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ルナ・ベータ  作者: オッコー勝森
第七話 宵の月 螺旋を巻き

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 イータによって投げ入れられた石の下に住み着いてしばらく、ドジョウは波風のない時を過ごしていた。自然界に生まれ落ちて以来、最も平和な日々だった。原因は、イータが放出しようとした異常な力の残滓を恐れて、ドジョウを捕食するような凶悪な生き物が近寄らなくなったからだが、しかし、かのドジョウにそれを知る由もない。しかし、この穏やかな時間も長くは続かず、(じき)に天敵たちが戻ってくるだろうということだけは、ドジョウも十分に理解していた。如何なる強者のマーキングも、日光や雨風に晒されればやがて消えてしまう。

 水底の泥が微かに動いた。ドジョウは俊敏に反応し、迂闊なイトミミズを捕まえた。即座に石の影に隠れる。この世は弱肉強食である。仮初の平和に惑わされることなく、ドジョウは懸命に生きていた。


◇◇◇


 東京・日比谷にある帝国劇場は、伊藤博文や渋沢栄一ら明治の大物たちが発起人となって、1911年に設立された劇場である。23年の関東大震災での焼失、64年の解体を経て、66年に再開場されたビルでは、東宝による運営の元で、古典、オリジナル、人気作の舞台化、名作のリブートを問わず、多種多様な作品が上演された。建物の老朽化に伴って、2025年に再開発のため閉場し、30年度を予定する竣工に向けて、現在は工事が進められている。

 花粉がすっかり鳴りを潜めた四月下旬のある日、夕方頃から、パネルのサナギとなった帝国劇場の周囲を一人の美少年が彷徨き始めた。少年は、足の線をきっちりなぞる、タイトな群青色のジーンズの上に、「LUNAR-03」と表裏に書かれた控えめに言ってダサい白シャツを着る、少々前衛的な格好をしていた。先ほどからずっと、丸の内で活動する日本有数の勝ち組たちから好奇の視線を送られ続けているが、彼は一向に気にしていない。彼にとって重要なのは、ベータから見てどう思われるかだけだった。

 イータはボソリと愚痴る。


「どうして僕がこんなことを」


 月曜の午前授業が終わってすぐ、バスと電車、および新幹線をも使う五時間の退屈な旅を乗り越え、行きたくもない東京にやってきた。アルファにそうしろと命令されたからだ。彼女は言った。「短縮授業だし、あなたなら見た目が良いから補導されにくいだろうし、男の子だし、ちょうどいいわ」と、伝統的ルッキズム及びジェンダー意識を丸出しにして。

 彼が抜擢されたのは、先週金曜に科学者たちへ宛てた「招待状」の、返事の受取役だった。


「何が、『こういう遊び心が分かる大人なら、私たちみたいなのとも仲良く出来るかもだしね』だよ。アルファの馬ァ鹿」


 イータは不満だった。崇高なる月の女神・ベータを世界に知らしめる、そのための計画に、月から選ばれていない不浄の仲間は要らない。仲間ではなく奴隷にして、成果を上から奪うべきだろう。現実問題、研究者になれるような賢い大人を列に加えて、いざ横から意見を挟まれたら、子供に過ぎない自分たちでは丸め込まれてしまう危険性もある。その指摘はガンマから為された。しかしアルファは、「大丈夫だって」と根拠なき太鼓判を押すばかりだった。不安になる。

 とはいえ、「ルナ・チルドレン」にとって、姉貴分の言うことは絶対だ。唯々諾々と従うほかない。彼に出来る抵抗は、せいぜい、モンゴルにいる彼女への食糧援助に微妙なラインナップの商品を送りつけるぐらいだった。無論、今度会った時に容赦なくぶん殴られるだろうが。イータは身震いする。おお、あの女は、なんと凶悪な生き物なのか。アルファはベータの爪の垢を煎じて飲み、己のあり方を見直すべきだ。イータはニヒルに笑い、首を横に振る。

 いや、口の達者さで誤魔化されていたけれど、ベータの血の気もだいぶ多かったな。

 だがそれがいい。


「もしもし。そこの君」「あん?」


 正面から掛けられた声に対し、イータは剣呑な返事を寄越した。せっかくベータについての楽しい想像に耽られそうなところだったのに。ギロリと男を睨みつける。まず目につくのは、海苔の巻かれた爆弾おにぎりを彷彿とさせるモサモサした髪。その下に続く、フレームの細い丸めがねと痩けた頬、枯れ木みたく頼りない体躯。マッチ棒、アスパラガス、つくし、セイダカアワダチソウといった、男のシルエットを喩えるための名詞は色々と思いつくが、どれもしっくり来ない。形容先の事物に失礼な感じがする。


「君が、あの招待状の送り主なのかな?」


 問われたイータは肩を竦めた。


「へえ。本当に来る奴がいるなんて。てっきり、誰にも相手にされないかと思っていた。どう見ても悪戯じゃないか。多少は手が込んでるかもだけれど」

「いいや。見る人が見たら、あの写真が加工や生成AIの類じゃないってことはすぐに気づくよ。我々が行ってきた観測結果と比較して、あまりにも正確だったから。ああ、僕以外にも送ってたんだ」

「矢窪センセイだったか? あんたが関わってるプロジェクトの研究者には」

「ふうん、なるほど。多分みんな、ただの悪戯じゃないことは薄々察してる。ロマンの匂いは嗅ぎ取っている。だけどみんなは、守るべき家族と生活があるから、惜しい気持ちを押し殺して放置するかもね」

「あんたはどうなのさ」

「見て分かる通り、独り身の自由人だよ」


 子供とおじさんの二人組が、殻に篭った帝劇ビルと皇居に挟まれた道に沿って、ゆったりと歩き出した。イータが想像していた東京より、かなり暗く感じられる場所だった。部分部分はライトアップされている皇居も、物理的な光量では、市民の労働にはまったく敵わない。眠らぬ下々の姿が、眠る上座の荘厳さを演出しているとも言える。

 イータが尋ねた。


「どうしてあの手紙を見て、今日ここに来ようってなる? その辺り、僕は何も聞かされていない。質問したら、招待客に教えてもらえ、だってさ」

「答えよう。写真に写っていた『モスクワの海』は、月の裏側にある巨大な陰り。水があるわけではないが、ラテン語で海を意味するMare(マーレ)の名を冠している。英語で『海洋の』を意味するmarine(マリーン)の語源だ。で、『モスクワの海』が人類に認識されたのは、君のシャツが指し示すルナ3号の写真からで、これはロシアのロケットなんだ。ロシアとマリーンの二つから連想されるものの一つに、マリインスキーバレエ団がある。彼らの日本での初公演が帝国劇場で行われたのは、僕みたいな人間にはとても有名な話さ。まあ、バレエ団の拠点は、モスクワじゃなくてサンクトペテルブルクにあるんだけど。今日来てみたのは、『月』曜日だから」

「ロシアとマリーンなら、ロシア海軍の可能性があるじゃんか」

「ロシア海軍と日本の関係は、触れたくないな。昨今センシティブ過ぎて」


 空が黒く染まり切るまで待ってみたが、結局、矢窪以外の研究者は現れなかった。「呼ぼうか?」という提案を、イータはすげなく断る。自分から来た人だけでいいと、予めアルファに言われていたからだ。

 矢窪の奢りで食事を済ませたのち、二人は日比谷公園に足を運んだ。紅葉シーズンでもない平日の夜、人の数は少ない。うねるニシキヘビを思わせる池の西側、花壇を眺められるベンチの一つに腰掛け、彼らは内緒話を始めた。


「早速なんだけど。月の裏側であんなに鮮明な画像を撮影出来る技術を持った君たちが、僕みたいなしがない科学者に何を求めているのかな?」

「僕たちは、技術であれを撮ったわけじゃない。これを見て欲しい」


 言ってから、イータは右の掌を差し出して、その上に念と震動を集めた。すると、何もなかったはずの虚空に、たちまちピンポン玉サイズの球が形成され、不気味な笑顔を主人に浮かべる。「ルナ・チルドレン」が月の化身(・・・・)と呼ぶ、力を遠隔使用するための子機だった。

 びっくりした矢窪は、椅子から飛び上がって叫んだ。


「月の石……!? 月の石じゃないか!」

「あんたすごいな。分かるんだ」

「きっ君は、『月の都』の住民だとでも? 竹取物語のかぐや姫みたいな」

「すまないな、そこまで持ち上げられるとさすがに困るね。ただ、僕たちが月に選ばれたのは、間違いない事実だよ」


 イータは月の化身(・・・・)を動かし、矢窪の顔に近づけた。不審な微笑に煽られて、驚愕と歓喜の入り混じった奇声を上げる大人の姿は、ひどく滑稽で面白い。彼は腹から笑う。


「あっはっは! 僕たちはこの、ミニチュアサイズのお月様を、ラジコンみたいに操れるのさ! 少なくとも月の裏側までは。月の軌道を越えた先は、試したことがないから分からないけれど」

「素晴らしい、素晴らしいよ! 初めてアポロ計画の物語を追った時以来の興奮だ! 『モスクワの海』の写真家は、目の前にいる彼または彼女なのか!」


 異質な力の存在をすんなり受け入れ、(あまつさ)え賞賛までする、どこか頭のネジの飛んだ男のことが、イータは嫌いではなくなっていた。認めるのは癪でも、確かにアルファの言う通り、矢窪とは仲良くやれそうだと思った。

 ベータを神と崇める世界の実現に、こいつは絶対役に立つ。


「力があっても、僕たちはまだ子供だ。科学については無知に等しい。だから」


 高飛車な姿勢を貫いたまま、イータは続ける。


「一先ずは、月から得られるデータの管理を手伝って欲しい」

「もちろん! 僕に出来ることならなんでもやるよ!」


 矢窪は快く頷いた。


ドジョウが二度目の登場!

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