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ドブ底よりずっと清潔で、それでいて電灯の光は眩しく、しかし彩りはまるでなく、息の詰まりそうな場所。物品、食事、空調、生活リズム──人の手に届くありとあらゆるものは、一元に管理されている。閉塞的で重苦しい雰囲気に参ってしまった住民は、ほとんど誰も喋らない。見回りをする女性警察官の足音だけが響く。
「瑠奈、近くにいるんでしょう?」
漆喰の壁と畳の床、加えて鈍色の格子で囲まれた独居房の端で、一人の中年女性が呟いた。声は蝿の羽音よりもか細く、廊下に届くまでに霧散して、他者の耳には入らなかった。無論、瑠奈という娘にも。三角座りしていた足の膝を、さらにギュッと丸め込む。
彼女の名は香月玲緒奈。五日前、朧煙警察署所属の吉谷刑事によって偶然にも逮捕されたばかりの、詐欺と窃盗、そして未成年の人身売買の罪で指名手配されていた女である。
「瑠奈に会わせて」
憧れの芸能人が使っていたものと同じバッグとの交換で、一時的に預けた自分の娘を、一目見に来ただけなのに。嘆息する。怖くて偉そうな奴らから非道な精神的拷問を受けた。どいつもこいつも、マッドサイエンティストに娘を売り渡した下劣な母親として自分を扱う。売ったのではない。生物学上の父親に似たのだろう、知識を賢しげにひけらかす残念な娘を、どういうわけか高く評価したらしい老人に貸したのだ。一緒に暮らすのも我慢の限界だった。うるさくて癇に障る娘をプライベートから引き剥がすことで、自身の心を守った。あれは正当防衛だった。そう主張すると鼻で笑われた。
口の減らない小癪な子供。アレとの生活は二度と御免だ。しかし、子供に母親は必要である。彼女は無根拠にそう信じている。瑠奈が朧煙にいると聞きつけ、会いに来た。善行の矢先に、狼みたいな女性刑事が突然背後から忍び寄ってきて、捕まった。どうしてこうなったのか。神は死んだらしい。
「香月さーん。接見の申し入れがあります」
夕食から二時間が過ぎた頃合いだった。短髪の女性警察官が、丁寧語であること以外は真面目さが存在しないヘラヘラとした調子で、玲緒奈に面会の言伝を行った。玲緒奈はこの警官のことは嫌いではなかった。人類をざっくり二種類に分割した時、自分と同じ側にいる奴だと直観的に感じ取ったからだ。
瑠奈が会いに来たのか。僅かな希望とともに頭を上げた。しかし、警官の薄気味悪い笑みから違うと察して、すぐに落胆した。独居房の鍵を開けた警官は、ニヤニヤと、事を面白がるように言う。
「驚きましたよ。お見えになられたのは、天下の警視庁警部様でした。香月さん、あんたいったい何やらかしたんです?」
◇◇◇
地球はみかんとまったく異なって、お手軽に皮を剥いて中身を分解することは出来ない。果肉について詳しく調べたいならば、優秀な仲介役が必要になる。地球の内部構造を知るのに、地震がもたらす情報は非常に有用である(尤も、地震が人間の制御能力を大きく逸脱する恐ろしい自然災害であることは言うまでもない)。波はその形質と経路の特徴によって異なる振る舞いを見せるが、地震波もそれは同じだからだ。P波とS波の進行状況、モホロビチッチ不連続面での反射と屈折の模様、マントル遷移層での急速化は、地球科学の研究者たちに、我々が立つ足元の詳細な解明を可能とさせる。
月の地震、「月震」のデータもまた、月の中身を描出するのに不可欠な入力要素だ。しかし、月震に関して人類が実施出来た観測は、1961年から1972年のアポロ計画が配置した計測機器によるもの以外にない。付け加えて、それらは月の表側の──地球の重力による潮汐ロックから月は常に同じ面を我々に向けている──限定された範囲にしか展開されなかった。採取された13,000件以上のデータは月面地理学の発展に多大な貢献を果たしたが、月の成り立ちや資源についてのより精密な調査を進めるに当たって、インプットが不足していると判断せざるを得ない。月の内面を深く知るためには、裏面まで綿密にカバーする、包括的な月震観測ネットワークの構築が求められる。
月波大学教授の矢窪光斗は、鳥視点で彼を人間園の珍獣たらしめる透明な窓から、ぼんやりと地上を眺めていた。眼下に横たわる構内道路では、ダサいリュックサックを背負った私服の学生、白衣の長い丈をはためかせる医学関係者、スーツ姿の社会人のほか、普通自動車や中型のトラック、丸型のタクシーなどが活発に行き交っている。見慣れた光景で、新鮮味はまったくない。しかし、霧の中で泥に足を掴まれ始めた「Luna-Beta」プロジェクトの先行きと比べれば、つまらないはずの外がずっと透き通って見えた。
彼らプロジェクトメンバーの仕事は、月震観測ネットワークの構築を日本主導で行う方法について考えることだ。日本は優れた地震計測技術を保有している。測定精度に関してはほとんどの問題をクリアしていると言っていい。機器の配置も、表側だけならば、十分な資金と時間があるという仮定の下では障害はなさそうである。高性能な天体望遠鏡を通せば肉眼でも現場状況が把握可能で、どこに計測器を置くかのプランも比較的立てやすい。JAXAが打ち上げた小型の実証機SLIMによる、目標地点から百メートルの誤差もない着陸は、狙った場所に機器を設置出来るという見通しを明るくした。成功の一報直後、矢窪は咄嗟に祝電を送ろうとしたが、手から滑り落ちたスマホは着陸に失敗した。
問題は月の裏側である。
月の裏側に探査機を飛ばす際に立ち塞がる第一の障害は、地球と探査機の間で直接の通信が出来なくなることだ。尤も、これには(あくまで「言うは易し」という意味で)簡単で分かりやすい解決策がある。通信を中継する人工衛星に頼ればいい。実際、中国は世界に先んじてこの用途の衛星を飛ばし、月の裏側での着陸ミッションを複数回成功させている。日本でも可能だろうか? 矢窪は改めて結論を確認する。技術的には問題ないが、他の部分は知らん。ただ、彼らの「Luna-Beta」は、ここのクリアが前提条件のプロジェクトである。通信手段を用意出来なければ話にならない。
だが、たとえ通信の問題を乗り越えられたとしても、それでもまだ足りないのだ。月震観測ネットワークを、十分な時間、ある程度の効率性を持って稼働させるには、次のどちらかが機器の設置機に必要となる。周囲環境の情報を地球に送り届け、科学者から返ってきた指令を迅速に熟す機能か、あるいは、臨機応変な自律行動を月面上で可能とする機能か。前者は非常に難しい。中継機を介する必然性がある以上、通信にはラグと不確実性が発生する。実働機を制御下に置ける時間は短い。チェックリストを埋めるだけの通信数でゲームオーバーだ。発展の著しいAI技術への期待もあって、後者の戦略が選ばれた。矢窪がプロジェクトメンバーの資格を得た理由は、月面での探索活動において理論上は効率的なサーチポリシーを発見する研究実績があったからである。
つい先日、メンバーたちが持つ知恵の粋が込められた設置機の見積もり第一号が完成した。自力で月面探索を進めるに十分な計算機能を持ったコンピュータ、それを保護する分厚い外装、クジャクの羽みたいに仰々しい太陽電池と、バッグに詰めた月震計測装置を合わせて、重量は規定を一桁、開発費用は予算を三桁上回った。
さすがにまずい。
ノックの音がする。矢窪は「どうぞ」と促した。入室してきた人物は、彼が所属する研究科の様々な雑事を一手に引き受ける有能な事務職員だった。彼女がいなければ、矢窪はフィッシングメール詐欺で個人情報を根こそぎ奪われた挙句、誰にも相談出来ず泣き寝入りしていただろう。
ゴミ箱を覗いてから、彼女は矢窪に問いかける。
「お昼、食べてないんですか? お弁当を買ってきましょうか」
「いえいえお気遣いなく、自分で行けますから! これ以上運動不足になったら、姪にかけっこで抜かされてしまいますからね」
「あら。姪っ子さんは、おいくつなんですか?」
「ええと、確か……しまった。彼女がまだ十歳くらいだった時の感覚で話していました。もう立派な大人です。『シートン動物記』のオオカミ王ロボを彷彿とさせる体躯になって、刑事をやってるんですよ。かけっこではもう、逆立ちしたって勝てそうにありません」
「それはそれは、逆立ちした姪っ子さんにも勝てそうにないですね」
「あはは、間違いないです」
研究棟を降りて、門の側にあるいつものコンビニに向かう彼の姿は、ひどく憂鬱そうだった。研究者は構想段階だとつい弾けてしまう生き物だ。「ぼくたちがかんがえたさいきょうの」探索機には、まだいくらでも減量の余地があるだろう。しかし、と彼は唸る。彼の勘が告げている。今の過剰な節約志向の下では、一か八かの勝負すら難しい。
余裕のある実行可能領域と潤沢な予算が欲しい。いっそのこと、宇宙を股にかける大作SFのように、地球を侵略しようとする宇宙人でも現れてくれれば、アクセス出来る技術のフロンティアは急速に前進するし、また、宇宙関連研究に湯水の如くお金をつぎ込んでもらえるかもしれない。
午後八時を過ぎた頃、矢窪は自宅に辿り着いた。郵便受けを開けると、美味しそうなピザのチラシの上に、白い封筒が重なっている。封筒の方を手に取った。宛名も差出人の名前もなく、ただ『月の裏側へのご招待』と書いてあった。
封のシールを外す。入っていた写真を玄関の明かりで照らし、矢窪は思わず目を瞠った。月の裏側にある数少ない玄武岩の平原、通称「海」の一つである「モスクワの海」が、見たことのない角度と精度で撮影されていたからだ。
第六話が書きあがればまた更新します。




