバラの学校に個別編入してやがる」

アルファ(円さん)とガンマは?」

「確認出来てない」

「鵜飼さんの考えすぎで、健全に社会復帰しようとしてるだけだと思いますけれど。少なくとも、この六人の子らは」


 写真を丁寧に仕舞いつつ、鵜飼は金岡の楽観を鼻で笑った。


「あり得ないな。死を偽装するために、八人のガキを滅茶苦茶に焼き殺すイカれたガキ共だ。しかも、常識から外れた特別な力も保有している。最悪の想定の、軽く十倍は上回った最悪をお出ししてきてもおかしくない。俺たち治安維持側は、根暗のネチネチした悲観で以って事に臨むべきだ。盈」


 呼びかけられて背筋を糺した。掛けられる言葉は分かっている。言われずとも全身全霊を尽くす意志がある。しかし遮らない。好きな男の指令があるなしではやる気も全然違ってくるから。

 右胸の、肥大化した「発受信体(ラジオ)」が疼いた。


「デルタの監視を徹底しろ。ただし、不審な行動を見かけても、独断では動くなよ。お前を失いたくない。あと、香月瑠奈を気にかけてやれ。これまで以上にだ。万が一、いや億が一の可能性でも、あの少女が人類の敵に回ったら、俺たちはジ・エンドだ」


 鵜飼は自身の広い肩を竦め、冗談めかして付け足した。


「まあその時は、人類側に庇いきれない問題があるということだから、諦めもつくがね」


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