16
朧煙高等学校三年生、松柄風水の死亡事件についての捜査は、早くも暗礁に乗り上げていた。
警察署三階の会議室には、土曜日の深夜にもかかわらず、つい先ほどまで人がいたかのような熱気がこもっていた。汗の匂いも若干するが、本件の担当者に喫煙者はいないからか、あまり気になるものではない。それより吉谷の癇に障ったのは、机上に散乱する飲み物やカップ麺、菓子の残骸の数々だった。せっかくゴミ袋を設置したのに、誰も利用していない。普段は年長者の立場から偉そうに私を扱き使うくせに、マナーレベルは小学生以下の連中だ。ブツブツと呟きながら、重ねた使用済み紙コップをゴミ袋に叩きつける。吉谷はひどく苛ついていた。抱えた仕事に三日も進展がなければ、誰であっても多少のストレスは溜まるものだ。感情が麻痺するまでには、まだ時間がかかりそうだった。
コピー用紙を繋げて作られた即席の大地図には、事件現場と、手応えなしだった聞き込みの詳細に加えて、烏龍茶のシミが記録されている。ホワイトボードに描き出された、松柄とその周辺人物の相関図は、吉谷の努力もあってかなり具体的だった。しかし、ここから殺人事件の脚本を考察するとなると、「日進月歩」の月歩よりは大きな論理的飛躍が必要となる。松柄が後輩の防人都に宛てたメッセージには、明確な死の予感が含まれていた。自殺か他殺か、その二択なのは確定したと言っていい。問題は、遺体に外傷がなかったことだ。ああも綺麗に死ぬ方法は限られている。にもかかわらず、死因調査を担当する医療者の顔色は悪い。
机の端から落ちかかっている、朧煙校に関わる事件のファイルの数々を綺麗にまとめ直した。彼女の脳裏に嫌な言葉がちらつく。迷宮入り。まだ慌てる時間じゃない。商店街の方でも何か騒ぎがあったらしく参ってしまうが、そっちは自分たちの管轄ではないだろう。己に言い聞かせて、会議室の電気を消す。
帰宅した。明日の日曜日は公休日だ。偶然にも世間の休みと被っている。風呂に入ったのち、ビールを一缶開けてから、吉谷は眠りについた。
夢を見る。子供の頃、東京に住む叔父と交わした会話。
「月にも地震があるのは知っているかい?」
「えーっ!? 意外。静かそうなのに」
「そうだね。最も活発そうな満月すら、この星で眠る子供たちを泰然と見守る、冷静沈着な瞳のようだ。事実、彼または彼女の精神はひどく安定していて、地球とは違い、内側の激情によって揺らぐことはほとんどない」
「じゃあどうして地震が起きるの? 学校で習ったよ。地震が起きるのは、プレートの押し合い圧し合いが原因だって。あと、断層の運動とか、火山の噴火」
「偉い! よく勉強している。この星の地震は、この星が生きているから生じるのだ。地球の命の輝きがもたらす熱と歪みが、巨大なエネルギーとなって、地殻を揺るがす恐ろしい爆弾になる。でも、月の地震『月震』は、その多くが外部からの働きかけによって起きるんだ。地球や太陽の引力、昼夜の温度差、隕石の衝突。地殻変動が原因だと疑われるものも観測されるが、サンプルのごく一部に過ぎない。月は月自身の朴訥さ、穏やかさによって、環境を取り巻くノイズに曝されやすい。その鳴動は、怪獣の遠吠えを彷彿とさせる、低く長いものになる」
「なんだか、かわいそう」
「ひょっとすると、可哀想なのかもしれないね。でも、もし月がイメージ通り静かな星だったなら──月の悲鳴がなかったのなら、僕たちは、彼または彼女の内面を、何も聞いてあげることが出来ないんだ」
吉谷は叔父の、小説の登場人物めいた言葉遣いが好きだった。月の大地と同じくらいに心が乾き切った今だから分かる。彼は自分の閉じた世界の中で、月になんらかの象徴的意味合いを持たせていた。生ぬるくて湿っぽい、熱と水が必要な芸当。私だったらカビが生えてしまう。
昼頃に起床した。スマートフォンをチェックする前から、SNSのニュースアカウント以外の通知がないことは推測出来た。呼び出しがあったなら、彼女は即座にスーツに着替えて、署か現場に直行している。緩慢な動作で以ってポットに水を入れ、沸かす間に洗顔と歯磨きを済ませる。買い置きのカップ麺にお湯を注いだ。スクワットをしていたら、醤油の香りが立ち込めてきた。仕上げにごま油を少量入れて、ボソボソとした麺を啜る。初めてこの組み合わせを試した時は、すわ味の革命かと驚愕したものだった。もう何も感じないが。ごま油がなければ物足りなさを、ごま油以外を入れたら違和感を覚える、つまらない舌になってしまった。
腹拵えを済ませた彼女は、硬い床の上で座禅を組み、落ちる埃の一つに集中した。そして、火曜日の昼から夕方までに、松柄を無傷のまま殺害し、朧煙校の隣に聳える丘の頂上に死体を転がす方法を模索する。昨日までの三日間で、同僚と死ぬほど繰り返したシミュレーション。最も疑わしいのは毒だが、人を即死させるようなものなら、体のどこかに急変の痕跡ぐらい残すはずだ。遺族の許可の下、検死は徹底的に行われた。被害者の体は健康そのもの。生命活動を停止させた決定打すら見つからない。現状で考え得るどのシナリオでも、松柄の状態を説明するのはほとんど不可能だった。八方塞がりだ。理外の魔法で息の根を絶たれたのだと言われれば、諸手を挙げて信じてしまいかねない。
吉谷は猟犬だ。まだ若いにもかかわらず、絞った候補の中から犯人を嗅ぎ分け追い詰めることに掛けては一級の能力を持つ。しかし、最初の絞り込みすら覚束ない現在、彼女はほとんど無力であった。社会に出てから初めて直面する、巨大で分厚い壁。どうしようもなく重苦しい。ダメダメだ。
唸る。座禅を解いた。ダメになったままでは、月曜日、同僚に迷惑をかけてしまう。気分転換をしなければならない。そうだ、騒ぎがあったという商店街でも見に行こう。普段は馬鹿にしている野次馬根性を丸出しにした動機で、彼女は靴を履き街に出た。
吉谷が住むアパートと商店街は、目と鼻の先にある。西側の門を潜った。駅に面した南門とは異なり、おどろおどろしい石細工の販売店は展開されていない。代わりに存在する揚げあんぱん屋は、警察署に勤めるほぼ全員から高い人気を博している。ホカホカの揚げあんぱんを購入してから、吉谷は道の先を眺めた。普段であれば、その優れた視力によって、反対側の門に書かれた「朧煙商店街」の文字を読み込めるのだが、今日は人集りで視界を阻まれた。騒ぎがあったのは広場らしい。あんぱんをペロリと平らげて、スマホを掲げる集団に近づいていく。
ふと冷静になって、途中で足を止めた。
小さく舌打ちする。ただでさえ厄介なネタを抱えているのに、自分は何をやっているのか。現場を見張る知り合いたちに見つかったとしても、十中八九会釈を交わすだけで終わるだろうが、絡まれる可能性はゼロではない。すると、記者や正義漢気取りの動画作成者に事件の担当者と勘違いされ、取材なる粘着行動をされて、本来の仕事に支障をきたす。休日刑事が野次馬になるなぞ、鹿が付いて野次馬鹿である。
帰らなければ。天下の商店街で起きた事件の概要くらい、現場を訪れるまでもなく、知ろうと思えば簡単なのだ。地域ニュースで取り上げられているだろうし、明日、噂の収集が好きな総務のおばちゃんにでも聞けばいい。
しかし。返す踵もまた止める。ここまで来てしまったのなら、生の声も聞きたいものだ。好奇心は猫を殺すが、彼女は猟犬だった。別に空振ったっていい。一般人を装って、たまたま近くにいた中年女性に尋ねる。
「あの。人が集まってますけど、何かあったんですかね?」
女はギョッと驚いてから、脱兎の如く逃げ出した。彼女が駆け込んだのは、焼き菓子店とコーヒー豆専門店の間の小道。警察という生き物の習性で、吉谷はとりあえず女を追いかけた。若くして刑事に選ばれる体力エリートが、痩身の中年女性に競走で負けるわけがない。捕まえるのに二十秒も掛からなかった。
警察手帳を掲げてみる。女は、観念したかのように項垂れた。どうやら自分は、何かの当たりを引いたらしい。スマホで写真を撮影し、警察専用の指名手配犯AI照合アプリにスキャンさせたところ、一致する人物がいた。香月玲緒奈。被疑項目は詐欺、窃盗、未成年の人身売買。三つ目には総毛立つ。嫌悪に満ちた視線で女を睨みつけた。
シワはあるが綺麗な顔立ち。整形の跡もない。気を抜けば、こんな美しい人が悪事を働くわけがないと、意識にバイアスがかかりそうだった。だから腹が立つ。そんな恵まれた容姿に生まれついて、いったいどう間違えたら、人身売買に手を染めるような悪人に堕ちるのか。
署と上司に連絡し、パトカーの到着を待つ。もう一度、香月玲緒奈の顔をまじまじと観察する。義憤ではなく既視感からだ。つい最近、どことなく似た容貌の少女に聴取を行った。可愛らしいと強そうが両立した不思議な子で、まだ強く印象に残っていた。防人都。しかしタイプがまるで違う。防人都の方は、懐いていたのだろう先輩の突然死に消沈していたものの、表情筋の動きは滑らかで、普段は明るく社交的な性格なのだろうと考察された。一方、こちらの根暗女は、ぎゅっと閉ざされた口周りは硬く鬱々しく、側に置いておくだけで空間の明度が下がりそうだ。他人の空似だなと吉谷は結論づけて、それ以上、二人の関連性に思いを馳せることはしなかった。




