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水路の泥底に一匹のドジョウがいた。じっと息を潜めながら、センサーの役割を果たす十本のひげに、意識を集中させている。飼育下の平均的な個体よりほっそりとした体はひどく頼りない。自然界における自身の立場は弱く、あっさり命を踏み躙ってくる天敵が多いことを、彼は本能で感じ取っていた。余計な動きをすれば、己に待ち受けるのは冷たい死だ。幸いながら、水流が継続的に泥をかき乱し、藻やイトミミズを補給してくれるため、危ない橋を渡らずとも餌には困らなかった。温度、流速、光の具合によって、取るべき行動は少しずつ変化する。しかし、彼の生活は単調そのものだった。この単調さが崩れ去った瞬間、彼は、冬を二回も越させた己の豪運を失う羽目になる。
突如、水が激しく揺れるとともに、空気の泡が密集して現れた。ドジョウは驚愕し、自らの体を泥の中に埋めた。彼の豪運が失われるのは、少なくとも今ではないようだ。小さな世界に不協和音をもたらしたソレの正体は、アオサギの嘴ではなく、ただの石ころだった。
のどかな田畑に囲まれたその用水路には、およそ五十メートル置きに、小さくも武骨な橋が架かっている。ドジョウが根城にしていた場所は、そのうち一本のすぐ側にあった。いたずらに石を投げ入れ、罪なきドジョウを怯えさせた犯人は、橋の落下防止柵にもたれかかる少年。バナナが描かれた紙パックのプラスチックストローをガジガジと噛みながら、揺れる水面の下で生き物たちが慌てふためく様を面白そうに見つめている。厳しい自然界では最も忌避される、典型的な無駄行為だった。少年は考える。同じことを人間の世界でやったら、もっと面白いに違いない。下手に知性があるものだから、奴らは僕を刺激せぬよう、進んで首を垂れ始める。僕に頭を下げるのは、僕の上にいる少女に忠誠を誓うも同義だ。幼い頃にはあったはずの、ドジョウが内に秘めるような黄金の卑屈さは、少年の特異な人生に擦り切れて消えてしまった。
少年イータにとって、地球の上に広がる世界は、ベータの偉大さと美しさを刻みつけるためのキャンバスに過ぎなかった。闇に溶ける月光の輪よりも優しく尊き心の持ち主。命を懸けて仲間を守り、そして、月に並ぶ星となった彼女。忘れられるなどあってはならない。風化させてはいけない。彼女がいられなくなった場所に往生際悪く在り続けるのは、「ルナ・チルドレン」ですら罪深い。天に昇り「月の使者」の最前列に加わったベータが、いつ何時でも帰ってきてこの世に君臨し得るよう、彼女のための玉座を打ち立て永遠に保つこと。それが、僕たちに許された唯一の贖罪的所業だろう。
まずは輪郭だ。彼女がいなくなった、真っ白も同然の空白に、彼女の魅力を最大限に引き立てる像を描く必要がある。耽美に、端麗に、雅に、清楚に、ゴージャスに、コケティッシュに! 画材の主体は、数だけならいる人間たちの、集合的無意識である。邪魔な部分は取り除く。個々の主観はノイズになるだけだ。すべての人間が共通して抱く美にベータの存在を浸透させ、すべての人間の思考リソースを限界まで消費することで創造された巨視的具現格こそ、彼女が宿る新しい体に相応しい。
イータは視線の先、平野の向こうに聳える峠の頂上を睨みつける。逸る心に蓋をした。物事には順序がある。橋の下では、生き物の気配が平常に戻り始めていた。石を沈めただけなのだから、ごく当たり前の話だ。規則正しい水の流れは、手入れされた水路沿いのへりを写す以外は、空の光をキラキラと反射させるだけだった。
低く鳴り響く右胸の振動が、少年の瞳を通じて外に漏出しかける。
水路に背を向け、その場にしゃがみ込んだ。背中を柵に押し付ける。左手を右肩に乗せ、手首のやや下辺りを「発受信体」に当てた。バナナオレの残りを飲み切り、口からストローを離して、地面に紙パックを落とす。水路の水を分子レベルで激しく揺らし、沸騰させて、水中の生き物たちを茹で殺そうとした。タガが外れかかっている。イータは自嘲した。他の「ルナ・チルドレン」なら、こんな醜態は犯さない。おととい、昨日とサボったメンテナンスを、今日はしっかりやろうと心に誓う。「ルナ・チルドレン」が「メンテナンス」と呼ぶ作業は、(1)振動の自己循環による能力持続性の保持、(2)壊してもいい物を使用した能力制御性のテスト、(3)「発受信体」から不要な記録を削除の三工程から成る。どれも内向的な集中が必要な仕事で、イータはそれが苦手だった。他の一切を排除した暗闇、ただ一つ存在を許した鏡の中の自分と相対した時、背後にベータの幻覚がチラつく。彼女が見ているのはイータではない。アルファでも、ガンマでも、デルタでも、イプシロンでも、ゼータでも、シータでも、イオタでもない誰かと楽しそうにお喋りしている。
「なにしてんの、鉤束くん」
女性の声に含まれる意思のベクトルが彼を指名していることは、感知の名手である彼にとって明白の事実だった。にもかかわらず、呼びかけの対象が自分だとイータが理解するのに、若干のラグが発生した。状況の整理を試みてようやく思い出す。遺跡に「発受信体」を馴染ませるため、しばらく定着する羽目になった土地「笹降」。不審な子供という評価を回避するには、地域の学校への所属が最も手っ取り早かった。転入の際に彼が名乗った偽名は「鉤束幻弥」。シータが張り切って挙げた候補をそのまま流用したものだ。
右も左も分からぬ初日から世話を焼いてくれたその女子を、彼はもちろん認識していた。彼女だけではなく、クラス全員の顔と名前を覚えていた。限界集落と呼ばれる状態にはまだ遠いものの、少子高齢化が進行する笹降の公立中学校は、一学年十人以下の小規模教育機関にまで縮まっていた。中学二年は八人一クラスの体制で、鉤束が加わって九人になった。男は四人で女は五人と、奇しくも、ベータがいなくなるまでの「ルナ・チルドレン」と人数と性別構成比が一致していた。
だからなのだろう、とイータは責任をなすりつけた。顔と名前にプラスして、一人一人の情報が積もっていくのは、そのせいに違いない。彼の計画にとって、個性は邪魔にしかならない。興味なんかないのに。どうせこいつらは、「月嫡再臨」計画の推進によって蹂躙してしまう人間どもの一部に過ぎないのだ。
「具合でも悪いの?」
同級生の女子、岸虎芙美はイータに対して、心配そうに問いかけた。放っておいてほしいと彼は願う。無視されたからと言って僕は君を恨んだりしない。意地悪そうに返した。
「どうしてそう思う? 僕は至って健康なのだけれど」
「健康な男子が、道端でうずくまって痛そうな表情をするの?」
「痛そうな表情? 影のせいでそう見えただけだろ。僕が前にいた場所にはなかった田んぼの光景を、バナナオレと一緒にゆったり楽しんでいたのさ」
「ならいいけど。ポイ捨てはダメだよ。紙パックのゴミ、持って帰りなさい」
ゴミを持って帰らずその場に放置する怠慢を、人はポイ捨てと呼ぶらしい。彼が予習した範囲には載っていなかった知識だ。彼女の言葉に従う。元より、飲んだ後の紙パックはきちんと拾うつもりだった。ベータを描く予定のキャンバスに、自分から汚れをつけるなんてあり得ない。
立ち上がる。鉤束は岸虎に忠告しようとした。自分には、他人に行動を咎められると機嫌を悪くする兄がいる。イプシロンのことだが、名前を出すつもりはなかった。とにかく、あいつみたいな奴に無闇矢鱈と注意を行えば、逆恨みされて酷い目に遭わされる可能性がある。相手は選んだ方がいい。開きかけた口を閉じる。無価値な押し付けだ。自分にとっても、岸虎にとっても。
イータが住まいに選んだ空き家、および岸虎の家への帰路は、しばらく重なるようだった。成人男性の身長分ぐらいは離れながらも、二人は並んで歩く。時々岸虎が話しかけて、鉤束はぶっきらぼうに答えた。地蔵がいる祠の分かれ道で、彼女は「また明日」と声をかけ、彼は曖昧に頷いた。
その頃、水路では、イータが投げた石ころに小さな影が近づいていた。それは細く卑屈な一匹のドジョウだった。流れの緩やかな泥だまりに落ちた石ころは、彼の新しい住処に選ばれた。
ドジョウの命運や如何に……!
第五話が書き上がった時に更新を再開します。




