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月の神秘性なぞが、若者のトレンドを席巻している? 地球にべったり侍るだけの土塊が、生意気な。脳内のイマジナリー松柄さんが、「時代が私に追いついてきた」と得意げに言いました。ジトリと睨みつけます。悪戯っぽく笑いながら退散していきました。
向かいに座る御影さんに不機嫌を悟られないよう、表情を取り繕います。彼女は私の地雷を知らない。知っているわけがありません。普通の人には、当たり前のように夜空に浮かぶ月へ、憎悪の感情を抱く理由はないですし、誰か他の人がそうするという発想もない。最近のオカルトブームに補足説明を加えただけで、彼女には何の落ち度もないのです。
「? どうされました?」
アルカイックスマイル、通じず。野々島さんなら誤魔化せたかもしれませんが、あのようなアンポンタンのボンクラとは異なり、怒りが故の反応ラグを、御影さんは機敏にキャッチします。咄嗟に言い訳をかましました。
「いえ、こうも多様な刺激が満ち溢れ、趣味嗜好が分散化した社会で、オカルト部門の月タグみたいな、間口の広いジャンルそれ自体が流行るとは、と驚きましてね。特定のコンテンツが覇権を握ったとかなら分かるのですが」
「でも、例えば異世界転生系は、ジャンル全体で盛り上がっていましたよ」
「あれは、20世紀の終わり頃から人々の間にあったファンタジー世界への憧れが、作品の蓄積と競争を産み、ネットの掲示板やSNSを通じて優れたものが徐々に注目されるようになって、ようやく花開いた文化です。盛り上がりは、長年に亘るコンテンツの供給があってこそ。しかも、ブームがあったとはいえ、それにハマった人たちは、我が校の規模なら、クラスに二、三人もいれば多い方です。そして彼ら彼女らは、どこか似通った属性の持ち主でしょう。ですが、今週初めから起きたというオカルトブームは、全然違います。特に月の神秘性については、古典的な権威はあるでしょうが、それを主題に据えつつ現代人向けにアレンジされた作品の鉱脈があるという話は、寡聞にして知りません。そして、ブームに乗っかってやってきたのだろう昨日の見学者たちに、これと言った属性の共通点はありませんでした。つまり、コンテンツ不在のまま、多種多様な人たちの意識へと、ジャンルが急速に浸透している状態であると推測されます」
「言われてみれば、あまり今日的ではない、おかしな現象でございますね。まるでウイルスのような広がり方。興味深い視点です」
ちょっとした言い訳のはずが、それなりに長く語ってしまいました。私の悪い癖です。野々島さんやデルタなら、途中でリタイアしていたはず。静かに耳を傾けてくださった御影さん、いい子すぎませんか? 頭を撫でたい。
お茶を飲みました。温かい水分が、乾いた喉に染み渡ります。
訪問の目的は、世間の潮流についての要因分析ではありません。ここらで軌道修正しておきましょう。
「木曜日の要請について、そろそろお返事をいただきましょうか」
はいと頷く御影さんに、動揺の徴しはありませんでした。石黒家の上の方の人たちとしっかり相談して、私からの要望が受け入れられる体制をすんなり用意出来たのでしょう。頼もしい限りです。
夏端さんから資料を手渡されました。周年配布の下敷きで馴染みの深い、「朧煙」校がある台地の航空写真です。ただし、範囲は少しずれていて、学校敷地の横に広がる林向こうの丘まで撮影に収まっています。台地の学校以西は赤枠で囲まれており、バツ印を付けられた丘の頂上は、そのど真ん中にありました。
「先週火曜日の夕方、印の場所で朧煙高校の生徒が亡くなったことは把握していましたが……。まさか、文芸部の部長さんだったとは」
「そうです。松柄さんは、私の先輩でした。大好きな、先輩でした」
噛み締めるように呟きました。「ご冥福をお祈りしましょう」と告げる御影さんには、掌を組む白亜の天使像のような清らかさがあります。他者の痛みに寄り添う心は、人間の精神機能としてはひどく原初的でありながら、職人の手で緻密に削り込まれた石細工に勝るとも劣らない美が宿っている。二分ほど経った頃合いで、彼女は再び口を開きました。
「赤線の内側は、石黒家の所有地です。なので、例えば現場を直接検証したいと仰るのであれば、容易に便宜を図ることが可能です。警察様を飛び越えて」
「大変ありがたいです。なるべく早くお願い出来ますか?」
「了解しました。日取りが決まり次第そちらに連絡します」
メモ書き用の小さな手帳が、音もなく閉じられます。御影さんは椅子に腰を深く掛け直すことで、居住まいを正しました。込み入った話をするつもりなのだと察して、余計な茶々を入れてしまわぬよう、口角をギュッと固めます。
夏端さんの手によって、菓子皿が机の脇に寄せられました。ついでとばかりに、爪楊枝が刺さった一口サイズのあんころ餅を、ご自身の喉に勢いよく投げ入れていらっしゃいます。すごく危ない食べ方。末は交通事故か窒息か。
菓子皿があった所に航空写真を置きます。
「石黒家が何故、赤枠で示された土地を押さえているのかについて、語らせていただいてもよろしいでしょうか。これは我々の積年の悲願に関わる話であり、かつ、松柄風水さんの死亡事件にも関わるかもしれない話です」
「お聞きしましょう」
御影さんは、伸ばした指示棒で地図の赤線をなぞりました。
「黒大理石の中心的な産地。ここまで言えば、石黒家にとっての重要性は認識してもらえるかと思います。しかし、それだけではありません。むしろこちらの方が本質です。ここは、石黒家が管理していないと、明確に危険な土地なのです」
「穏やかではなさそうですね」
「初代が村を切り拓くまで、一帯の高地には、石工紛いたちの小さな拠点が麓にあるに過ぎませんでした。断片的に残った資料から、拠点の起源は平安時代にまで遡れるそうです。作られてからしばらくは、罪人の処刑場でした」
車椅子の肘掛けを、人差し指の腹で擦ります。ピンと来ません。米作りなら平坦で水の確保が容易な土地、果樹園は水はけと風通しの良い土地というように、処刑場にもそれに適した物騒な条件があると思います──素人考えですが、罰しやすさ、見せしめやすさ、打ち捨てやすさの、少なくともどれかが必要でしょう。しかし、朧煙には全部ありません。何もかも中途半端で、場が設られるほどに選ばれ続ける理由はカケラもないのです。重力に引かれながらも落下せず宙に留まるリンゴみたいな不自然さ。
「黒大理石の前は、ウラン鉱石でも採れたんですか?」
「事実はもっとオカルティックです。採掘物は一貫して黒大理石でした。それ自体に放射線のような危険はなく、知る人ぞ知る素晴らしい石材として、古くから細々とした需要がありました。問題があったのは、採掘のための掘削作業です」
「鉱山労働に健康被害は付き物では?」
御影さんは頭を振ります。
「桁外れなのですよ。黒大理石の品質は、高い所で深く潜るほど高くなっていきます。しかし、そういう場所で掘削を行おうとすると、ほとんどの人が死んでしまう。元がどんなに健康だろうと、不明確なラインを越えた途端に、あっさりと、突然にです。原因は今なお、まったく分かっていません」
聞いたことのない話。驚きで絶句します。鉱物採取の毒とは大抵、粉塵や有毒ガスの日常的な吸入を通じてじわじわと体を蝕むもの。もちろん、即座に人を死に至らしめる毒もあるにはあるでしょうが、発展著しい現代科学で、解明に手も足も出ないとか、そんなことありますか?
「処刑場には打ってつけでしょう? 足を踏み入れてもいいギリギリの境界を罪人に探らせて、なるべく良質な黒大理石を持ち帰れるのですから」
「血も涙もありませんが、同意します」
「しかし、時代が変わり、処刑場ではない、人が住み続ける村落として存続が可能になった徳川の世になって、ラインを越えても死ななかった例外が現れました。それが石黒家の初代であり、子孫である我々でした。だからこそ、石黒の家系は、黒大理石の独占供給者にして、産地で無謀な掘削作業が行われないかを見張る、朧煙台地の番人となったのです」
顎を引きます。信じがたい話ですが、御影さんの言葉には、嘘だとは思えない迫真さがありました。石黒はどうやら、単なる土着の有力者家族とは一線を画す存在のようです。どちらかと言うと、曰く付きの地を代々守護する神官一族の方が近い。道理で御影さんから天使みを感じるわけです。まさしくオカルティックですね。文化祭企画の参考になりそう。航空写真の赤枠から、立ち入り禁止の警告を表す、凛とした鈴の音の幻聴が響きました。
ここまで説明されれば、彼女が行った前置きの意図もするりと理解出来ます。
「積年の悲願とは、『番人』の責任から解放されるべく、謎の死の原因を突き止めること。そして、松柄さんの死因は、朧煙の高地の下にこびりつく『呪い』が関係するかもしれないと」
「その通りでございます」
「あなた方が私に目をつけたのは、商店街広場の破壊現象から逃れてみせた私に、同じオカルトの匂いを感じ取ったからですね」
御影さんは再度頷きました。
科学で説明不可能な超常の力は、あります。「月の使者」の適性者にのみ現れる「発受信体」。そのコントロールを夢見た違法実験企画「月嫡再臨」プロジェクトにモロに巻き込まれた私には、事実、人智を超えた力が宿っております。オカルトをあり得ないと切って捨てない下地がある。その点で、朧煙に根付いた呪いの究明に協力する資格ありと言えるでしょう。尤も、「月の使者」絡みとは限りませんから、助けになれるかは分かりませんが。
力を搾取されるわけでも、悪事に加担するわけでもない。なら、恩はなるべく売っておくべきです。御影さんと握手を交わしました。同盟成立です。さて、まずは「広場の爆発からどうやって逃げたか」について、具体的に開示するとしましょうか。




