21
朧煙の始まりは、江戸時代の中期まで遡る。
徳川幕府の成立以降、社会の様相は目まぐるしく変わった。戦乱の世が去り、人は武器から解放され、里に戻り新天地に行き、農村部の強化と拡大が飛躍的に進んだ。食い詰めた挙句の修羅が減り、山賊や野盗の類が減った。反乱も少なくなった。無論ゼロにはならなかったが、以前の時代と比べて治安は遥かに良くなった。食糧事情の改善と秩序の安定は、非農業部門と潜在生存圏の拡充をもたらした。一部の人間は、鋤や鍬を握る土頼みの生に背き、彼らの先祖を苦しめてきた自然へ攻め入るようになる。
石黒家の初代もまた、野心に満ち溢れた不遜な冒険家の一人だった。彼が生を受けたのは、とある台地の麓の村に住まう百姓の四男坊。幼少期、旅の先々で仏像を彫る修行僧と出会った。普段は木材を使うらしいが、この地から偶に出回る黒石の塊を扱ってみたいと、石細工に適したノミと槌を揃えてやってきた。しかし、河原の石で習作しても、木彫りのようには上手くいかぬ。特に手の指が問題だと、僧侶は近くで泥遊びに興じていた子供に愚痴った。子供、つまり石黒家の初代は、借りた道具で石を削って、自分の小さな掌を見事に再現してみせた。高地に流れる清廉な川の、水面に映る像のようだ。感激した僧侶は、持てる知識と技術をすべて彼に叩き込み、念願の黒い大理石で石像を合作した。それから「自分は木像に専念する」と言い残し、石細工の道具を幼年の初代に譲った。
青年に成長し、親兄弟の反発を押し切って村でただ一人の彫刻家となった初代は、台地から採れる黒い大理石の質が、産出場所の標高が高くなるにつれて少しずつ上がっていくことに気づいた。にもかかわらず石工たちは、頂上付近には手を出さず、自然のまま野放しにしていると言う。もっと良い作品を仕上げたい。その一心で、数少ない石工たちに、なぜ今より高い所で採石を行わないのかと尋ねた。曰く、上に登るだけなら問題はないようだ。しかし、石を切り出そうと表層の土を取り除いた瞬間、皆の体調が悪くなる。中には死んだ者もいると。初代の心中に未知の怪異への恐怖が巣食うが、最後には職人の情熱が勝った。石英の白い稲妻が走る極上の黒を、己の支配下に置いてやる。大名様お抱えの彫刻師となって、己を放蕩息子と蔑む家族に自慢する。
冬が終わったばかりの頃だった。彼は一人で台地を登る。曲がりくねった道は、切り出した石を安全に運ぶためのもの。中腹辺りで行き止まりにかち合った。横の採石場は、下にあったそれらよりもこぢんまりとしていた。この高度ですらもう深くは掘れないらしい。仕留めた蛇を焼いて食らって腹を満たしたのち、藪をかき分けて先に進む。地面の角度が平らになっていく。台地の「台」部分に辿り着いた。さらに奥まで足を伸ばすと、草原に覆われたなだらかな丘陵があった。頂上には、掘削の跡と墓が残っていた。盛り上げられた土には、風雨に晒され表面の粗くなった黒い大理石が佇む。そこから五町 (=約550メートル)ほど離れた場所に、かつて石工たちが用意した拠点があった。聞いていた情報通りだ。
採掘場と拠点の往復生活を始めて五週間後、初代は黒い大理石の層に到達した。硬い岩盤をハケで綺麗にし、松明を翳すと、結晶質が光を反射する。石に魅了されて十年経ったが、これほどまで目を引き寄せられたのは始めての経験だった。蒙が開かれる。魂が奪われる。
魂を奪う何かがいる。
死を実感し、尻餅を突いた。胸を掻き毟る。侵入され、肌、血管、臓腑が揺らさぶられた。道理で石工たちが怖がるはずだ。台地の足元深くには魔が潜んでいる。──同胞か。初代の耳にかすかな言葉が響いた。彼は死なずに済んだ。それどころか、黒い大理石の「声を聞く」能力を獲得し、石細工における表現の幅が広がった。
高所の大理石であっても、切り出して外で扱う分には問題はなかった。初代の彫刻作品はたちまち評判になり、藩を治める大名の目に止まった。お抱えの彫刻師にとどまらず、石黒の苗字と台地開拓先導の名誉すら与えられ、彼に道具と技術を与えた僧侶の伝手にも頼りつつ、台地の上に村を築いた。大名に献上した石像の題名に倣い、初代は村を「朧煙」と称した。
◇◇◇
「なぜ警察に、ダミーの映像データを渡したのですか? お祖父様」
石黒御影は、石黒家の現当主である祖父に、自身の疑問を投げかける。
朧煙の歴史が詰まった資料館の一室。味わい深い藍色の床は、利用者の気分を沈静化させる。黒い大理石の机を挟んで向き合う孫娘と祖父。黒髪の少女は群青色のワンピースに浅葱色のカーディガンを羽織り、ロマンスグレーの髪を整えた老人は、濃い灰色の上品なスーツを纏う。暖色を探すには、彼らを囲う無骨な本棚を越え、杏色の壁まで寄らないといけない。
御影の問いに対して、当主は落ち着いた様子で答えた。
「臨時会合でも言ったぞ。石が鳴いたからだ」
祖父の端的な説明だけでは、ロジックの大部分が霧に包まれていた。彼女は真意を探るべく、老いてなお鷹のように鋭い瞳を覗き込む。溜息を吐く。何も分からない。黒い大理石の声であれば、少し耳を傾ければ聞こえるのに。人の思考体系は、石の構造よりも遥かに複雑だ。
「石黒は所詮、一地域の行政と商売を牛耳るだけの豪族。人間に関する調査能力について、警察に勝てる目はありません。素直に監視カメラの映像を見せて、事件当時に車椅子の防人都が広場にいたこと、にもかかわらず爆発から逃げおおせていることを示せば、警察は動いてくれるでしょう。そちらの方が合理的では? 私たちで抱え込むより」
「爆発が起きたまさにその時、カメラは機能を停止している。防人都の脱出に関する決定的な映像はないだろう? 警察は人間の超常的能力を前提とした捜査はしない。多少強引でも、ちょうどいいタイミングで広場を抜けたということで片付けられる。だが、彼女が警察に注目された事実は残る。そこに至って我々が、重い腰を上げて未成年の彼女のストーカーを始めてみろ。妨害される公算が大きい。分かるな?」
「それは、確かにそうです」
「何より、警察は石の声を聞き取れない。だからこそ、防人都の調査なら、我々が長じる可能性がある。事実、石が最も反応し、歓喜に震えたのは、爆発時刻の数瞬先だった。それはちょうど、防人都が脱出のための一手を講じたであろう瞬間。御影。彼女に近づいて、石の感触はどうだった?」
「石は、防人都をとても好意的に捉えているようでした。一応追加しておくと、湯ノ原零時には反応なしでした」
「やはり。石黒の一族以外で、そんな人間が今までいたか? 彼女には、黒い大理石を生み出す根源の、台地の地下深くにいる魔と関わる何かがある。三百年もの間、我々が解明に勤しんできた怪異とだ」
こうも丁寧に説明されては、御影も元々反対するつもりはなかったが、いよいよ全面的に賛同しないわけにはいかなかった。説明不足でとっつきにくい部分はあれど、自分を小娘扱いせず、聞けば理知的に答えてくれる。御影は祖父が嫌いではなかった。しかし、町議員を務める彼女の父──祖父の実の息子は、祖父のことを意図的に避けていた。石に取り憑かれた魔人だと称して。お祖父様の悪口を言うお父様は嫌いですとそっぽを向くと、父は激しく凹んだ。
当主の方針に従うとなると、防人都の情報を直接探る斥候の役目は、たまたま今年朧煙校に入学した御影が果たすことになる。石黒家に連なる血を持つ生徒はそれなりにいるものの、石の声を聞けるのは御影だけだ。
昨日の昼休み、早速にも一回めの接触を行った。会ってみて、一筋縄ではいかないと感じた。かなりの場数を踏んでいる。修羅場を潜った経験もあるのではないか。彼女の性格は社交的で、単に仲良くなるだけなら難しくない。だが、奥底の秘密まで明かしてもらうには、こちらの情報も広く開示して、深い協力体制を築く必要があるだろう。彼女側から、石黒の家に利益を見出してもらわない限り。
藍色の床を眺める。海の底で揺蕩うクラゲになった気分だ。防人都へ先制攻撃的に尋ねるも、顔色一つ変えずはぐらかされた質問を、祖父に投げかけてみた。
「下半身不随の彼女が、いったい全体どうやって、広場を吹っ飛ばすような爆発から逃れたのだと思いますか? それも、一緒にいた湯ノ原零時を連れて」
老人は首を横に振る。
「分からない。しかし、幼い初代が石の手を精巧に彫ってみせたように、その場で自由に動く足を彫ったとしても、私は驚かないな」




