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六限目の数学で、抜き打ちテストが実施されました。50点未満は補習という宣告に、教室は阿鼻叫喚に包まれます。テスト中、カンニング行為を厳重注意する声は後を絶ちませんでした。地獄の40分が終わったのち、怒り狂った教師によって一斉に連れ去られた十数名の違反者たちには、デルタと野々島さんの姿もありました。彼女たちの教師を睨みつける獰猛な視線には他責的な不満が燻っていて、将来がひどく心配になります。解散のために教室に来た盈さんは、穴だらけの席に対して、集団食中毒でも起きたのかと困惑しておりました。
五分くらい待ちましたが、寮メイツは戻ってきませんでした。階段だけは湯ノ原に手伝ってもらったものの、珍しく一人で寮に帰ります。校舎から近い上に高低差もあまりないため、車椅子ユーザーの単独移動でも楽ちんです。女子寮前の花壇では、三匹のモンシロチョウがヒラヒラと舞っていました。その可愛らしい姿に、疲れ切った心も少し癒されます。
暗証番号を入力すると、扉が自動で開きます。寮監室から寮母ババアが出てきました。そして、「あんたに客だよ」と言ってから、私の了解も得ずに車椅子を押し始めます。応接室に待っていたのは、刑事の吉谷さんでした。身が強張ります。石黒さんの追及は知らぬ存ぜぬで躱したのですが、今度は警察ですかと。しかし、吉谷さんの顔つきは、捜査に来た刑事のそれではありませんでした。
「防人さん、お預かりしていた物を返しに参りました。どうぞ」
渡されたのは二枚の紙。線がグチャグチャ描かれたもの、多種多様な文字が重なって打ち込まれたもの。松柄さんが部室に遺した暗号らしき何かです。
「ありがとうございます。お役に立ちましたか?」
「いいえ、残念ながら」
「そうですか。お忙しい中申し訳ありません。刑事のお仕事は大変でしょうに」
「否定はしませんが、今日の午後は公休扱いになってまして。本当なら昨日が休みだったのですが、偶然にも指名手配犯を逮捕して、午後勤務扱いに」
「なるほど、それで代休が取れたと。お手柄じゃないですか! 指名手配されるほど罪深い逃亡犯を捕まえる、刑事冥利に尽きるのでは?」
素直に感服し、吉谷さんを褒め称えます。照れたような素振りをしつつも、彼女は私の顔から視線を外しませんでした。先ほどから妙に見つめられている気がします。私の可愛さに見惚れていらっしゃるのでしょうか。
「あんた、仕事中じゃなかったのかい。客に茶も出さない失礼なババアになるところだったよ。どら焼きか羊羹かどっちがいい?」
「いえ、お気遣いなく……」
「私はどら焼きがいいです。月喜屋さんの所の生クリーム入り」
「なんであたしのマル秘冷蔵庫の中身を把握してるんだい。卑しい小娘め」
憎らしげに言いながらも、渋味の利いた熱いお茶とどら焼きを、私の分まで用意してくださいました。ずっしりとした餡子の上品な甘みが、もちもち生地が音頭を取る小刻みな咀嚼によって、濃厚な生クリームと完全に調和します。疲労が全部吹き飛びました。あまりの美味しさに言葉を失くした吉谷さんへ、月喜屋の場所を教えて差し上げます。
「知りませんでした。学区の方にはほとんど行かないから」
「近くに『Tiny Life』と言うカフェもありまして。コーヒーもですが、スパゲッティとスイーツが絶品なのです」
「小暮のとこか。アイツは昔っから料理が上手かった。オープン祝いからずっと行けてないのが悔やまれる。寮の切り盛りが忙しくてさ。問題児も多いし」
「問題児ですか。参っちまいますねえ」
「ミヤコもいい線いってるよ。まあ、アンタはホントにヤバい問題は起こさないからね。可愛いもんさ。頼んだソーラーパネルの件はどうなってる?」
「ほとんど盈さんが調べてますよ。パネルではなくコンディショナがイカれている可能性が高いと仰ってました。私は何もしてないというか、出来ません。屋上に入ることすら一人では難しいのですから」
能力を使わなければの話ですが。お茶を飲みます。どら焼きの後味が、茶葉の苦味を旨みに昇華させました。胸の真ん中がじんわりと温かくなり、丘陵に広がる茶畑の穏やかな光景が幻視されます。
寮母ババアが頷きました。
「それで良いのさ。アンタとミチルが問題を起こしたのなら、ミチルが九割五分悪い。ミチルの歳になっても子供のままな奴はこの世にごまんといるが、それでもアイツは、アンタの保護者を気取るくらいには立派な大人だからね」
「耳が痛い話です。あの、ソーラー発電でトラブルが?」
「ああ。実の所だ、四日前に一回壊れて、三日前に修理したんだ。なのに昨日また壊れた。偶然ならいい。しかしそうじゃなかったら? もう一回修理してもまたまた壊れるかもしれん。寮の予算は無限とは程遠い。イタチごっこにゃ付き合いきれない。問題児よりも参っちまうよ」
「事件性がある話では?」
「まだなんとも。とりあえずミチルの報告待ちだね。でもだ。アタシの勘だと、あるね事件性。素人の勘なんて、刑事さんには笑われちまうかもだが」
「笑いませんよ。直感の優れた方が現場近くにいらっしゃったら、それだけで解決がスムーズになることもあります。器物損壊は立派な犯罪ですので、疑惑が強まればいつでも刑事課に相談なさってください。……尤も今は、対応が後回しになるかもしれませんが」
「正直でよろしい。生徒の死亡事件だけでも胸が苦しいのに、商店街で爆発事故が起きたんだって? 被害者がいないのは不幸中の幸いだが。油断ならないね。空気が傾き始めている。また何か起きるやも」
「さすがですね。午前中、ウチの係長も同じことを言ってました」
飲み物がなくなったところで、夕食の支度を手伝うために寮母ババアが席を外し、お休み中の刑事さんを交えた女子会はお開きになりました。吉谷さんは帰り際、連絡先の交換を求めてきました。断る理由はなく応じます。彼女のアカウント欄は、罪を犯す予定のない私にとってとても心強いものです。
予期せぬご相伴に与った分のカロリーを消費すべく、散策に出かけます。いや、腹ごなしというのは建前で、考え事の間に居眠りしてしまわぬよう、体を動かしておきたかっただけでした。どら焼きから得た糖分をフル活用し、昼休みの出来事に思いを馳せます。
なぜ石黒御影さんは、広場で怪奇的な振動現象が発生したちょうどその時、私がそこにいたと知っていたのか。バレること自体は不思議ではないのです。車椅子の少女の目撃情報と、模擬店レンタルストアの店長さんから得た証言を合わせれば、防人都が事件当時広場にいたと推測するのは難しくない。あるいは、広場に防犯カメラがあって、記録がバッチリ残っていたとか。残念ながら、そうと分かっていながらも、フィクションに出てくるスパイのような根回しの手腕は私になく、放置せざるを得ませんでした。証拠とともに問い詰められれば、たまたま無傷で済んだものの、話すと恐怖が蘇りそうだから黙っていたと、シラを切り通すつもりだったのです。しかし、捜査結果を引っ提げて現れるのは、警察であるはずでした。石黒家が絡んでくるなぞ想定の範囲外です。警察を圧力で抑えたか、あるいはより根本的に、商店街の首根っこを掴んで警察への真実の伝播を防いだか。十中八九後者でしょうね。商店街の土地やリース店舗は石黒家が所有していますから。あと、石黒御影さんが認めていた通り、彼らの名が強いのは朧煙の土地のみであり、公権力の警察を操るまでの技量はないはずです。
石黒家が情報を独占し、かつ自らそのことを暴露して、私の反応を探った意味は何かしら?
「どうしたんだ? 防人さん。そんな真剣な顔して」
フッと思考が止まりました。最近どうもおかしいのです。その男性の声を聞いた時、ハンバーグに突き刺したフォークのデミグラスソースを舐めとったのと似た感覚を味わって、脳の規律が乱れてしまう。
目の前に、タオルで汗を拭きながら、水筒のドリンクを口に流し込む湯ノ原がいました。散策しているうちに、ハルニレの下まで車輪を回してきてしまったようです。体裁を繕うため、慌てて会話の引き出しを探りました。
「ゆ、湯ノ原に共有すべきことがありまして。石黒家はご存知で?」
「もちろん。ここらじゃ一番の家柄だ」
「新入生に石黒の娘がいて、彼女に揺さぶりをかけられました。広場からどう逃げたのかと」
「なんだって!?」
驚く湯ノ原の手から、汗を吸って重くなったタオルがすり抜けました。土で汚れてしまって、勿体無い。逞しい足と一緒に洗ってあげたい。
「防人さんの力に気づいて、取り込もうとしてるんじゃないか?」
「飛躍しすぎです。この町でああも大っぴらに能力を使ったのは初めてのこと。しかも、人の目やカメラに認識されるようなヌルい動きはしませんでした」
「防人さんがそう言うのなら……。でも、異能に気づくまではいかなくても、普通じゃないことぐらいは感じ取って、興味を抱いた可能性は否定出来ない」
湯ノ原の懸念は正しいです。目をつけられたのは間違いありません。煩わしいとしか言いようがない。こちとら、松柄さんの分まで祭りを盛り上げなければいけない、忙しい立場ですのに。
「ところで、膝の上に紙が乗ってるけど。前も持ってたよな」
「松柄さんが遺したものです。暗号、なんでしょうかね」
湯ノ原の目が鋭く細められました。胸がドキリとします。「写真を撮っても?」と尋ねられて、コクコクと首肯を返しました。バッグからタブレットを取り出し、懸命に撮影を試みる彼。けれど、夕方に差し掛かった今、手元の影が邪魔をして上手くいかないようです。
「文芸部のドライブにオリジナルのデータがアップされてます」
「そっちの方が良さそうだな」
画像ファイルを送ります。彼のタブレットに小型の映写機が繋がれました。レンズから映し出されたのは、件の二枚をホログラムにしたもの。近未来的でかっこいい。二つの画像が重なります。
「線を連ねた方について、文字の方のギリシャ文字部分だけくり抜いて」
ホログラムのアプリには、音声入力AIも搭載されているようでした。彼の指令に従って、ぐちゃぐちゃだった線の集合が整頓されます。
血の気が引きました。
「ルナ・チルドレン」の九人全員が共同で行った、最初で最後の実験。互いの「発受信体」をシンクロさせて呼び出した、呼び出してしまった狂気の土クレ──クソジジイの「月嫡再臨」を終わらせ、私の足の自由をも奪った「月の紛い物」が、出力された絵の中で、不気味な微笑みを浮かべていたからです。
寮母ババア「ミチルの歳になっても子供のままな奴はこの世にごまんといるが」
↑作者のことです




