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ルナ・ベータ  作者: オッコー勝森
第一話 月隠す無情の雲
3/8

3


 生きていた。

 デルタが生きていた!

 純粋な歓喜が全身を支配し、車椅子の車輪を回して、デルタに向かって一直線に突撃したい気持ちに駆られました。私の席は、第三列の最後尾にありますから、そんなことをしたら惨事が発生するのは明白です。三つ編みメガネの女子生徒、クラス委員長の佐鳥さんが口に出した「二人は知り合いなのかしら?」という質問によって我に返っていなければ、デルタと私を結ぶ直線上に座る苅田さん、里寺くん、更科くん、城内さん、桐堂くん、奈良見さんを轢き殺していたところでした。全員、さっき私渾身のきゅるん♡を、鼻で笑いやがった奴ら……。

 危ない危ない。

 冷静になったところで、一瞬の思案に耽ります。佐鳥さんからの質問に、どう答えればいいのでしょうかと。私たちは確かに知り合いですが、二人の間を結ぶ縁の密度は、知り合いという言葉が表せるニュアンスをはるかに超えている。とはいえ、そうなるまで醸成されるに至った経緯を話す訳にはいきません。到底信じられるものではなく、信じられても困ります。

 なので、キメ顔で言いました。


「ベータデルタと、呼び合う仲でした」

「それは……香ばしい。あ、ごめん。アルファさんやガンマさんにもよろしく」


 彼女は私の返答に満足したらしく、それ以上の追及もなく、黒板の方に向き直りました。

 自然と顰めっ面になってしまいます。香ばしいとは失敬な。せめて、微笑ましいくらいにはならないでしょうか。ギリシャ文字IDはあのクソジジイの趣味なのに。ちなみに、イプシロンさん、ゼータさん、イータさん、シータさん、イオタさんまでいましたよ。また会えたら、皆によろしく伝えておきましょう。


(みちる)先生、どしたの?」


 背が小さいせいで最前列の席に余儀なくされている野々島さんが、硬直して動かない盈さんへと、心配そうに声をかけました。「え、ええ」と生返事を口にしたのち、別のクラスの一限目で配布する予定なのでしょう、紙の資料を教卓から取ろうとして、落としてしまっておりました。前方の良識派たちが慌てて駆け寄り、収拾を手伝います。

 ああも精彩を欠く盈さんは、珍しい。しかし、理解出来る反応です。彼女は、クソジジイの曾孫なだけの、無関係な善人ですから。突然、クソジジイの被害者が現れれば、困惑するのも道理でしょう。


「あの」


 不安そうな表情で、デルタが盈さんに問いかけます。


「どこに座れば」

「ああ、はい。用意していた空席に──」

「私の隣に」


 右の伊藤くんと左の湯ノ原が、驚いたようにこちらを見つめてきました。私の印象を尋ねた時に、「足が動かない代わりに車輪を手に入れたゴリラ」と真面目なトーンで返してきた前科のある湯ノ原に圧をかけ、転校生用の席に移ってもらいます。

 おずおずと遠慮がちに、湯ノ原から席を引き継ぐデルタ。

 変わりませんね。こういうところは。


「また会えて嬉しいです。心から」

「わ、私も。まさかベータがいるとは思ってなかったから。今すごく嬉しい」

「ありがとうございます。放課後時間はありますか? 旧交を温めましょう」

「もちろん。楽しみ。ベータ。えへへ」


 純度100%の微笑みは、精神のささくれに魔法の保湿クリームを塗り込み、透明な安らぎをもたらしました。癒される。この子のためになんでもしてあげたくなってしまう。推しに貢ぎまくり、経済的に枯れ果ててしまう方々の心境が分かる気がします。実験施設でも、デルタは皆から愛されておりました。

 デルタの机がそろそろと近づいてきて、私の机にピッタリ寄り添いました。可愛らしい小顔の上目遣いが、パーソナルスペースの厳重な扉を、いとも簡単に開かせます。


「お勉強、分からないところがあったら、聞いてもいい?」

「もちろんですとも!」


 友人に頼られれば、誰だって張り切るものです。右手の親指を、勢い良く上げました。

 授業内容について、甲斐甲斐しく、隅々まで、全力でサポートしていたら、あっという間に終業時刻になりました。

 少年老い易く学なり難し、一寸の光陰軽んずべからず。机上の漢詩が意味するところを、ここまで強く実感したのは、初めての経験でした。きっと、今の私の顔は、朝の喜色満面が嘘のようにげっそりやつれていることでしょう。車椅子に深くもたれかかれば、覚めぬ池塘春草の夢に旅立ってしまいそうです。

 曇りなき眼で、こちらを誉めそやしてくるデルタ。


「ベータ、すごく賢いんだね。オールラウンダー。人類の叡智を見た気分」

「ええっと。数学は自信ありますけれど、正直、他はあまり……。僭越ながら申し上げますと、干上がった巨大なダム湖にチョロチョロ小雨を降らせて濡らすだけのクソゲーをやらされた気分でした。降らした先から太陽の熱で乾いていく地獄体験。あの、デルタ。あなたどうやって編入試験にパスしたんですか?」

「試験? そんなの受けてないけど」


 耳を疑います。

 彼女の言葉は、いくらなんでも、笑ってスルー出来る範囲を超えているように思われました。だって、そうでしょう? 義務教育の小中学校と言うならともかく、高校への編入ですよ? しかも、「朧煙」は曲がりなりにも中高一貫校。競争率は高くないとはいえ、入学の前に試験が課されます。三年と三ヶ月ちょっと前、受験して合格したから、私はここにいるのです。編入という経路を使えば試験が課されないのなら、中一の春、厚顔無恥な不合格者たちが「朧煙」の門戸に続々と集まってきたはず。アンフェアにも程があります。最低でも、高校入学に意義を見出せる学力があるかを検査する義務が、学校にはあるでしょう。身内の贔屓目なしに見て、魂風美澄(デルタ)の完成度はライン以下です。

 スポーツ推薦などの制度もウチにはないはず。

 野々島さんが、小声で耳打ちしてきます。


「裏口入学とか?」

「断言出来ますが、この子のバックに太い実家はありません」

「ならちゃうか」

「どうした、の?」


 のんびりと尋ねてくるデルタからは、受験抜きで転入してきた後ろめたさや負い目は一切感じません。内緒話を交わす私たちに、不思議そうな視線を寄越すのみです。

 朝とは違って、今のデルタが、昔のデルタと重ならない。いえ、偽物だと言うつもりはありません。しかし、記憶の中にいるデルタを普通に成長させても、どうしてもこのデルタにならない。天才とは言えず、気弱なところは多々ありましたが、謙虚と素直の二つの美徳を備えた子でした。知識を吹き込めば膨らむ風船型だった。

 ふと、自分の足を眺めます。フラッシュバックするトラウマ。硬直する背中、詰まりそうになる喉。月の紛い物(・・・・・)が追ってくる。見知った大人たちが消えていく。重力に髪が引かれる。不気味な笑顔に絡め取られて、足の裏が地べたから離れる。

 落ち着け。落ち着きなさいベータ。大きく息を吸い込み、体温より低い外気を取り入れて、クールに思考するのです。そして、浮かび上がった情景の、「情」と「景」を切り離しなさい。重要なのは、当時の私の主観ではなく、あの大事故にデルタも巻き込まれたという客観的事実です。

 私の足が無事で済まなかったように、彼女の頭も無事では済まず、脳になんらかの障がいを負ってしまった。事情を考慮して、学校は編入試験を免除した。あり得そうなストーリーです。ただ、盈さんから、デルタの状況に関する事前説明がなかったのは気になりますが──ハッとします。

 もしや、車椅子で暴れまくった可憐な少女の後始末が、ここで問題に?

 私、盈さんと学校とのコミュニケーション、妨害しちゃった感じですか?

 自己嫌悪で呻きます。うがあぁ。


「私、迷惑系ヒロインだったのかも……」

「ベータ、迷惑じゃない。王道メインヒロイン。知らんけど」

「よしなよ魂風(タマ)。ゴリラが人に成長しかけてるんだから。まあ、自認がヒロインな時点で、大きな前進は期待出来ないけど」


 なんだと野々島。


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